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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

織り上げる働き

2024年05月11日 | 出エジプト記

出エジプト記 26章1−14節

 さわやかな緑の中をドライブして、親しくしていただいているご夫妻宅を訪ねています。少し歩くと眼下に湖を見渡すことができます。ゆっくりとお交わりをしましたので、ブログの更新が遅くなりました。

 この箇所には、幕屋を覆う幕を作るようにという神の命令が記されています。まず最も内側には、ケルビムを織り出した幕を10枚作ります。一枚の長さがおよそ12メートル、幅がおよそ1.8メートルですので、一枚の幕を織り上げるまでは多くの労力を必要とします。

 36章8節を読みますと、幕の製作に携わる人々を「仕事に携わっている者のうち、心に知恵ある者」と呼んでいることに気づきます。でき上がった刺繍を見ると、よくぞこれほどの模様を、均質で美しく仕上げるものだと驚くことがあります。手先の器用さ、忍耐深さ、緻密さ、そして全体を俯瞰する力などを備えているのですから、「心に知恵のある人」の為せる業なのです。

 しかし、大きな幕はそのような人々だけで完成できるものではない、ということにも気づかされます。五枚ずつをつなぎ合わせる人も必要です。つなぎ合わせるために青色のひもの輪を作り、それを幕の縁に取りつける作業も、金の留め金を作る作業も、留め金でつなぎ合わせる作業も必要です。目立つ部分の製作に携わる人も、目につきにくい部分の製作に携わる人も必要です。

 主の教会においてもさまざまな働きがあります。人の目につく働きをする人も、そうでない人もいます。しかし、そこに働きの大きさや小ささはないのです。

 このようにして仕上がった幕屋の内側はどんなにか美しかったことでしょう。しかし、幕屋はこの上にさらに3枚の布、皮をかぶせます。そのために、外からはケルビムが織り込まれた内幕の美しさを見ることはできないのです。ある人は、ここに人となって来られたキリストを重ね合わせます。


暗闇を照らす

2024年05月10日 | 出エジプト記

出エジプト記 25章23−40節

 キリスト昇天日の木曜日は祝日。さわやかな晴天の下どこかに出かけたいところでしたが、日曜日の礼拝の準備などをしました。きょうから火曜日まで、ドイツ南部そしてスイスを訪ねます。いろいろな出会いを楽しみにしています。

 25章後半には、幕屋の聖所に置く机と燭台を作るようにとの命令があります。

 机は、「臨在のパン」を置くためのものです。「臨在のパン(供えのパン)」は、十二部族を象徴する12個のパンを安息日ごとに二列に並べて、机の上に置かれます。サウルに追われたダビデは祭司アヒメレクに食べ物を求め、ちょうど主の前から取り下げられた臨在のパンを得ることができたという、サムエル記第一、21章1−9節に記されている出来事を覚えます。通常、取り下げられたパンは祭司とその子どもたちが食べることになっていました。

 31節以降には、金の燭台を作るようにという命令があります。幕屋はその名のとおり天幕で覆いますので、聖所は明かりを灯さなければ暗闇です。ですから聖所を照らすために燭台を置く必要がありました。幕屋は神が臨在を約束された所。燭台に灯された光は、神がともにいることによって自分たちが光の中にある、ということを常に覚えさせたのだと思います。

 イエスはご自分を「わたしは世の光です」と宣言されました。(ヨハネの福音書8章12節) パウロは、エペソ人への手紙5章8節で「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい」と書き、テサロニケの教会へは「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません」と書きました(1テサロニケ5章5節)。

 暗闇の時代、神の子どもたちが信仰によって賜った「光」を升の下に隠すことないようにという挑戦を、ここからいただきます。


全く同じように

2024年05月09日 | 出エジプト記

出エジプト記 25章1−22節

 今が旬の白アスパラガス(当地ではSpargel シュパーゲル)を買い求め、茹でてから酢みそでいただきました。バターと卵黄で作ったソースで食べるのも美味しいのですが、和風も格別です。

 25章から40章までは、途中32−34章を除くと、幕屋を作ることと、幕屋で行われる神への礼拝のあり方についてのことばが続きます。ある注解者は、天地創造と人間の創造には創世記の2章を費やしているのに比して、幕屋の製作とそこでの礼拝については十三章も費やしているのは、神が非常に大切なことを教えているからだと書いています。

 最初に主はモーセに、幕屋を製作するための材料(奉納物)を民が携えて来るようにとの命令を与えます。これらは、イスラエルの民がエジプトを出る時に、主が彼らに与えてくださったものでした。民はなぜエジプトが自分たちにこれらのものを与えたのか不思議に思ったことでしょうが、ここにきてその理由が明らかにされます。12章35−36節には次のようにあります。

