エレミヤ書 6章1−15節
日曜日は、日本では秋の終わり頃を思わせるひんやりとした空気の一日でした。気がついてみたら、街路樹も少しずつ色づいています。日曜日の礼拝にはいつもより多くの方が出席され、讃美歌集が足りないほど。「うれしい悲鳴とはこのようなことですね」と誰かが話していました。
6章は、エルサレムが北からの侵攻によって攻め落とされることが語られています。神からのさばきのメッセージをだれよりも重く受け止めたのは、メッセージを託されたエレミヤ自身ではなかったでしょうか。11節に「私の身には主の憤りが満ち、これに耐えるのに、私は疲れ果てた」とあります。エレミヤは真っ正面に神のさばきの宣告を受け止めているのです。それは、彼がどれほど力をこめて、また相手にわかるように語ったとしても、跳ね返されるというようなことがあったからだとも言えます。「彼らの耳は閉じたまま」ということばが目に留まります。
他方、神のさばきの宣告を受け止めることをしないで、逃げようとする者たちもいました。それは、「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」預言者や祭司たちでした。「みことばの光」は、そのような者は現実としっかりと向き合うことをしないのだと書いています。病がどんなにか重篤であるかを知ろうとしなければ、それを知るのが怖いので、手軽にいやしたいと思います。けれども、それでは解決になりません。
神のことばが語られたとき、しかも、聞いていて心騒ぐというか、ざらざらするようなことばだとして聞いているようなときは、決して逃げないで、向き合うことが大事だと思います。逃げないで、向き合う者でありたいと願います。