士師記 11章29−40節
7月も最後の日ですね。昨日は「みことばの光」11月号の編集をしました。これを用いている頃は涼しいどころではなくてだいぶ寒くなっていることだろうと、暑さの中で考えました。
何度読んでも、エフタの誓願のことは胸がつかえるような思いになります。何とかならなかったのだろうか…と。そして、いろいろなことが心に浮かんできます。請願をしたので神がエフタに勝利を与えられたのでないことは確かです。請願を口に出す前に、主の霊が彼の上に下ったからです。
それでは、なぜエフタは請願をしたのでしょうか。「…してくれたら〜します」というのは、誓願する者の必死さ、真剣さを伝えていますが、取引をしているようにも映ります。エフタは、主が自分を立てておられることにもう一つの確証が必要だと考えたのかもしれません。
なぜエフタは、人を全焼のいけにえとしてささげると誓願したのでしょう。アンモン人やモアブ人の間にあったケモシュに人をささげるという風習に引きずられていたのかもしれません。イスラエルでは、人をいけにえとしてささげることが律法で厳しく禁止されていたからです。
勝利し帰った家から出て来たのが一人娘だったと知った時のエフタの苦しみは、どれほど大きなものだったでしょう。
「もしも…ならば〜をいたします」ということを、必死であればあるほど口にしそうです。神はそのようなお方ではないのがわかっているはずなのに…。