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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

パン一切れの平穏

2018年11月08日 | 箴言

箴言 17章

 一日早く欧州の教職者研修会から戻って来ました。きょうはヴィザの更新日。3回目です。無事に新しい滞在ヴィザを発行してもらえるよう、そのために神がすべてを導いてくださるようにと多くの方が祈ってくださるのを感謝いたします。

 本章のはじめにある「かわいたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」ということばは、ほとんどすべての人をうなずかせる格言です。

 2節を、1節を踏まえて考えてみました。恥知らずな子どもたちを持つ父親にとって、賢明なしもべはありがたい存在。子どもと同じ物を、いや子どもが受け継ぐべき財産をも受けるまでになる。それは、裏を返せば愚かな子を持つ父親の苦悩がにじみ出ることばでもあるのです。

 10節の「分別のある者を一回叱ることは、愚かな者を百回むち打つよりも効き目がある」ということばからも、父親の思いを感じ取れるのではないでしょうか。21節の「愚かな者を生む者には悲しみがあり、愚か者の父には喜びがない」とのことばにも、愚かな者を子に持つ親の悲しみがにじみ出ています。この思いは、25節のことばにも現れています。
 
 家族その他の人間関係にあってほしい「平穏」とはどのようなものか、どのようにして人間関係のうちに実現するのだろうかと考えるとき、あるいは「愚かな子」とは何を意味するのかを考えるときに、箴言の主題のことばが頭に浮かんできます。「主を恐れることは知恵の初め」(9章10節)ということばです。平穏は主を恐れることから来る、愚かとは主を恐れることを退けるところにあるのだと…。


高慢は破滅に先立つ

2018年11月07日 | 箴言

箴言 16章16−33節

 線路ときれいな川の間の遊歩道を3キロ半ぐらい歩くと隣の駅。そこにあるブックショップでクリスマスの葉書を買い求めました。往復の道のりは紅葉(黄葉)の中…。

 聖書を読むとき、特に箴言を読むときには、書かれていることがらがどのような状況かを思い巡らすことをします。たとえば、19節後半の「高ぶる者とともに分捕り物を分け合うのにまさる」ということばについて。

 分捕り物ですから、自分は戦いに勝ち敵の分捕り物を手に入れたとしましょう。それを分け合う相手は高ぶる者。戦いに焼死したのは自分の手柄だと鼻高々です。「おまえなど、何の役にも立たなかった」と平気で私に言います。結局、私の取り分はほんのわずか。二度といっしょに戦いなどするものかと、心に堅く決めるのでした。

 「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ」という18節のことばについてはどうでしょうか。自信たっぷりな人を見るとうらやましさをおぼえます。しかし、どんなに知恵や力を豊かに持っていたとしても、神にははるかに及びません。神の前の自分の限界を知らされ、受け入れると、人は高慢という呪縛から解放されます。そうでなければ、その人に待ち構えているのは破滅や挫折だというのです。

 でも、力や知恵がなくても、高慢は容易に心に宿るのだということにご用心!


しかし、主は…

2018年11月06日 | 箴言

箴言 16章1−15節

 年に一度の、欧州にある同労者の集まりが昨日から木曜日まで持たれています。会場は、先月教会の修養会で訪れたのと同じ所。陽射しの中で紅葉(当地では黄色が多いですが…)が美しく映えていました。まずはリラックス、ということで、夕食のあと温泉へ。日本のそれとは違って温水プールのような感じと言えばよいのでしょうか。それでも2時間があっという間に経ち、体がホカホカになりました。

 箴言16章の前半を読んで、三度繰り返される「しかし、主…」ということばに目が留まりました。

 1節の「人は心に計画を持つ。しかし、舌への答は主から来る」ということば、2節の「人には自分の行いがみな純粋に見える。しかし、主は人の霊の値打ちを量られる」、そして9節の「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、主が人の歩みを確かにされる。」

 ここに登場するのは、なまけ者ではありません。いっしょうけんめいに考えて計画を立てるような真面目な人です。けれども、どんなに真剣に考えに考え抜いて立てた計画、そして行動であっても、それにはるかにまさる神の前には完全なものはないというのです。

 自分の知性や能力で力一杯のことをしようとしているのだから、これ以上何をつけ加えることができるというのかと言いたくなるのですが、神はそれらをはるかに超えるお方。このお方の前に自分を明け渡すことが求められているのだということについてまで、思いが至ります。


聞く耳を持つ

2018年11月05日 | 箴言

箴言 15章16−33節

 11月初めの礼拝は、子どもたちのための祝福を祈る礼拝でした。メッセージを聴いてよく考え、手を上げて自分の意見を届けてくれる子どもがいたりして、大人も子どもも耳を傾ける良い時を持つことができました。

 他の書とは違って、箴言には二行一組の格言が伝えていることの意味を立ち止って静かに考えることができます。それでも、この部分にあえて共通の何かがあるのかと見てみますと、人の助言、忠告、あるいは叱責を聞く態度についていくつかのことばを拾うことができます。

 「激しやすい者は口論を引き起こし、怒りを遅くする者は争い事を鎮める」、「よく相談しなければ、計画は倒れる。多くの助言者によって、それは成功する」、「適切な返事をすることは、その人の喜び。時宜にかなったことばは、なんと麗しいことか」、「正しい人の心は、どう答えるかを思い巡らす。悪しきものの口は悪を吐き出す」、そして「訓戒を無視するものは自分自身をないがしろにする。叱責を聞き入れるものは良識を得る」とあります。

 神さまのことばになら素直に聞けるのだけれども、人のことばにはどうも…というのは自分の心のかたくなさについての言い訳のように聞こえます。聞く耳を持つ謙遜さとは、主のことばを聞くことからつながっているのではないだろうかなど,あれこれと考えます。柔和そうにはしているけれども、深いところには聞こうとしない堅い心が横たわっているのでは…。


いのちの泉

2018年11月03日 | 箴言

箴言 14章20−35節

 タイヤ交換のために自動車を預けた後で、朝の散歩をしました。そこには素晴しい景色が待っていました! 朝霧です。けれども、5分も経たないうちに消えてしまいました。「朝霧は晴れ」だと言いますが、そのとおりの小春日和で暖かな一日を楽しむことができました。日本は「文化の日」ですね。

 この箇所には、貧しい者、富む者、罪人、悪を企む者、善を図る者、知恵のある者、愚かな者、真実な証人、欺く者、王(君主)、民(国民)、怒りを遅くする者、気の短い者、弱い者、悪しき者、正しい人、悟る者、恥知らずの者、が登場します。

 箴言が記されて時だけでなく、自分を含めて私たちの周りにもこのような人がいます。いろいろな人がいて、一人一人がどのように考え、決めることでその人自身を、そして社会を良くも悪くもするのだということが伝わってきます。

 選択の究極な結果は、いのちか死かということ。誰もがいのちを願うのですが、願いとは裏腹に正反対の結果が待ち構えている者もいます。27節の「主を恐れることはいのちの泉、死の罠から離れさせる」ということばを心に留めました。

 何を見ているか、何を考えているか、何を願っているのかということに間違いはないのだろうかと省みる際に、その知恵や判断が確かなものに基づいているのだろうかは大切。27節のことばは明快に答えています。


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