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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

確かな将来

2018年12月07日 | 箴言

箴言 23章1−18節

 「みことばの光」は、ほぼ一か月ぶりで箴言に戻ってきました。今回は23章からです。

 本章の前半にある行動を促すことば(動詞)を拾ってみました。カッコ内は行動の対照、相手です。

 注意するがよい(支配者と食事の席に着く時に)
 苦労してはならない(富を得ようと)
 欲しがるな(物惜しみする人のごちそうを)
 話しかけるな(愚かな者に)
 移してはならない(昔からの地境を)
 入り込んではならない(みなしごの畑に)
 心を用い、耳を傾けよ(訓戒、知識のことばに) 
 懲らしめることを差し控えてはならない(子どもを)
 羨んではならない(罪人を)

 人の本当の姿や狙いを知って、流されずに節度を保てるかということについての知恵のことばが並んでいます。表面だけで判断するとたいへんな目に遭うし、チャンスを逃す場合もあるのです。力ある相手にはへつらい、弱い相手には高飛車に出るようなことがあってはならないとも示されます。11節の「彼ら(みなしご)の贖い主は力強く」ということばからは、弱い者の側に徹底的に立ってくださる神のお姿が見えてきます。

 きょうの「みことばの光」のタイトルは「確かに終わりがある」です。これは今月まで用いている「聖書新改訳第三版」の訳に基づくものです。けれども、昨年出版された「聖書新改訳2017」は、ここを「あなたには確かに将来がある。あなたの望みは絶たれることはない」と訳します。ちなみに、新共同訳聖書は「確かに未来はある あなたの希望が断たれることはない」と訳しています。

 確かな将来とは、力や富におもねることではなくて、「いつも、ただ主を恐れている」ことの先にあるとの励ましを得ました。有り難いです!


怠け者の理屈

2018年11月13日 | 箴言

箴言 22章

 来年1月に持たれる東アジアのための祈祷会の打ち合わせがありました。韓国語と日本語の教会、そしてまとめ役のドイツの方と合せて6名で集まりました。話し合う中で、キリストにあって一つ、和解、神の家族などというキーワードが出てきて、どのように進めるかがまとまりました。1月17日(水)午後7時半からで、FEGフランクフルトが会場です。詳しいことが決ったら、この欄でもお知らせします。

 この章で目に留めたのは、「怠け者は言う。『獅子が通りにいる。私は広場で殺される』と」ということばです。怠け者の理屈です。怠け者が用意するこのあとのことばは、「だから私は家にいる」「だから私は出て行かない」でしょうか。

 箴言には、怠け者についてのことばが多く見られます。6章6節には「怠け者よ。蟻のところへ行け」とイソップ童話を思わせるような格言があります。26章14,15節には、噴き出してしまうような怠け者についての表現があります。「戸はちょうつがいで向きを変える。怠け者は寝床の上で。怠け者はさらに手を伸ばしても、その手を口に持っていくのを面倒がる」と書かれているのです。

 なぜ怠けることについての言及が多いのかを考えてみるに、神が人をご自分のかたちとして、神の似姿にお造りになり、地のすべての者を支配するようにという働きをお与えになったからだと考えます。すべては、神が一人ひとりに預けられたもの。何一つ自分のものはないのです。

 休息や安息と怠けることとは違います。考えてみれば、働く、何かに取り組むということがあるので(あったので)、休息や安息と言えるのですね。

 これらは、なすべきことを後回しにしたくなる私が心に留めるべき格言の一つひとつです。


評価する神

2018年11月12日 | 箴言

箴言 21章

 きのうの礼拝には、お仕事で出張中のお二人がアメリカからおいでになりました。伺うと、東海岸の日本語教会の牧師さんたちのことをご存じでした。懐かしいお名前が…。

 2節の「人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし、主は人の心を評価される」ということばから、16章2節の「人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、主は人の霊の値打ちを量られる」ということばを思いました。すべてを見る神が、英知を傾けて企てる人間を評価するというのです。

