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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

身を起こし、頭を上げよ

2020年09月05日 | ルカの福音書

ルカの福音書 21章20−38節

「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。」21章28節

 コロナのゆえに、インターネットの通販サイトでいろいろなものを購入する機会が多くなったように思います。けれども、金曜日の繁華街は人でいっぱい。このような制限下だからこ、街を歩き店を訪ねて買い物をしたいという人もいるのかもしれません。

 宮が崩される日が来るというイエスの話が続きます。「みことばの光」が書くように、20−24節でイエスが話しておられるのは、紀元70年にエルサレムがローマ軍によって崩壊することについての警告です。ここでイエスは、具体的に悲惨な結末を避けるためにどのように行動すべきかを教えておられます。そしてこの時、イエスの警告どおりにした人は助かったと言われています。

 そして、「それから」に始まり25節以下でイエスが語っておられることと24節までの出来事ととの間には大きな時間の隔たりがあります。あるいはこの時、イエスの話を聞いた人たちの間には70年からそれほど遠くない時に、「それから」以下のことが起こるとして、今か今かとイエスの来臨を待っていた人たちもいたことでしょう。

 けれども、今に至るまで「それから」以下のことは起こりません。あまりにも自分たちの期待する時にイエスがおいでにならないと、いつしか待ち望むという期待をどこかに置いてしまうようなことも起こります。

 そのような中、28節の「身を起こし、頭を上げなさい」との主イエスのことばが心に留まります。空を見上げることが好きです。住まいから見える空はとても広く、最近はまた、飛行機雲が増えてきたように思います。満月や夕焼けの美しさに、それこそ目を見張ることもしばしばです。空を見上げる時、このイエスのことばを忘れないようにしたいと思います。


心に決めておくこと

2020年09月04日 | ルカの福音書

ルカの福音書 21章1−19節

「どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。」21章14節

 「セルフ・バーバー」第二段(正確には第三段)。少しずつ進歩しているようだと自己満足しています。毎日できたらもっと進歩するのに…と思いますが、さすがにそうはいきません。

 エルサレムの宮で、イエスは何をなさっているのでしょうか。ここにあるのはまず、献金する人を見ておられたということです。イエスのことばには今に通じる献金の姿勢が説かれています。

 次に、宮の美しい装飾をご覧になっています。正確には、それを見ている人びとの会話を聞いてのことばです。イエスがおられたのは、バビロン捕囚から帰還したゼルバベルたちによって建てられた第二神殿を、ヘロデ大王が大幅に改造し豪華にしたものです。ヘロデの神殿とも呼ばれています。

 ヘロデの神殿は、改造拡張工事の完成まで80年以上もかかったと見られています。イエスがここにおられた頃にはすでにあらかたが完成していて、人々が驚嘆するほどの豪華さでした。けれどもイエスは、これらはやがて崩されると言われたのです。聞いた人々はどんなに驚いたことでしょう。

 そしてそれに続くのは、この神殿が壊される日が来るまでに起こる一つ一つの出来事についてでした。ここを読むと、終りの日についてのイエスのことばと考えます。確かにそのことに通じています。しかし、これを聞いていた弟子たちの中には、紀元70年のローマによるエルサレムの破壊という歴史的な出来事を経験したものも少なくないことでしょう。そしてそれに至るまでを振り返って、あの時主が言われたとおりだったと語り合ったのではないかと、想像するのです。

 迫害の中で、何を弁明するのかを考えなくてもよいとのイエスのことばが心に留まります。神のみこころの中にそれが起こるのであれば、すべては、その時に言うことばでさえ、神が用意しておられるのだということに、励ましを得ます。


立派な答え…

2020年09月03日 | ルカの福音書

ルカの福音書 20章27−47節

「彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。」20章40節

 仕事をしている部屋には天窓がついています。時々「ガチャガチャ」と音が聞こえます。音の方向を確かめてみると、鳩が使われていない屋根上のテレビアンテナにとまったり、天窓に下りて来たり来たりしています。時々「何をしてるの?」と尋ねてみようかと思います。

 イエスに対する悪意のある質問が続きます。今度はサドカイ人たち。 わざわざ聖書はサドカイ人について、「復活があることを否定している」と説明しています。彼らがイエスに尋ねることは、彼らが復活を信じない理由の一つである事柄です。自分たちは確信を持っているのだから、イエスはきっと答えに詰まるに違いないと考えたのです。

