みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

「主よ」と呼ぶ

2015年09月15日 | エレミヤ書

エレミヤ書12章

 

 「この列は何だろう?」あんまり長くないからと並んでみたらそれは、ノートルダム寺院の塔に上るための行列でした。徒歩でおよそ400段をのらせん階段をひたすらに上ると…、パリの景色が広がっていました。雨模様の天気で、エッフェル塔もかすんでいましたが、運動不足を解消するための階段上りができたのも、大満足でした。

 預言者エレミヤは、エルサレムの町が北からの国によってまもなく滅ぼされる、それは神に背いた罪への神からのさばきだと、人々に伝えました。そのためにエレミヤは、特に生まれ故郷のアナトテの人々から暗殺されそうになったのです。そのようないのちの危機に直面して、エレミヤは「主よ」と繰り返し呼びかけます。一つは「なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか」という問いであり、もう一つは、自分のすべてを知っておられる主が、私を殺そうとしている人々を正しくおさばきになるようにとの願いです。

 ここを読んで、主に祈るという道を持つ者のさいわいを覚えるとともに、真に強い者とは祈るという武具を持つ者なのだということを改めて教えられます。もし、自分一人で郷里アナトテの人々の攻撃、さらには暗殺計画に立ち向かおうとしたら、エレミヤはどうなってしまうのだろうかと想像してみます。とてもじゃないけれども、やっていけないだろうと考えます。

 前にも書きましたように、エレミヤ書のはじめの部分には、預言者エレミヤと主なる神との対話が多いのです。11章もそうです。「主に訴え、主が答えてくださる」というやりとりは、エレミヤに限らず信仰者が今からでも始められる神さまがプレゼントしてくださった贈り物。それを使わない手はありません。


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