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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

恵みとあわれみの冠をかぶらされ

2024年05月06日 | 出エジプト記

出エジプト記 23章1−13節

 土曜日のストラスブール往復、行きはナビが途中から「より速い経路を見つけました」といつもと違う道を案内したので、それに従うことに……。快適なアルザスの道を、気持ちをゆっくりにして走ることができました。

 1−8節には、裁判がゆがめられてはならないという戒めが置かれています。どのようにして公正であるべき裁判がゆがめられるのか、それは悪意のある証人によってです。また多数という力の暴力によるものです。多数の力は少数者の心をくじこうとします。しかし、弱い者も公正な裁判をゆがめる力になることも事実。それは、偏重することによるものです。

 4−5節には敵の持ち物が大変な状態になっているならば、相手が自分にとって敵だからといって意地悪をしてはならないとあります。前後に訴訟についての教えがあるので、敵とはこの場合、訴訟の相手ということでしょう。公正な裁判を求めるのであれば、ここにある戒めは当然守られるべきです。 ある解説は、「あなたの敵を愛せよ」という教えまでの距離はほんのひとまたぎだとありました。

 9節の戒めは、単なる人道主義ではなくて、イスラエルの民が神の恵みとあわれみを受けたのだからというところに基づいているものです。詩篇103篇3−5節をおぼえます。

 「主は あなたのすべての咎を赦し   あなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。  主は あなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を 良いもので満ち足らせる。」

 主が私をどのようにご覧になり、何をなさったのかを静かに考えるならば、自分にとっての大きなチャレンジに向かっていきたいと願うようになります。


償い

2024年05月04日 | 出エジプト記

出エジプト記 21章18−36節

 日本ではゴールデンウィークの後半、どのようにお過ごしですか。私は、「みことばの光」8月号を編集中で。これが用いられている頃は、きっと暑さ真っ盛りなのだろうと想像すると、何となく汗ばんできます。

 21章後半には、隣人や家畜に損傷を与えた場合、どのように償うべきかについて命じられています。これらの命令をつくられた神がどのようなお方なのだろうかということに心が向きます。もしも、このような命令がなかったとしたら、力のある者が相手に損傷を与えたら、その力に任せて、なかったことにしかねません。誰も見ていないから知らんふりをするかもしれません。

 18−19節には、隣人に傷害を与えた時どうすべきかが命じられています。「休んだ分を弁償し」というのは休業補償をするようにということです。奴隷の主人は、相手が奴隷だからといって好き勝手なことをしてもよいということは決してありません。奴隷の歯一本を打って折ったなら、主人は奴隷を自由の身にしなければならないというのです。

 隣人の者に損害を与えた場合の弁償について限度が定められているのにも興味が湧きます。23節です。

 「重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、目には目を、歯には歯を、手には手を、足には足を、火傷には火傷を、傷には傷を、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。」

 それ以上を相手に求めてはならないというのは、復讐、仕返しの連鎖を防ぐためです。 そしてそれは、すでに旧約聖書にも明らかにされているのです。レビ記19章18節に「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは主である」とあります。


父と母をのろう者は…

2024年05月03日 | 出エジプト記

出エジプト記 21章1−17節

 昨日、今シーズンはじめて半袖シャツを着ました。夕立もあり、しばらく雨がなかったので、良いお湿りだったと思います。

 十戒が命じられたあと、最初に位置するのは奴隷の処遇です。それは、イスラエルの民がエジプトで奴隷であったことと関係があると考えられています。神の恵みとあわれみによって彼らはエジプトでの奴隷から解放されたのです。ですから、彼らは自分たちの社会の中に奴隷が存在するようなことになった場合は、奴隷を寛大に扱うように、神から命じられているのです。