 「イスラエルの子らはモーセのことばどおりに行い、エジプトに銀の飾り、金の飾り、そして衣服を求めた。主はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプト人は彼らの求めを聞き入れた。こうして彼らはエジプトからはぎ取った。」

 9節に注目します。幕屋の設計図は主が作成されたものだということです。民の中で才能豊かな者が創案したものではありません。材料、長さや幅、高さ、器具類など、すべては神によるもの。しかし、その材料は民が奉納し、実際の製作は民の中の選ばれた者が行います。

 このことから、人生を思います。

 私たちは自分で人生を創案し設計し、築き上げていると考えます。しかし、実際には私たちを創造されたお方の設計によるものだということに気づきます。そしてそれに気づくのが大切なのです。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」との伝道者の書12章1節が心に浮かんできました。

 


神の前での飲み食い

2024年05月08日 | 出エジプト記

出エジプト記 24章

 「みことばの光」8月号の編集作業を、日本との間で行いました。今は時差が7時間ですので、終了したのは日本時間で日付が変わる頃。3時間の作業でしたが、さまざまな気づきがありました。

 この章は、神とイスラエルとの間の契約の調印式のようなものです。

 この契約は、神が提案し民が同意したものです。そのためにモーセは民を聖別し、次に十戒を基本とする契約の内容が明らかにされました。そしてここで、民は契約に同意し、契約が批准されるのです。契約とは、二人、あるいは二つ以上のグループの間で交わされる同意です。それぞれが相手のために何を行うかという条件が明記されています。契約を履行することによって双方の間の関係が保たれますが、破棄すればペナルティを課せられます。

 批准(ひじゅん)のための手続きには興味深いものがあります。

 一方の当事者である神は、まずモーセとアロン、そしてアロンの子ナダブとアビフ、70人の長老たちを招きます。しかし、彼らは山の頂上には登りません。それから、モーセ一人が神のみもとに登ります。そのあとでモーセは主のことば(契約の内容)を民に告げました。3節に「来て」とありますので、山から降りて来たのです。4節の「書き記した」ということばが心に留まります。

 翌日、モーセは契約批准のためにいくつかのことを次々とします。祭壇にいけにえの血が注がれたこと、そして書き写した「契約の書」をモーセが民に読み聞かせ、それを聞いた民が「主の言われたことはすべて行います。聞き従います」と言ったことで、契約が結ばれたのです。

 そのあとで、驚くべきことが書かれています。なんと、イスラエルの指導者たちが「神を見た」のです。それにもかかわらず、彼らは死ぬことなく、それどころか、食べたり飲んだりしたのです。10節に目が留まります。彼らがその時に見た神の御姿でした。ここを読んで、聖餐式の時に読まれることの多い、イエス・キリストのことばを思いました。マタイの福音書26章29節

 「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」

 古(いにしえ)のイスラエルの民が特別に見せていただいたまばゆいばかりの光景が私たちにも約束されていると考えるなら、心が踊ります!


記念の祭り

2024年05月07日 | 出エジプト記

出エジプト記 23章14−33節

 街路樹の下に植えられている野薔薇が、一輪また一輪と花を咲かせています。薔薇は比較的長い間私たちの目を楽しませてくれます。それぞれの家庭の庭の薔薇も華麗で美しいのですが、野薔薇もお気に入り。

 この箇所は二つのことが記されています。一つはイスラエルの民が三つの祭りを行わなければならないという命令です。

 「種なしパンの祭り」はイスラエルの民がエジプトを出る時に種なしパンを食べたことを記念するものです。この時教会はイエス・キリストの十字架をおぼえます。

 「刈り入れの祭り」は、小麦の初穂を収穫する時期に行われます。後にこれは「七週の祭り」と呼ばれるようになります。教会はこの日を聖霊降臨日として祝います。

 そして「収穫祭」です。春に始まるイスラエルの暦では第七の月の15−22日に行います。私たちの暦では9−10月であり、イスラエルでは今も「仮庵(かりいお)の祭り」として行われています。レビ記23章42−43節には次のようにあります。

 「あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな仮庵に住まなければならない。 これは、あなたがたの後の世代が、わたしがエジプトの地からイスラエルの子らを導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」

 主が自分たちに何をなさったのかを、当事者だけでなくその子孫たちも忘れないために祭りを行うというのは、私たちキリスト者も同じことです。しかしそれは、クリスマスやイースター、ペンテコステという大きな行事だけではないのだと考えました。日曜日にともに集って神を礼拝する、それはキリストの復活を記念する時であり、決して忘れることのできないことなのだと、ここから教えられます。


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