みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

帰って来ようとしない

2015年09月11日 | エレミヤ書

エレミヤ書8章

 きのうは、フランクフルトからパリまで列車で移動しました。途中乗り換えなしの直通特急が運転されています。ですから、ホームの行き先案内もこんなふうです。

 車内放送もドイツ国内ではドイツ語—フランス語—英語の順序。それがフランスに入るとフランス語—ドイツ語—英語の順です。途中国境駅近くで、この列車の調子が悪いので次の駅で向かい側のホームの列車に乗り換えてくださいとの案内がありました。ドイツ語がわかる方が最初にやれやれという表情をし、次にフランス語の人、最後は私たちがやれやれ…という具合です。ところが、次に「やはりこの列車で向かいます」との案内が…。今度も、「どうしたの? でもよかったね」という表情の連鎖が見られて、面白かったです。列車は定刻にパリ東駅に着きました。

 ことばが通じて、自分の思いを相手が聞いて受け入れてくれると安堵します。しかし、そうでなかったとしたらどうなのだろうということを、8章を読んで考えました。

 エルサレムに住む人々は、日や月や天の万象の前を拝むという神への背信を続けていました。背信をしているのだと指摘されたら、なぜ彼らをそれをやめないのだろうと、主は嘆いておられるのです。「なんということをしてしまったのか。われわれは主に罪を悔い改めよう」と言う者がいるのだろうかと主が耳をそばだてていたのですが、そんな者は誰もいなかったというのです。

 預言者エレミヤのことばが彼らの心に届かず、「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」偽りのことばに心惹かれるのです。現実を見ようとしなければ、うそでも「だいじょうぶだよ」とのことばにすがります。でも、癒やされたいと願うならば、自分がやんでいることを認めることから始まる…そのようなことを覚えました。


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