 レビ記25章42−43節にはこうあります。

 「 彼らは、わたしがエジプトの地から導き出した、わたしのしもべである。奴隷の身分として売られてはならない。あなたは彼を酷使してはならない。あなたの神を恐れよ。」

 この部分の後半には、死刑に処せられる場合について述べられています。いのちはいのちによって償われなければならないのです。しかし、ここにも神があわれみ深い方だと思わせることがあります。誤って人を死に至らせた場合には、神は逃れる道を備えておられるのです。

 17節に目が留まります。これは厳しいことばだと思います。それは、十戒の五番目に、それは隣人を愛するということに要約される人間関係についての最初に、「あなたの父と母を敬え」があることと考えがあります。「父と母を敬う」、これは人間関係の基本なのだということを改めて教えられます。


愛するとは…

2024年05月02日 | 出エジプト記

出エジプト記 20章

 祝日の水曜日、夕方に近くの公園を歩きました。普段よりもたくさんの人の数。それぞれがそれぞれの過ごし方をしているようでした。ほぼ9割の人たちが半袖姿だったのが印象的。私たち…? 長袖でした。

 20章には、神が十戒(10の戒め)をイスラエルの民に与えられたことが書かれています。さまざまな区分の仕方がありますが、初めの四つの戒めは神との関係についての戒め、あとの6つは人間関係における戒めです。

 そして、今から3000年以上も前に神が一つの民族に与えたこれらの戒めは、今でも、すべての人に対する神の戒めとしての効力を失っていないというのは、考えてみると驚きです。たとえば、モーセの時代には「あなたの父と母を敬え」という戒めは有効だったが、今は変わってしまったということはありません。

 「戒め」というと人を縛るもの、自由を奪うものだと考える方もいると思うのですが、ここに明らかにされている十の戒めを重んじて歩むことによって、自由になると言えるのです。自由とは、自分がやりたいことを、誰にも妨げられずにできることだと人は錯覚します。しかし、実際はその逆である場合が多いのです。

 20章からしばらくは、十戒に始まる数々の戒めが置かれています。イエスは、これら数多(あまた)の戒めを一言にまとめてくださいました。マタイの福音書22章37−39節です。

 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。」

 十戒によって神は、ご自分を愛するとは、そして隣人を愛するとは…と、すべての人々に問いかけておられるのです。


わたしの宝

2024年05月01日 | 出エジプト記

出エジプト記 19章

 5月最初の日は「メーデー」で祝日です。5月はこの他にも9日が「キリスト昇天日」、19−20日が「聖霊降臨日曜日、聖霊降誕月曜日」として休みです。そういえば、日本はゴールデンウィークですね。

 第一の月の14日にエジプトを出たイスラエルの民は、第三の月の新月に、シナイの荒野に入りました。ここはシナイ山のふもとです。シナイ山は、3章1節では「神の山ホレブ」と呼ばれ、ここで神はモーセをイスラエルをエジプトから連れ出すための指導者として召されました。

 そして神はここで、イスラエルの民をこの山のふもとへと集められたのです。それは、イスラエルの子どもたちと契約を結ぶためでした。4節に「鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来た」とあります。それは、力強く、そして驚くほどの速さで神が彼らをここまで連れて来たということです。しかし、シナイの荒野が彼らの目的地ではありません。彼らは、さらに歩を進めて約束の地カナンへと向かうのです。そしてそこでの新しい生活のために、彼らは神との間で契約を結びます。

 そこには素晴らしい約束が伴っていました。神が彼らに与える契約を守るならば、彼らはすべての民族の中で、「わたしの宝となる」、さらには「祭司の王国」、「聖なる国民」となるというのです。素晴らしい栄誉であり特権です。

 ここを読んで、新約聖書のペテロの手紙第一2章9節のことばを思いました。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」

 過越の子羊の血によってエジプトを出た民と、神の子羊イエスの十字架の血によって闇から光ヘと移されたキリスト者の姿が、ここに重なります。そのように呼ばれるという特権にあぐらをかくことなく、新しくされたものとして神のことばに従いたいと願う箇所です。


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