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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

罪と汚れをきよめる一つの泉

2012年03月29日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書13章


 トルコ南部のアダナで、朝1時間ほど街歩きをしました。
 イスラムの国ですので、たくさんのイスラム寺院があります。そのひとつを訪ねた時のことです。一人のお年寄りが手招きをしています。「こっちへ来て、見てごらん」と言っているようでした。行ってみると半地下になった大きな部屋には、銭湯の洗い場のようにずらりと蛇口と腰かけが並んでいました。
 どうやら、そこは沐浴場のようでした。イスラム教徒は、祈りの前に頭と手足とを洗うのだそうですから、そのための場所だったのですね。 Dsc02271


 1節には、「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」とあります。
 水にはいろいろな「効用」があります。その中の一つは身体を清潔にするということ、汚れを落とすということでしょう。シャワーを浴びたり、洗濯したりは私たちの日常のことです。
 そして、その他にきよい神の前に出るためには身の汚れを洗い落とすという手順を踏む宗教がほとんどです。
 滝で打たれるというのもその一つなのでしょうね。

 時々ぞっとする夢を見て、「ああ、夢でよかった」とホッとすることがありますが、ある時見た夢は、ゾゾッとするものでした。一生懸命手を洗うのですが、洗っても洗っても手がきれいにならずにかえって汚れが増していくのです。
 
 ここにある「罪と汚れをきよめる一つの泉」という預言は、イエス・キリストにおいて成就したのですね。何とありがたいことでしょうか。






ひとり嘆く

2012年03月28日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書12章


 企業年金基金の受託をしながら、そのほとんどを失ってしまった投資会社社長への参考人質疑の様子がニュースで映されていました。今後の刑事訴追を考えてのことか、受け答えは慎重であり、自分がしたことは間違っていなかったということで一貫していました。公の場ではそうせざるを得ないのだとしても、ひとりの時には嘆き悲しんでいるのではないか、いや、そうあってほしいと願いました。

 嘆くよりは笑って過ごせたらよいと思います。しかし、神が真実であわれみ豊かなお方であることを知った者にとっては、このお方の前で嘆くのが、もっとも平安なことなのではないのでしょうか。

 子どもの頃に、「しゃくり上げる」という体験を何度かしました。大体は親の前でのことでしたが、ぎりぎり最後まで歯を食いしばって「負けないぞ」「謝らないぞ」「自分は悪くないぞ」と心を堅くしているのですが、相手の一言、また何かのきっかけで、何かが切れたようにしゃくり上げました。
 しかし、私にとってそのようなことが解放感につながって行きました。

 11-14節の「…ひとり嘆き、…ひとり嘆く」の繰り返しは、「神の前で」を前提にしているかのように読めます。そして、そのような嘆きは、希望に、救いにつながっているものだと教えられました。




 


低く値積もりされた主

2012年03月27日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書11章


 火曜日は朝早くの祈祷会の日。久しぶりに出席すると、窓から朝日が差し込んできました。
 トルコに行く前には、まだ暗い中で祈祷会が始まっていたので、ずいぶん日が延びたことを実感しました。教会の庭の白木蓮も、ようやく白い花を見せ始めました(そういえば、昨年3月24日のブログでも、「この白い花」のことを取り上げたっけ)。寒さが続くので開花がいつもより数日遅いようですね。

 ちょっと難解なゼカリヤ書。しかし、その所々に新約聖書に馴染みのことばが出ています。
 きょうの発見は「銀三十」。
 後にマタイの福音書27章9節は次のように綴ります。
 「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した。『彼らは銀貨三十枚を取った。イスラエルの人々に値積もりされた人の値段である。』」
 ユダがイエスを売り渡した出来事は、エレミヤやゼカリヤによる預言の成就だといっているのです。

 銀三十がどれほどの価値があるのかについて、ある説明では「奴隷一人の値であり、牧者の命がけの働きに対する報酬としてあまりにも安すぎる」とありました。
 神であられるお方が、なんと低く値積りされたのでしょうか。「銀三十」ということばは、私たちを救うためにそこまで低くなられた主のお姿を改めて思います。