 けれどもイエスは、彼らの浅薄な考えを覆してしまわれます。そして、イエスに対する各方面からの質問による攻撃は、それぞれに対するイエスの答えの非の打ち所のなさゆえに、止んでしまいます。

 私たちはさまざまな質問、問いかけに、よどみなく答えることはできません。何となく曖昧にしたり、口ごもってしまうようなことも度々です。深く詳しく学び、研究を重ねている人は、専門の分野での知識は並外れていることでしょう。けれども、完全に…ということではないはずです。

 完全な知恵をお持ちの方、律法をお与えになったお方が、私と一緒におられるということの心強さをここから覚えます。それとともに、より深くこのお方、イエス・キリストを知りたい、知らせてくださいとの思いも湧いてくるのです。


驚嘆して黙る

2020年09月02日 | ルカの福音書

ルカの福音書 20章20−26節

「答えに驚嘆して黙ってしまった。」20章26節

 先週治療した歯茎の抜糸をしました。何となく引きつっているような違和感がありましたが、糸が取れてしばらくすると、口の中が解放された気持ちになりました。治療のためとは言え、縛られているのはどこか不快なのですね。そんなことを書きながら、ベルリンでのいわゆる「マスク反対」(それだけではないのですが)のデモのことを思いました。

 25節の「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」というイエスのことばは、信仰と政治、教会と政治を論じる際によく出てくるものです。改めて読んで考えるのは、イエスはこれを、今で言うならどこかの講演会、大学の教室でではなく、非常に緊迫した中で語られたということです。しかも、質問に答えるかたちで…。

 質問は、悪意に満ちたもので、イエスのことばじりをとらえて、答えによってはローマの総督に引き渡そうとするものでした。もちろんイエスは彼らの動機をご存じのうえで、「そんなあなたがたの質問に答える義務はない」とはせずに、その後今に至るまで信仰者、教会が心すべき大切なことばをもってお答えになったのです。

 ユダヤ人の質問者は、「カエサルを自分たちの支配者とは認めない、支配者は神なのだから」という信念というか、確信を抱いていました。ですから、彼が(彼らが)想定していたのは、「律法にかなっている」「かなっていない」といういわゆる一択でした。それでいながら、もしもイエスが「かなっている」と答えたら、彼らは自分たちが苦々しく思っているローマの制度を利用してイエスを殺そうとしているのです。

 しかし、ことばじりをとらえようとして巧妙な質問を用意した彼らには、その矛盾に気づかないのです。もちろん、イエスはご存じでした。そして彼らは、イエスの教えに驚き沈黙するしかありませんでした。


問いかけに何と答えるか

2020年09月01日 | ルカの福音書

ルカの福音書 20章1−18節

「どこから来たのか知りません。」20章7節

 久しぶりに同労の方からのお電話。嬉しくて話が弾み、互いにコロナ下での苦労、そこで生まれる新しい可能性などを分かち合いました。元気をいただいた通話でした。

 9月を迎え、「みことばの光」はルカの福音書の終わりの部分を読みます。20章はおそらく火曜日の出来事。その週の金曜日にイエスは十字架につけられますので、4日前にエルサレムの宮で起こった出来事がここには記されています。

 イエスご自身はご自分が間もなく十字架で殺されるために捕えられることを知っておられました。その四日前には宮で福音を宣べ伝えておられたのです。少し飛躍があるかもしれませんが、このイエスのお姿からキリスト者に常に、そして最後まで与えられているのは福音を宣べ伝えることなのだと、考えました。

 ここでイエスは、宮の管理をしている祭司長たち、そして律法学者たち、長老たちから「何の権威によって」と問われます。これに何と答えるのかで、ここでイエスを捕えようと目論んでいたのかもしれません。しかし、イエスがいつ、どのように、何をするのかは彼らが決めることではなくて、それこそ神の権威によること。そこでイエスは、ヨハネのバプテスマは、天から来たのか、それとも人から出たのかと、逆に彼らに問いかけるのです。たちまち彼らは追い込まれます。どちらを答えても自分たちが困ったことになるということが分かったのは、さすがだと思います。

 そして、彼らが振り絞って出した答えは、「…知りません」でした。一生懸命論じ合った結果が、自分たちの立場や評判を守るためには「…知りません」と答えざるをえないというのです。

 そして神をではなく人を恐れることによって、彼らは福音そのものであるお方が目の前にいるのに、それを受け入れて救いを得る機会を逃してしまったのです。

 主イエスの問いかけには、評判や立場をかなぐり捨てて、素直に答える者であろうと思います。


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