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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

親しくなったわけ

2020年09月11日 | ルカの福音書

ルカの福音書 23章1−12節

「この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである。」23章12節

 爽やかな9月の晴天。受診した歯医者さんも「気持ちがいい日ね。楽しんで!」と送り出してくれました。

 23章は、金曜日の出来事を記します。早朝の最高法院での審問で神を冒瀆すると判決を下されたイエスは、ローマ総督ピラトの所に連れて行かれます。彼は普段はカイサリアにいるのですが、過越の祭のエルサレムには大勢の人が詰めかけるために、暴動などが起こらないようにと、エルサレムに滞在していました。

 イエスが十字架につけられたのは朝9時ですので、最高法院の審問、そしてピラトによる審問、さらにはガリラヤの国主ヘロデの審問と、三つの審問は朝早いうちに立て続けに行われたことが分かります。

 そしてそのどれもが偽りに満ちたものでした。ユダヤ人の指導者たちはイエスを何としても亡きものにしたいとでっち上げの証拠を採用し、ピラトはイエスには死に定められるようなことが何もないと知っていながら自分の権威を歪め、ヘロデはイエスによって個人的な喜びを満たそうとしました。ピラトとヘロデが親しくなるということも、自分のことを考えてのことでした。

 誰一人としてイエスのことを考えてはいないのです。自分(たち)のことばかり…。それらの偽りの審問のすべてを受けながら、イエスは何を考えておられたのでしょうか。神のみこころがご自分の身によって、ご自分が受ける苦しみと死によって為されることを、ずっとこの間思っておられたのではないでしょうか。


イエスのまなざし

2020年09月10日 | ルカの福音書

ルカの福音書 22章54−71節

「主は振り向いてペテロを見つめられた。」22章61節

 近所で行われているバス停の工事。20メートルほどの区間が通行止めになり、路線バスも住宅街を大きく迂回して走っています。もうすぐ終わりそうなのですが、通行止めは解除されません。そればかりでなく、隣のバス停の工事も始まり、さらに昨日からは地下鉄(このあたりは地上を走っていますが)で二駅先の駅付近では、線路をはがしての大規模な工事が始まっていました。一つ終わらせてから次をすればよいのに…と素人目では考えるのですが、いろいろな事情があるのでしょう。

 「あの木曜日」の夜のペテロは、一つ終わらせてから次を…というような気持ちではなかったでしょう。次々と負荷がかかる中で、自分が考えてもいなかったことさえもしてしまうような、奈落の底に陥るような気持ちを味わったように想像します。

 それは、弟子の代表としては惨めなしくじりの連続でした。「牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」と言ったはいいのですが、ゲッセマネでは眠り込み、イエス逮捕の場面では剣を振るって相手の一人の耳を切り落とし、さらには、イエスを知らないと三度も言うのです。

 そんなペテロに注がれるイエスのまなざしはどのようなものだったのだろうかと、61節を何度も読み返しながら考えるのです。


みこころがなるように

2020年09月09日 | ルカの福音書

ルカの福音書 22章39−53節

「父よ、みこころなら、この杯を私から取り去ってください。しかし。私の願いではなく、みこころがなりますように。」22章42節

 帰宅途中、高速道路から見るかなりの角度斜面を電車が登っていました。脇見運転はできないので帰宅してから地図で確認したら、前日に乗ったラック鉄道でした。必要が発明や工夫を生むのだと改めて思いました。

 この箇所には、「木曜日の夜、ゲッセマネで…」というタイトルがつくかもしれません。

 弟子たちとの過越の食事の後、イエスと弟子たちはオリーブ山に行きました。この場所をマタイとマルコの福音書は「ゲッセマネという所」と書き、ヨハネの福音書は「ケデロンの川筋の向こう側」、「そこに園があって」と記します。よく言う「ゲッセマネの園でのイエスの祈り」の場面です。さらに、マタイとマルコではイエスが三度同じことばで祈られたと書きますが、ルカは簡潔に一度の祈りのことばを記しています。

