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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いのちをかけて

2018年09月01日 | 士師記

士師記 12章

 きょうから9月。当地では夏が終わったということが空気の変化、日が少しずつ短くなることでわかります。

 「みことばの光」では、一か月ぶりに士師記を読みます。士師エフタのことが記されている本章は、それまでの続きとして読みたかったのですが、今回の通読の計画ではぽつんと残された感があります。次回への課題です。

 エフライム人はカナンのほぼ中央に割当地を得ていて、他の部族よりもプライドが高かったのでしょうか。かれらは二度も士師が勝利を収めた後で、文句を言うということをしています。

 一回目はギデオンがミディアン人との戦いで勝利を収めた後で、なぜ呼びかけなかったのかと激しく責めました。⇒8章1節 その時ギデオンは、エフライム人の心をなだめるように話すことで、彼らの怒りを和らげました。

 エフタはそうではありませんでした。「あなたの家をあなたもろとも火で焼き払おう」と彼らが言ったことに怒って、彼らの怒りを斥け、ギルアデの人々と一緒にエフライムと戦ったのです。エフライムがギルアデの人々に「あなたがたはエフライムからの逃亡者だ。ギルアデ人はエフライムとマナセのうちにいるべきだ」と言ったのは、エフタやビルアデの人々に対する明らかな侮辱でした。

 エフタの「あなたがたが救ってくれないことが分かったので、私はいのちをかけてアンモン人のところへ進んで行った」ということがが心に留まりました。エフタは確かに欠けのある士師でした。けれども、彼がアンモン人との戦いに自分のいのちをかけたのは偽りのないこと。その時、主の霊が彼に下ったのです。⇒11章29節

 ギデオンのように穏やかに収めればよいのに…という思いもある一方で、追い込まれている中で立ち上がったエフタが「いのちをかけて…」ということばが心に残る箇所です。ギデオンはギデオン、エフタはエフタなのだと…。


なんと、娘が…

2018年07月31日 | 士師記

士師記 11章29−40節

 7月も最後の日ですね。昨日は「みことばの光」11月号の編集をしました。これを用いている頃は涼しいどころではなくてだいぶ寒くなっていることだろうと、暑さの中で考えました。

 何度読んでも、エフタの誓願のことは胸がつかえるような思いになります。何とかならなかったのだろうか…と。そして、いろいろなことが心に浮かんできます。請願をしたので神がエフタに勝利を与えられたのでないことは確かです。請願を口に出す前に、主の霊が彼の上に下ったからです。

 それでは、なぜエフタは請願をしたのでしょうか。「…してくれたら〜します」というのは、誓願する者の必死さ、真剣さを伝えていますが、取引をしているようにも映ります。エフタは、主が自分を立てておられることにもう一つの確証が必要だと考えたのかもしれません。

 なぜエフタは、人を全焼のいけにえとしてささげると誓願したのでしょう。アンモン人やモアブ人の間にあったケモシュに人をささげるという風習に引きずられていたのかもしれません。イスラエルでは、人をいけにえとしてささげることが律法で厳しく禁止されていたからです。

 勝利し帰った家から出て来たのが一人娘だったと知った時のエフタの苦しみは、どれほど大きなものだったでしょう。

 「もしも…ならば〜をいたします」ということを、必死であればあるほど口にしそうです。神はそのようなお方ではないのがわかっているはずなのに…。


「主が…」

2018年07月30日 | 士師記

士師記 11章1−28節

 当地の暑さが続きます。金曜日には二人で西瓜(すいか)半分を水分補給にと食べました。西瓜は暑い日に食べると美味しいですね。

 きょうの箇所は、28節までを読むべきだと思います。次回には修正したいと考えています。

 「主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた」(11章16節)ので送られたのが、エフタです。アンモン人はギルアデに、イスラエル人はミツパに陣を敷いて一触即発の危機。ギルアデの人々は、アンモン人との戦いを指揮するものを待望していました。

 エフタは、自分の出生の事情ゆえに家を追い出されます。リーダーシップが備わっていたのか、彼のもとにならず者が集まっていました。3節の「一緒に出入りしていた」ということばからは、エフタに引き入れたならず者たちがよからぬことを企み、していたということを想像させます。

