みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主にささげる

2012年11月12日 | エゼキエル書
エゼキエル書46章


 日曜日には、チューリッヒ郊外のスイス日本語福音キリスト教会で礼拝しました。うれしかったのは、この教会のかなりの方が「みことばの光」を用いて聖書通読に励んでおられたことでした。
 目が開かれた思いがしたのは、個人で聖書通読をすることばかりでなくて、「みことばの光」表紙3にいつも掲載されている「毎日聖書を読む聖書同盟の方法」に沿って読んだことの分かち合いをする喜びを、何人かの方が強調しているということでした。
 確かに、分かち合うことで自分が個人的に教えられたことがさらに豊かにされていくのですね。

 46章のほとんどは、君主が神にささげる礼拝のことや、君主の相続地のことが書いてあります。神は君主が様々ないけにえを事あるごとにささげるように命じておられます。
 ここから心に留めたのは、君主とともに、民とともに神がおられるということです。
いけにえをささげるというのは君主にとっても民にとっても、惰性ですることではなく喜んで行うことです。

 いけにえをささげるのは、自分が神に近づき礼拝することです。このことを「みことばの光」では、「主は、イスラエルと常にともにいることを望み、彼らに覚えられていることを願われた」のだと書いています。

 私たちが教会でともに、そして個人で神を礼拝することについても、私たちの側の熱心が語られるのが多い場合があります。
 けれども実は、神が私たちとともにいるのを望んでおられることに気づくのは、もっと大切なのですね。





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