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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

自分たちのためでは…

2012年03月23日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書7章


 昨日は、パウロの三回目の伝道旅行の折りに立ち寄ったパタラを訪ねました。この時の写真です。Photo


 きょうの「みことばの光」のタイトルは「順風な時ほど」です。
 確かに、人の心が緩むのは苦しみを通った後にホッと一息つき、物事がうまく回りはじめた時かもしれません。

 旅は、普段の生活とは違った体験ですが、何日かの旅の中でもいろいろな出来事が起こります。 
 今回の旅には、二つの目的がありました。一つはこの国に住む主にある方々との交わり、もう一つは聖書に記述されている地を訪ねるというものでした。
  道に迷うこと、自動車のパンク(すでにお知らせしました)などの「パニックになりそうな事件との遭遇」は、緊張と神への信頼、祈りに押し出します。ところが、物事がうまく回っているとつい気持ちが緩むのですね。何度か、気を引き締めよとの警告を得たことが旅の中でもありました。

 「いつまで断食を続けなければならないのでしょうか」という問いかけは、「私たちにはもう問題がない。一所懸命神の前に罪を悔い改め、神に願い求めたのだから…」という思いから出たもの。そのような時に、礼拝や信仰生活が形式化するということを、この章は教えています。

 「…自分たちのためではなかったのか」という神からの問いかけを、思い巡らし心探られたいと思います。
 これから帰国します。
 





その名は若枝

2012年03月22日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書6章


 「みことばの光」を発行している聖書同盟の用事で、トルコに来ています。

 昨日は、一人の青年の素晴らしい証しを聞くことができました。 
 善を行っていても、果たして自分はそれで天国に行けるのだろうかとの不安を持っていた青年は、ある出来事がきっかけでイエス・キリストを信じました。善を行い得ない自分に嘆き悲しんでいた時に、福音を聞いたのです。
 自分がこれまでいのちを懸けていたものが真理なのか、イエス・キリストが真理なのかを、行きつ戻りつして、ついにイエスを主と信じたのです。
 平安と喜びを得たと語る、おだやかな彼の姿にパウロを重ねました。

 ゼカリヤの預言を読み進めています。
 ゼカリヤの時代、すなわちバビロン捕囚から帰還した人々が神の宮を建て直している時代を見つつ、はるかその先にある出来事を展望しているのが、きょうの箇所です。

 そして私たちは、「その名は若枝」ということばに、彼が心に迎えた主イエスを見ることができます。
 「若枝」ということばは、イザヤも、エレミヤも、エゼキエルも、メシヤを指すことばとして用いました。

 主イエスがおっしゃったことばを思いました。
 「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2章19節)

 十字架に架かられた無冠の王、いや、ローマ兵にあざけられていばらの冠をかぶせられた王のお姿を、くっきり浮かび上がらせていると思います。

 

 


二つの飛ぶもの

2012年03月21日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書5章


 この章には、不思議な光景が繰り広げられています。
 巻き物が飛び、枡が空の上に持ち上げられたというのです。
 「みことばの光」には、長さ9m、幅4.5mの巻き物に罪がびっしりと書いてあるのと、あります。

 考えてみますに、一人の人が神の前に罪を犯すその数は、とてもこの巻き物にも収まらないほどのものでしょう。その一つ一つを神が記録し、その記録に従ってさばかれるのです。とても「わたしは何もしておりません」などといえないほどの決定的な証拠を突きつけられるのです。

 自分が犯した罪の数々を消してくれるのは誰か、それは枡を持ち去ることのできる神です。そして、このことはイエス・キリストによって、信じるすべての者に具体的に訪れたのです。
 誰でもが、自分の頭上に罪の巻き物を浮かばせているようなものです。しかし、神がそれを取り去ると約束しておられるのですから、大変ありがたいことです。感謝してもし尽くせません。Photo
 
 昨日は、パウロたちを伝道旅行に送り出した教会があったアンテオケを、そしてパウロたちが伝道旅行から船出したセルキヤの港を訪ねました。
 写真は、アンテオケの町の中を流れるオロンテス川に架かる橋です。





交わりの力

2012年03月20日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書4章


 旅が続きます。
 昨日は、トルコ南部のアダナからパウロの出身地として知られるタルソ(タルシス)に、何と列車で出かけました。トルコの鉄道はバスに押されてあまり便利には使えないと聞いていましたが、アダナからタルソ、そしてメルシンという町の間にはほぼ30分に一度程度の列車が運行されています。Photo

 鉄道好きの私にとっては、願ってもないチャンス。片道30分程度の小さな列車旅でしたが、充分に楽しめました。

 ゼカリヤ書4章を読み、「みことばの光」の解説を読んで考えたのは、交わりの力ということ。
 どんな大事業も決して一人では成し得ず、多くの人の力を、いや誰よりも神の力を得なければなりません。それも、単に機械的に誰かの力を持ってきて…ということではなくて、神との交わり、人との交わりがあって、初めて人はことを成し遂げられるのだということを教えられました。

 今回の旅の目的の一つは、イエス・キリストにある交わりを深めて、ともに主のために行おうと話し合うことにありました。ちょっと遠くで見ていたのと、実際に会ってともに時間を過ごし、同じものを食べている中で、ともに何かを主のために…という思いがそれぞれの間に強くされていくのを覚えました。
 
 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」とおっしゃった主のみこころを、ほんの少しですが教えていただきました。





不義を除いた

2012年03月19日 | ゼカリヤ書
ゼカリヤ書3章


 土曜日にイスタンブールから、トルコ南部のアダナという町に来ました。
 「アダナケバブ」というトルコ料理で、アダナの名前をお聞きになったことがあるかと思います。
 日曜日、この町にある教会で礼拝する前に、その「アダナケバブ」を食べました。
 前菜にたくさんのサラダ類が運ばれ、焼き立てのパンも届き、これで十分と思っていた時に、「アダナケバブ」が運ばれてきました。その長さとボリュームにびっくり。Photo
 切り分けてもらって食べましたが、おいしさに感動。食べ過ぎを気にしながらも、おいしくいただきました(昼食をお腹いっぱい食べたので、私たちの夕食はなしということにしました)。
 食べてばかりいるようですが、じつは大変有意義な土日を過ごすことができたのです。

 ゼカリヤ書3章を読んで、自分とこの箇所とはどのような結びつきがあるのかを考えました。
 大祭司ヨシュアとは、まるで私のようだということです。

 おまえなど神に仕える資格などないと、サタンは私を訴えます。ヨシュアのように罪に汚れたぼろぼろの服を着ています。
 しかし、私のよごれた服を神が脱がせてくださいました。
 きよいものとしてくださいました。
 そればかりか、神のために生きるものとなり、務めを与えられました。

 そして、一切を可能にしてくださったのが、イエス・キリストの十字架です。
 何とありがたくもったいないことでしょう。
 




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