goo blog サービス終了のお知らせ 

みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

わたしの霊によって

2017年03月18日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 4章

 気がついてみたら、森に緑が増えています。ランニングしている人の中には夏のような格好の人も…。人間も、犬も、そして鳥も、春の訪れを楽しんでいるようです。

 きょうの「みことばの光」では、ゼカリヤ書に出てくる幻を実際に絵に描いてみることを勧めています。そこで、描いて…と思ったのですが、その後に、「…インターネット上の画像と比べてみると」とありましたので、検索しますと、ありました、金の燭台と日本のオリーブの木の絵が…。それにしても、いろいろな絵があります。

 燭台とは、ヘブル語で「メノーラー」と言い、アーモンドの枝をかたどった7つの枝からなっています。ゼカリヤ書4章は、その燭台に左右の二本のオリーブの木があり、木から二本の管で燭台に油が注がれていると書いています。

 どんなに立派な燭台も、油がなければ灯は灯りません。ゼカリヤは、油が途切れることのない燭台を見たのです。そして、主の使いは、ゼルバベルへのことばだとして「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」との主のことばを、ゼカリヤに届けます。油は神の霊を指しています。ですから、神の働きはどれもが神の霊によって行われるとのメッセージがここにあります。

 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」は、何によって事を行おうとしているのかを問われる、決して忘れてはならないことばです。


あなたの不義を除いた

2017年03月17日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 3章

 木曜日の午前は山が近くに見える町で、いっしょに聖書を読みました。何人かで読むことで、一人では気づかない発見があります。ずいぶん長い間聖書を読み続けてはいますが、「もういい」ということがないのが、改めて不思議だと思います。

 とはいうものの、聖書にも比較的読みやすい箇所もあれば、できれば斜め読みして飛ばしてしまいたいと思うような箇所もあります。ゼカリヤ書などはもしかしたら後者かもしれません。

 主はゼカリヤに「幻」を見せ続けておられます。3章は四番目の幻です。ここには、エルサレムに帰還してゼルバベルと共に神殿の再建工事に携わった大祭司ヨシュアが、そして主が、主の使いが、さらにサタンが登場します。ヨシュアをサタンは訴えようとし、主は守りきよめようとしています。サタンは、汚れた服を着ている者は大祭司の務めにふさわしくないと責めるのです。けれども主の使いは、汚れたヨシュアの服を脱がさせ、「あなたの不義を除いた。あなたに礼拝を着せよう」と言うのです。

 ここに立っている汚れた服を着ているヨシュアは、そのまま私たちを映し出しています。サタンは常に「おまえはまったくふさわしくない」と訴え続けます。ところが主は、不義という汚れた服を脱がせて、礼服を着せてくださるのです。「みことばの光」にあるように、預言者イザヤのきよめの出来事を覚えます。⇒イザヤ書6章

 神の前に胸を張って「私はきよい! 正しい」と言いうる人は誰もいません。誰もがイザヤのように、「ああ、わたしは、もうだめだ」と嘆かざるをえません。しかし、そんな者を神はきよめてくださるのです。

 感謝。


主の御告げ

2017年03月16日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 2章

 ある方としばらくぶりに聖書の学びをしました。赤ちゃんが生まれたのでお休みをしていたのです。もちろん、聖書をいっしょに読むのが目的でしたが、赤ちゃんに会う楽しみも…。抱っこすることができました! かわいいですね。

 2章からは、神がゼカリヤに、そしてイスラエルの民にお与えになった三つのことばを心に留めました。

 1つは、「エルサレムは、…城壁のない町とされよう」ということばに続く、「わたしが、それを取り巻く火の城壁となる」という5節のことばです。ゼカリヤ書は中断していたエルサレム神殿再建工事の再開への励ましというテーマが1つありますが、この後、城壁の再建工事も行われます。そして、現在のエルサレム旧市街もぐるりと城壁で囲まれています。ですから、この約束はこれから成就するのです。城壁というのは敵や不審者から町を守るためのものです。けれどもやがてエルサレムは城壁のない町となるのです。なぜなら、神がその町を完全に守るからだというのです。よく知られたルターの「神はわがやぐら」という讃美歌を覚えますね。

