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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

王がなかった

2018年09月07日 | 士師記

士師記 18章

 祖国では台風による被害に続いて、北海道では大きな地震があって被害が出ています。皆様お一人びとりに神の支えがありますようにと、お祈りいたします。

 一人でペリシテ人と戦ったサムソンはダン部族に属していました。じつはダン部族はペリシテ人の圧力ゆえに、高地から低い所(地中海沿いの平野部)に下りることができずにいました。1節の「相続地はその時まで彼らに割り当てられていなかった」ということばは、彼らが割り当てられた領土を占領できずにいたということなのです。

 そのため彼らは、自分たちの移り住む地を探し求めていたのです。そして狙いを定めたのは、ガリラヤ湖の北方にあるライシュという場所でした。五人が偵察に行くと、ライシュの人々は安らかに住んでいました。敵の侵入もない地域にあったからでしょうか。五人がダンが移り住むには絶好の場所だと報告したので、彼らはすぐにライシュを攻めるために出かけました。

 その途中、ミカの家に祭司がいるのを知った彼らは、自分たちの祭司になってほしいと誘い、さらにミカが造った彫像、祭司が用いるエポデ、テラフィム、そして鋳像も奪うのです。それに対するミカの対応に目が留まります。26節に「ミカは、彼らが自分よりも強いのを見て取り、向きを変えて、自分の家に帰った」とあります。ずいぶんと諦めの早いことかと思います。祭司を雇い、像を造り、宗教的なことをするためのものを揃えていたミカは、まことの神に祈るということはなかったのです。

 1節の「その頃、イスラエルには王がなかった」ということばは、当時のイスラエルの有様を描いています。確かに彼らには王がいませんでした。けれども彼らにはまことの王である神がおられたのです。つまり彼らは、神を王としてあがめ従うということに欠けていたのです。

 肝心の時に神に祈ることのできるのはなんと幸いでしょうか。その恵みを用いないままにいないようにとの促しを受けています。


自分の目に正しいと見えること

2018年09月06日 | 士師記

士師記 17章

 水曜日午前の祈祷会。きのうはいつものメンバーに加えて4人の方が出席されました。自己紹介をし合ったら、それぞれが近くに住んでいることがわかったり、年齢が同じだったりということを発見。似ている、同じ、近くというと、互いの間にある見えないものが取れてしまうような気持ちがします。

 17、18章には、エフライムの山地に住むミカのことと、ユダ部族への割当地の西に割当地を得ていたダン部族が北に移動することが書かれています。鍵になるのは、「その頃、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」という6節のことばです。

 ここを読むと、ミカと彼の家族の生き方に不思議さを感じてしまいます。

 ミカは母から銀千百枚を盗みます。母が盗まれた時にのろいの誓いをしたのを聞いて、良心の呵責を覚えたのか、それとも恐ろしくなったのか、自分が盗んだことを母に告げます。すると母は、「主が私のを息子を祝福されますように」と言うのです。母親は、正直に自分の悪事を言ってくれたのでそのように言ったのでしょうか。不思議だと思うのは、なぜ巨額なものを盗んだ息子を厳しく責めないのか、ということです。

 母は、ミカが返した銀のうちの二百枚で、像を造らせます。神を拝むべき彼らはなぜ像を造るのでしょうか。それでいて、ミカは私設の神の宮を持ち、祭司が用いるエポデとテラフィムを作って息子を祭司にしているのです。ちぐはぐな感じがします。

 レビ人が来ると、これ幸いだと彼を自分たちのための祭司に任命します。そして、ミカは「主が私をしあわせにしてくださることを知った」と言うのです。「おいおい、そうなのか? 」突っ込みを入れたくなるふるまいです。

 ミカと家族に欠けているものは何だろうかと思いながらも、いつの間にかに自分の都合を優先させているのではないか、探られます。「自分の目に正しいと見えること」の反対にあるのは…。


サムソンが知らなかったこと、気づいたこと

2018年09月05日 | 士師記

士師記 16章

 本章はサムソンの最期を劇的に描いています。神によって遣わされた士師でありながら、自分の思いのまま、力のままに振舞うサムソンを、ペリシテ人は何とかして倒そうと知恵を絞りました。サムソンが愛したデリラを買収して、彼女からサムソンの力の秘密を探り出そうとしたのです。ちなみに、デリラとは「思わせぶりをする」という意味なのだそうです。