 そんなものは嫌いだ! というのが、「高ぶる目とおごる心、悪しき者のともしびは罪」となるのです。「神さまが見ておられるよ」ということばを、子どもたちに幾度となく届けたということを思い出しました。

 すべてをありのままにご覧になる神がいないと心に決めたら、先に理屈を述べた者が、強く訴えた者が勝ちということになってしまいます。そして、嘘が嘘でなくなってしまいます。14節の「ひそかな贈り物は怒りを静め、懐の賄賂は激しい憤りを鎮める」という世の中です。だれも見ていないから、と目を閉じたからといって、神がおられなくなるわけではありません。

 人間の英知も知恵も神の手の中にあり、神の前には無に等しいことを受け入れて、自分を正しく受け止めることができるのではないでしょうか。


友と時と

2018年11月10日 | 箴言

箴言 19章

 近くの通りにイチョウの木があります。そろそろあるはずだと散歩の帰り道に通りましたら、ありました! 銀杏(ぎんなん)です。以前欲張って取り過ぎ、結局はカビが生えてしまったことがあったのを教訓に、落ちたものを一回分だけ取らせていただきました。

 この章には厳しい現実を表わす格言が置かれています。一つひとつのことばの意味を立ち止って考えてみると、いろいろなことが頭に浮かんできます。

 友についてのことばの中に、「財産は多くの友を増し加え、貧しい者はその友から引き離される」という4節のことばや、「高貴な人の好意を求めるものは多い。だれもが、贈り物をしてくれる人の友となる」という6節のことばは、納得できることではなくとも確かにそうなのだろうと思わざるをえません。

 けれども、このようにしてできた友情は、お金がなくなるとともに消えていきます。主イエスが話されたいわゆる「放蕩息子の話」(ルカ15章11−24節)の、一文無しになった弟の姿が重なります。それとともに、「いつくしみ深きともなるイエスよ」という賛美歌の歌詞も浮かんできます。主イエスこそ私の最高の友なのだと、心が感謝に満ちます。

 「人に賢明さがあれば、怒りを遅くする」という11節のことばと、「望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ」という18節のことばからは、「時」「タイミング」について考えます。人への寛容さを身につける必要を覚えると同時に、怒るとき、懲らしめるタイミングをを逸すべきではないということにも思いが至ります。

 神の守りの中で素晴しい週末をお過ごしください。


何を入れ、何を出すか

2018年11月09日 | 箴言

箴言 18章

 

 ヴィザ更新。現パスポートの有効期限までのおよそ7か月の滞在が認められました。新しいパスポートに切り替えてから再度手続きをするようにとのことで、予約も受付けてくださったので、近々再度の手続きをすることになります。お祈りを感謝します。

 きょうの箇所を読んで思ったのは、人は何を入れ何を出すのかによって人生の方向が全く変わってしまうということです。1節には入れたくないと心を閉ざす人がいます。自分を変えたくないのです。その結果、自分が愚かであるのをさらけ出すことになってしまいます。

 4−8節には、ことばについての格言が続きます。良いことばを語る人が「湧いて流れる川」のようになぞらえられ、愚か者はその口から出ることばは自らの滅びを招きます。陰口とは、そこに居合わせない人のことをあれこれと話すこと。面と向かっては言えないことでも、その人がいなければ口のチャックが開いたようになります。幼稚園でお話の前に、「お口にチャックしようね」と言うことがあったことを思い出しました。

 そのあとも、ことばについての格言が続くのですが、とどめを刺すのは「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」という21節のことばでしょうか。今は自分のことばが瞬時に世界中を駆け巡ります。このブログも礼拝ではありません。トップリーダーの200文字足らずのことばが世界を揺さぶるような時代です。この章の一言一言は、現代の私たちにも強く語りかけているのです。

 自分の口から出ることばが、何に基づくのかということに、そしてどのような影響を及ぼすのだろうかということに、注意深くある必要があるのです。


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