 次は、「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」という8節のことばです。このことばは、バビロンになお残るイスラエルの民に宛てられたものです。彼らはもしかしたら、自分たちは遠くバビロンに残され神の守りはもはやないと消沈していたのかもしれません。そんな彼らに、主は「あなたがたを決して忘れはしない」との慰めに満ちたことばを届けてくださったのです。

 そして、「わたしは来て、あなたがたのただ中に住む」という10、11節のことばです。1章にも、「わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る」ということばがありました。イエスをキリストと信じる人は、キリストが私のうちに住んでおられると信じて日々を歩みます。ここでの預言どおりになったのです。

 意気消沈している者への、なんと愛に満ちた約束なのでしょうか。


あわれみをもって帰る

2017年03月15日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 1章

 月に二度の「ドイツ語で聖書を読む会」、きのうはヨハネの福音書7章1−18節を読みました。予習をするとやはりよくわかりますね。ちょっとずつでも進歩している…らしいです。

 きょうから「ゼカリヤ書」を読みます。

 この書は「ダリヨスの第二年の八月に」ということばで始まります。ダリヨスとはバビロンの後に台頭した大国ペルシヤの王、その治世の第二年というのは紀元前520年のことです。

 バビロンから帰還したイスラエルの民は、エルサレムの神殿再建工事にかかります。けれども、妨害によって工事は中断され、長い間ほったらかしになっていました。

 道路や大きな建物を建築する際に、何かの事情で工事が中断すると、最初は「どうしたのだろう」「何があったのだろう」と心配になります。けれども、中断が長く続くとその景色に慣れてしまって、なんとも思わなくなるということが今でもあります。大きな志を抱いて働きを始めたけれども、途中で頓挫していますと自分の身の回りのことで頭がいっぱいになってしまうなどと言うことがあります。ゼカリヤ書の1章には、そのような宙ぶらりんの状態を神が放っておかれずに、大きく動かされるということが書いてあります。

 心に留めたのは「わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る」という16節のことば。神が民をあわれみ、エルサレムに戻って来られるので、宮は建て直されるという約束です。「神が私たちとともにおられる」という約束がどんなにありがたいものかを、教えられる恵みのことばです。

 


主の日が来る

2012年03月30日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書14章


 きょうは事業年度の実際の終わりの日(明日は土曜日ですから)。金融機関は閉店時間まで混雑していることでしょう。もうすぐ新しい環境にはいろうとする方も大勢いるのでは、と思います。
 通っている教会でも、この4月から大学生になる人、社会人になる人がいます。家を出て寮生活する人は、何が待っているのかハラハラドキドキしているだろうな、と思いながらお祈りしています。

 ゼカリヤ書も最終章。「見よ。主の日が来る」から始まります。
 「ああ、私たちはここを目指しているのだ」と、早朝の祈祷会で改めて確認し、感謝しました。
 「夕暮れ時に、光がある」とは、月に一度伺って奉仕している特別養護老人ホームでよく用いられていることばの一つなのですが、人生にも光が少しずつ落ちて行きやがて暗闇になるような印象を持つ方もいます。けれども、神の民はそうではない、というのです。

 トルコ体験が尾を引いていて、すみません。
 レンタカーでの気まま旅で困ったのは、目的地のホテルに着くのが大抵の場合暗くなってからということでした。カーナビはあるのですが、以前にも書きましたように、ナビの操作が今一つ分からなかったので、どういうことか私たちをいわゆる「抜け道」のような所に連れて行ってくれるのです。土地勘があれば、「ハハーン。ナビよ。きみはこっちに連れて行こうとしているけれども、だまされないよ。…」とナビを「裏切る」ようなこともできるのですが、何しろ初めての土地。
 ある晩。暗闇の中でほとほと困ってしまいました。明るいうちに着いていればよかった、光がほしい!と思ったのです。(親切な人々によって、無事に目的地に着けました。ほんとうにありがとうございました!)

 主に信頼する者の未来には光が待ち構えている、これが今を生きて行く大きな力になりますように。





2011-2024 © Hiroshi Yabuki