 最初のうちはデリラを困らせることを楽しみとしていたようですが、サムソンはデリラの魅力のとりこになっていましたので、ついには自分の力の秘密を教えてしまいます。16節には「毎日彼女が同じことばでしきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほど辛かった」とあります。サムソンのもろさのようなものをおぼえさせられます。どんな人にも弱点がある、デリラはその弱点を突いて彼を落すのです。

 20節は悲しいことばです。「彼は、主が自分から離れられたことを知らなかった。」主がともにおられるとは、聖書全体を通して神の民が拠り所としている事実です。けれども、サムソンは主が自分から離れられたことを知らないのです。けれども、なぜここで! なのでしょうか。

 頭にかみそりを当てないのが自分の力の秘密だと信じていたサムソン。実は、髪の毛が長いからではなくて、主が彼とともにおられことが彼の力のもとだったのです。彼は自分のいのちと引き換えに、この事実に気づかせてもらったのではないのだろうかと、考えます。

 整わない彼の最後の祈りの中にある、「ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください」ということばが、それを伝えています。


1対3,000,1対1,000

2018年09月04日 | 士師記

士師記 15章

 気がついてみたら、街路や公園の木々が色づいています。気温も一週間前とはずいぶんと違ってヒンヤリとしてきました。ぜいたくですが、少し寂しさも覚えます。

 15章は、サムソンが妻を他の男に取られたことに怒ってペリシテ人の麦畑やぶどう畑を燃やしてしまう事から、ペリシテ人がユダに向かって陣を敷いたと話が進みます。

 きのうも書きましたが、改めて11節を読みますとこの頃のユダとペリシテ人との関係がわかります。「おまえは、ペリシテ人がわれわれの支配者であることを知らないのか。」このことばは、ユダがいつの間にかペリシテ人の手の中にいて何とも思わないという静けさの中にあったということを表わしています。けれども、この静けさこそ、イスラエルの民にとって深刻なのです。

 ここにはサムソン一人が同胞3,000人から非難を浴びている様子、サムソン一人がペリシテ人1,000人を打ち殺したという記事があります。これまで登場した士師たちは、指導者としてイスラエルを率いて敵と戦いましたが、サムソンはたった一人で戦っているのです。

 サムソンはユダを初めとするイスラエルに、ペリシテは自分たちが陣を敷いて戦うべき相手だということを気づかせるために、神によって遣わされたのです。サムソンがのどが渇いて「死にそうだ」と呼び求めることばに答えて、主が水を与えてくださったことから、主はサムソンをどのようにご覧になっているのだろうか、それは私たちが彼のふるまいに眉をひそめているのとは違う見方をなさっているのかもしれません。


主によること

2018年09月03日 | 士師記

士師記 14章

 士師記13−16章には、最後の士師サムソンのことが記されています。サムソンはほかの士師と比べるとずいぶんと違うという印象を与えます。

 この箇所を通して読みますと、不思議に思うことばに突き当たります。14章の4節の「彼の父と母は、それが主によることだとは知らなかった」というのもその一つ。サムソンはイスラエルをペリシテ人の支配から救うために神によって立てられた士師です。ところが彼は、ペリシテ人の娘を妻にしたいと両親に告げています。

 士師記は、サムソンがそのような願いを持ったのは、主によることだとしているのです。そしてそのすぐあとに、「主は、ペリシテ人と事を起こす機会を求めておられたのである」という説明がなされています。そして実際、結婚の祝いの席でサムソンは事を起こしたのです。

 この時代、イスラエルはペリシテの巧妙な侵入によって、気がついてみたら「ペリシテ人が……支配者」になっていました。⇒15章10節 「主によること」ということばは、イスラエルの民に正しい気づきに目覚めさせるために、神がサムソンのような士師を用いておられるのはないか、と考えさせられる一言です。

 気づかないでいる、深刻なことがらというのはないのでしょうか。


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