 42節の祈りのことばを読んで思うのは、主イエスは徹底してご自分の願いではなくて父なる神のみこころがなるようにと祈っているということです。イエスが飲まなければならない杯(さかずき)とは、十字架に至までの苦しみ、そして十字架上での苦しみ、そして死でした。「杯」ということばは、苦難、そして神の怒りとつながりがあります。詩篇11篇6節は「主は悪者どもの上に網を下す。火と硫黄 燃える風が彼らへの杯」とあり、イザヤ書51章17節では「目覚めよ、目覚めよ、エルサレムよ、立ち上がれ。あなたは主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」

 そのどちらも、神のさばき、神の憤りを表現しています。罪なき神の子が罪人が受けるべき神の憤りを身に受けようとしている、イエスは祈りの中でそのことを強く覚えておられるのです。

 「神のみこころがなるように」が祈りの真髄であるとは、何度も聞かされてきたことかと思います。自分は何を神に祈っているのだろう、自分の願いや思いどおりになるようにということだけを祈っているのではないかと問われます。また、「どうせ神のみこころがなる」のなら祈る意味があるのかという冷めた思いはないか、とも考えます。願いの実現とみこころがなるようにとの間にあって祈れと、背を押されます。


あなたのために祈りました

2020年09月08日 | ルカの福音書

ルカの福音書 22章24−38節

「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」22章32節

 以前から乗ってみたかったラック鉄道の一つに乗りました。ラック鉄道とは、急勾配を上り下りするために線路の中央に歯形のレール(ラックレール)を敷いて、車両の歯車とかみ合わせて運行する鉄道のことで、昨日乗ったのは、最大の勾配が1000メートル走るのに90メートル登るというものでした。

 この箇所に書かれているのは、最後の晩餐の席でイエスが弟子たちに語られたことです。

 初めは、弟子たちの議論を受けてのことばです。弟子たちは、食事の席上で誰が一番偉いかということを論じ合っていました。イエスがここで、ご自分が間もなくいのちを落とすことを前提にして話しておられるのに、彼らの関心は違っていたのです。

 しかし、ここでイエスは、そんなことに議論している弟子たちを叱られはしませんでした。た偉くなってはいけないと言っておられるのではありませんでした。むしろ彼らの関心を受けて、真に偉いのはどのような人なのかを教えておられるのです。28節に注目しました。イエスはそんな弟子たちが、ご自分のさまざまな試練の時に一緒に踏みとどまってくれたともおっしゃいます。

 次にイエスは、ペテロの身に何が起こるのかもお語りになりました。しかし、ペテロを突き放すように話されたのではありません。ご自分とペテロの関係について、ペテロは大きな揺さぶりを受け、結局は大きな過ちを犯すと言っておられるとともに、立ち直ったら兄弟たちを力づけよともお伝えになりました。

 イエスがペテロのためにとりなしておられるということから、私のためにもそのようにしてくださるのだとの思いを新たにしました。嵐のまっただ中で信仰の大きな揺さぶりを受けている自分のためにも「立ち直るように、立ち直ったら…」と祈っておられるのです。


二つの思い

2020年09月07日 | ルカの福音書

ルカの福音書 22章14−23節

「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。」22章15節

 スイスから書いています。日曜日はチューリッヒにある日本語教会の礼拝に出席させていただきました。コロナ下で、私が牧師をしている教会のライブ配信での礼拝に参加してくださった方も少なくなく、ほぼ10か月ぶりなのですが、いつもお目にかかっているような不思議な気持ちがしました。

 この箇所には、イエスが弟子たちと「過越の食事」をしているときのことが書かれています。いわゆる「最後の晩餐」として知られているものです。ここでイエスが語っておられるのは、教会の聖餐式の折に読まれることもあります。

 目に留まるのは、イエスが弟子たちと一緒に食事をするのをどんなに願っておられたのか、ということです。この食事から24時間後に、イエスは十字架上で死に、その体は墓に葬られているのです。それを前にして、イエスはパンを取ってご自分のからだだと言われ、杯をとってご自分が流す血だと言われました。

 その大切な、イエスが切に願っていた場で、ある者はイエスを裏切るために行動を開始し、他の者たちは誰がこの中で一番偉いかと議論しているのです。だからといってイエスは、弟子たちを咎めることなく十字架への道を進んでいかれます。

 イエスが弟子たちを思う心と、弟子たちが思う心との間にこんなに大きな開きがあるのです。それは自分にもあることかもしれない…。


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