 そんなエフタのところに、かつて自分をギルアデから追い出した長老たちが、アンモン人と戦ってほしいと頼みに来ます。ずいぶんと虫のいい話ですが、裏を返せばそれほどギルアデの人々は切羽詰まっていたということでしょう。それにしても、なぜ彼らはエフタのところに来たのでしょうか。トブの地でのエフタのリーダーシップぶりを伝え聞いたのかもしれません。

 この箇所には、エフタの交渉力の素晴しさが際立ちます。長老たちの身勝手な要求に、かしらとなるとの条件を突きつけて同意します。アンモン人の王との交渉でも、イスラエルの歴史を正確に述べて王の返還要求には根拠がないと反論しています。これまでのエフタの苦労がこのようなたくましい交渉力につながっていたのかもしれません。もちろん、それらは神が賜わったものです。

 その中で、エフタが「主が…」ということばを用いていることに目が留まります。彼はさばきつかさになる器として、ふさわしい姿勢を持っていたと考えることができます。それは「真の審判者である神が正しくさばいてくださるように」という姿勢を持っていたからです。


悪の報い

2018年07月28日 | 士師記

士師記 9章41−57節

 暑さが続きます。今は日没が夜の9時40分ぐらいですので、当地の暑さのピークは午後6時ごろでしょうか。日没後に気温が下がるのを待ち望みながら、この文章を書いています。

 身内意識を利用して、シェケムの人々をけしかけて自分の兄弟70人を殺して王になったアビメレク。シェケムの裏切りに遭いながらも、それを察知し裏切る者たちを蹴散らします。彼にはシェケムの民が「王」である自分にこのような仕打ちをするのがどうしても赦すことができず、復讐するという思いを強く持っていました。

 そして彼は、兵が野に出て行くとの知らせを聞いて、野で待ち伏せをして,急襲。さらにシェケムの町を破壊するのです。そして、エル・ベリテ(バアル・ベリテ)の神殿に逃げた1000人を火で焼き殺すのです。けれども、さらに襲いかかったテベツで女が投げつけた石臼の上石に打たれたことによって、いのちを落します。それにしても、この女性の力は相当なものだと思いました。「火事場の…」というのでしょうか。この女性の必死さが伝わってきます。

 56、57節に繰り返されている「悪の報い」ということばに目を留めます。たとえ一時でも、悪辣な手段によって権力を得るようなことがあっても、必ず報いがあるのです。もしかしたら、悪を行う者が長く権力の座に座り続けるということがあったとしても、必ずその座から引きずり下ろされます。それは、力と力の関係によって落されるということではなくて、悪に報いるお方によるものだからです。この世界でいのちをながらえるようなことがあったとしても、悪に報いるお方の前に立たされる時が来ることを思うのです。

 「神は、一人ひとり、その人の行ないに応じて報いられます。」ローマ人への手紙2章6節


ことば巧みに

2018年07月27日 | 士師記

士師記 9章22-40節

 暑さを逃れて、20キロほど北西の山の上に登りました(自動車で頂上まで行けます)。頂上にはたくさんの人がいましたが、太陽が大好きな当地の人々も、さすがにこの暑さの中では木陰で休んでいました。

 母が住むシェケムの人々の心をなびかせたアビメレクはその地の王となり、三年間イスラエルを支配しました。けれども、悪巧みによって権力を手に入れた者に待っているのは、悲惨な最期でした。

 26節の「信用した」ということばに目を留めました。シェケムの人々は、アビメレクの巧言を信用して、「彼(アビメレク)は私たちの身内の者だ」と受け入れました。そして今、「アビメレクとは何者か」とののしるガアルたちのことばを聞いて、彼らはその気になるのです。

 ガアルとその身内の者がなぜ、アビメレクをののしったのかの理由は記されていませんが、通りかかったときに信用したのですから、シェケムの者たちとはつながりがあったのでしょう。もしかしたら、ギデオンの子であるアビメレクがなぜシェケムの王であるのかということが大いに不満だったのかもしれません。

 ここを読んで、ことばには人を動かす力があること、人をいのちに動かす力も滅びに向けて動かす力もあるのだということを思いました。誰かの巧言を人は信用して結果としてとんでもないことをしてしまいます。誘惑のことばは、聞いた者の心を騒がせ、かき立てます。けれどもその先には滅びが待っているのです。

 いのちのことばを持つ者であることの幸いを噛みしめます。


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