 それとともに、自分が低く見られおとしめられることに心中穏やかでない、自分の愚かさをも思うことです。

 



主に雨を求めよ

2012年03月26日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書10章


 日曜日はどのようにお過ごしになりましたか。
 通っている教会では、4月に新入学、社会人になる方のためのお祝いをしました。礼拝後に、それぞれが持ち寄ったものをみんなで分け合っていただきましたが、とてもおいしかったです。
 トルコの旅ではお肉中心の食べ物で、それはそれで大変おいしくいただいたのですが、一気に日本の食べ物の魅力に引き戻されるという体験をしました。

 冬から春の移り変わり、今年はとてもゆっくりしていて、いつまでもひんやりとしていますね。北の地方ではいつまでも雪が降っているようです。我が家でも、いつの間にか部屋の陽が射す所に固まっています。

 暖かさも寒さも、雨も晴天も、すべては主なる神から来ることを、この章の初めの一言から改めて思いました。だから「みことばの光」にあるように「求める方を間違えてはいけない」のです。
 信仰者も、祈るべきことを祈らずに成り行きに任せている場合が何と多いことでしょうか。祈りの力、いや信仰者の祈りに耳を傾けてくださる方の偉大さに信頼して、どんなに小さなことでも祈るのだとの励ましを得ました。

 先日、福島県南相馬市にある教会の牧師さんから「震災から一年が過ぎて」というお手紙をいただきました。
 その中に次のような文章がありました。
 「…原発事故が最悪の場合、避難せざるを得ない状況も考えられました。教会が立ち行かなくなるということもあり得ると思わされました。私たちも、いつでも避難できるようにと、貴重品や衣服など、スーツケースに入れておいた時期もありました。一度、避難しなければならない事態になっても、きっと主がこの教会を立たせ続けてくださるとの確信を私たちは頂きました。そのみことばは、民数記36章10節で、まさに震災直後、3月16日に与えられました。民数記36章10節のツェロフハデの娘たちは、相続地を堅く守るために、主に命じられたとおりにしたというみことばが、心に響きました。『みことばの光』の中に、「現代においては、聖徒にひとたび伝えられた信仰の松明(たいまつ)を次の世代、同時代人に引き継ぐことが、応用問題として考えられる」という文がありました。この教会を、次の世代に引き継ぐようにと、主に言われたと感じました。この小さな教会を主が顧みてくださり、立たせ続けてくださると確信しました。」
 

 


勇気を出せ

2012年03月24日 | ゼカリヤ書
ネヘミヤ記8章


 この箇所には、「万軍の主」ということばが何と18回も出てきます。数え間違いがなければ、ゼカリヤ書全部では49回使われていることばなのです。「万軍の主」ということばは、主が私たちの味方ならばどれほど大きな勇気や励ましを与えることでしょうか。
 この章でも、くじけ、がっかりしている人々を、万軍の主なる神が熱く愛し、エルサレムに連れ帰り、その中にお住まいになり、「恐れるな」「勇気を出せ」と主は励ましておられます。

 今回のトルコ旅行で役に立ったのはカーナビです。改めてカーナビの威力に驚きました。
 ところがこのカーナビ。あまりにも正直というか忠実なものですから、時折とんでもないことをしてくれます。
 たとえば、ルートを検索する前に「有料道路を使用しない」にチェックし、「最短ルートを通る」にチェックしますと、文字通りの最短ルートを示してくれます。
 多少の土地勘があれば、「このルートはおかしい」と思うのですが、何せ初めての地を走るのですから、全幅の信頼を置きます。
 案内してもらった道路は、山の上の雪が残っているでこぼこ道。それはそれで、充分に楽しめたのですが、冷や冷やしました。「万能のカーナビ」とはいかないものでした。

 私たちの主はそうではないのですね。
 常に、民の最善の道を示してくださいます。ですから、疑わずに安心してついて行くことが良いのです。
 そして、この箇所でイスラエルの民を支え励ます主のことばを、そのまま自分への励ましのことばとして、ありがたくいただきます。

 帰国しました。日曜日の礼拝がゆたかなものでありますように。

 




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