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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神を思う所

2020年08月19日 | ルカの福音書

ルカの福音書 19章41−48節

『わたしの家は祈りの家でなければならない』と書いてある。」19章46節 

 一日の課題をひとまず終えたので、郵便を出しに近くのポストに出かけました。南と北には黒雲があり、明らかに雨が降っている様子。できれば足を伸ばして…と考えていたのですが、郵便物をポストに入れた途端降ってきました。予報どおりです。

 子ろばに乗り、オリーブ山の西麓斜面を歓呼で迎えられたイエスは、エルサレムに建てられているヘロデ大王の手による神殿を見て、エルサレムのために泣かれました。歓呼と泣き声とは対照的。イエスの涙は、もう間もなく崩れ去ろうとしているエルサレムのために流されたものです。

 それはなぜか、「神の訪れの時を、おまえが知らなかったから」でした。イエスはこの都の主、まことの王として町に入ろうとしていますが、そこで待ち受けているのは拒絶と憎悪、そして死です。イエスが今、この都のはいろうとしているのは「神の訪れの時」なのですが、彼らはそれを知らない、いや、知ろうとしないのです。

 宮に入ったイエスがしたのは、そこで商売している人々を追い出されたこと。ここには巡礼者礼拝者のためのいけにえが売られ、宮でしか通用しない通貨に両替するための商売人もいました。彼らの思いはお金のこと、商売のこと。おそらく、儲けになるために巡礼者をだますなどということも行われていたのです。「強盗の巣」とは厳しくも彼らの様子を言い当てたことばです。

 宮で商売人は儲けを思った、しかしイエスは神を思われたのです。イエスがこの場所を「わたしの家」、そして「祈りの家」と読んでおられることに目を留めます。そして考えます。

 自分が神を思う所とはどこなのだろうか…と。


主がお入り用なのです

2020年08月18日 | ルカの福音書

ルカの福音書 19章28−40節

主がお入り用なのです。」19章34節

 近所のバス通りが工事のために一部通行止め。そのためにバスが住宅街の生活道路に迂回しています。そのために、わが家の窓からバスが通る様子を見ることができます。貴重な場面です。

 イエスの一行は遂にエルサレムの東にあるオリーブ山の東麓に着きました。そこにはベテパゲ、ベタニアがあります。イエスはここで、エルサレムにお入りになる際に乗る動物を調達します。子ろばです。

 「向こうの村」がベテパゲかベタニアのどちらかは分かりません。どちらにしても、イエスはその村に子ろばがつながれているので、ほどいて連れて来るようにと二人の弟子に言われます。「ほどいて、連れて来なさい」といっても、持ち主がいます。案の定、子ろをほどいていると持ち主がなぜ子ろばをほどくのかと問いました。

 その時二人は、イエスが授けた「主がお入り用なのです」と持ち主に言いました。すると、子ろばはイエスさまのお役のためにと渡されたのです。

 「主がお入り用なのです」とは、予めイエスが子ろばの持ち主とのあいだに交わしておいた「合い言葉」だったと考える人がいます。そうかもしれません。

 このことばが届けられた時には何を差し置いても…と心新たにしました。


主人が戻る時に

2020年08月17日 | ルカの福音書

ルカの福音書 19章11−27節

おまえはほんの小さなことにも忠実だったから、…」19章17節

 お友だちからゴーヤをいただきました。当地では大変珍しいものなので宝石を手に入れた気分。実際にきらきらと輝いているように見えました。豆腐を手作りして「ゴーヤチャンプル」でいただきました。夏に最高のおかずですね。美味しかったです。

 エリコを過ぎ、イエスと一行の旅はエルサレムにあとわずかという所にまでなりました。イエスがエルサレムに近づくとともに、ついて歩く人々の期待は高まります。「神の国がすぐに現れると思っていたからである」とルカは書きます。本章の後半には、子ろばに乗ってエルサレムに入城するイエスを、弟子たちはじめ大勢が歓呼のうちに迎えることが記されていますが、その歓呼が何を期待してのものかが、きょうの箇所から分かるのです。

 もうすぐだ、もうすぐだ…との高揚感を、イエスがご存じなかったはずはもちろんありません。イエスはここで、人々の期待に水を差すようなことをお語りになります。このたとえのある身分の高い人とはイエスご自身を指します。このたとえには、身分の高い人を巡っての二つのグループが出てきます。

 一つはこの人に王になってほしくなかった人々。彼を憎んでいたのです。これは間もなくイエスがエルサレムで経験することの預言です。しかし、イエスは彼らによって殺されるのですが、それは彼らのもくろみをはるかに超えた罪人を救うという神のご計画の実現なのです。しかも、王になるのを望まなかった者たちはやがて殺されます。

 もう一つのグループは、この人のしもべたち。この人はしもべたちに金を与えて、戻って来るまでにこれで商売するように言います。彼らは、いつかは分からない主人が戻る日まであずかったものを用いて仕事をするのです。やがて主人が戻って来た時が清算の時。しもべはその働きに応じて主人の正当な評価を受けます。

 どこを目指しているのか、そして、自分の人生とイエスが再びおいでになることに結びつきがあることを強く意識する箇所です。


ついて行った

2020年08月15日 | ルカの福音書

ルカの福音書 18章31―43節

その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。」18章43節

 昨日訪ねてくださった方の手作りタルト。夏のお菓子、美味しくいただきました。きょう、8月15日は終戦の日です。

 18章後半にはイエスについて行く人々のことが記されています。

 まずは弟子たち。ルカの福音書でイエスがご自分の受難と復活の予告をされるのは、暗示的な言い方を含めると7回目。5章35節、9章22節、44節、12章50節、13章32節、17章25節、そして18章32−33節です。ところが、聞いた弟子たちは何一つ分からなかったと言うのです。そしてその理由が彼らにはこのことばが隠されていたからでした。イエスは彼らに分からないことばを話されたのではありませんでした。

 「何一つ分からない」ということばに目が留まります。これだけ一緒にいるのだから少しは分かるのではないかとも思うのですが…。弟子たちがイエスに勝手なな期待を抱いていたからということかもしれませんが、イエスが教えることばは、聖霊の助けがなければ分かりません。弟子たちが分からないのなら、私が分からなくても大丈夫と安心するのは焦点がずれていますね。

 しかし彼らは、やがてすべてを理解してイエスのあとについて行くのです。

 次は道端に座り、物乞いをしていた目の見えない人。この人はイエスに助けを叫び求めて、「あなたの信仰があなたを救った」たとのイエスのことばをいただいて、目が見えるようになりました。そして、神をあがめながらイエスについて行ったのです。彼のこの姿は、イエスを信じたものすべての人に通じます。「神をあがめながらイエスについて行く」のが私の歩む道だと改めて確認することができました。


持たない者、持つ者

2020年08月14日 | ルカの福音書

ルカの福音書 18章15−30節

神の国はこのような者たちのものなのです。」18章16節

 買い物のため街中に出ました。通りにはたくさんの人。大丈夫だろうかとちょっと心配しながら、久しぶりに教会の30分オルガンコンサートに…。月曜日と木曜日に行われていて、昨日が第3602回とありました。1983年9月1日が第一回とのことですので、37年になるのです。

 イエスのところにはいろいろな人がやって来ます。この箇所には、全く対照的な人々が登場します。幼子たちと金持ちの指導者です。弟子たちは幼子を連れて来た親たちを叱ります。「幼子ごときで…」というような思いが彼らの中にあったのでしょう。何も分からない子どもたちの相手をするほど、私たちの先生は暇ではないとして、叱ったのかもしれません。

 イエスは幼子たちをご自分のもとに来させよと言い、神の国はこのような者たちのものだとまで言っておられます。

 二人目は金持ちの指導者。マタイの福音書にはこの人が青年であったとあります。イエスのところに来た動機、イエスとのやり取りを読むならば、非の打ち所のない立派な人物像が浮かび上がります。しかし、彼はイエスのところから去って行きました。彼が求めているものを与えることのできる、まさにそのお方のところに来たのに、彼は去って行きました。何が彼をそうさせたのでしょうか。富でした。

 何が人を神の国に迎え入れるのか、それは人が何かを持っているからというのではないのだということを、ここから改めて覚えるのです。 


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