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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

良くない

2024年04月25日 | 出エジプト記

出エジプト記 18章

 相変わらず気温の低い日が続いていますが、天候は晴れで空がとても美しいです。月曜日に飛行機が大きく見える所に行きました。けれども、その日は残念なことに風向きの関係で離陸の飛行機を見ることに…。着陸が良いのだそうです。

 アマレクとの戦いに勝利したと聞いてイテロは、近くまで来ていたモーセを訪ねました。モーセの妻ツィポラはイテロの娘。彼女がいつごろ父のところに行ったのかは分かりません。どのような事情なのかも書かれてはいません。ある人は、おそらく安全のためにミディアンに送り返されたのではないかと考えます。

 イテロが来た目的について、三つのことが考えられます。まずツィポラと息子たちをモーセのところに戻すこと、二つ目は主なる神を礼拝すること、三つ目はモーセに助言することです。もっとも、三つ目については初めからそのような意図があったのではないようです。

 17節に目が留まります。神から特別な使命とそのための賜物をいただいているモーセに、「あなたがしていることは良くありません」と言うのは簡単なことではありません。しゅうとであるがゆえにできたのかもしれませんし、まさにこのようなタイミングでイテロが訪ねたといえます。

 イテロが具体的に勧告しているのを想像すると、彼はモーセのようにミディアン人の中での指導的な立場にいたことが分かります。また、モーセたちの様子をよく観察していたことも分かります。

 モーセがイテロの助言を受け入れたということも、心にとどめたいこと。いっしょうけんめい何かに取り組んでいる時、人は誰かから何かを言われるとそれを受け入れるのは困難だと思うのです。しかし、主が自分のためにイテロを遣わされたと、モーセは考えたのではないでしょうか。小さいことにも大きいことにも、そこには神の御手があるのです。


どうすればよいのでしょう

2024年04月24日 | 出エジプト記

出エジプト記 17章

 火曜日午後、礼拝を一緒にしている方を訪ねました。いつもなら自動車で25分ぐらいの所なのですが、今回は電車とバスを乗り継いでの訪問。珍しく電車もバスも遅れることなく、スムーズな乗り継ぎでしたが、やはり時間はかかります。公共交通機関を利用して礼拝に来られる方の苦労を、少しだけ味わわせていただきました。

 エジプトを出てからの荒野の旅は、最初から困難の連続です。この章の前半には水が欠乏したために、リーダーモーセに食ってかかる民の様子が描かれています。4節のモーセの主への叫びでは、民が自分を石で殺そうとしていると訴えています。

 エジプトへの数々のわざわい、過越、さらに海の水を分けての脱出など、民は神のなさる一つ一つのことを心に焼き付けたので、何が起こっても神に信頼して泰然としていられる、ということではなかったのです。

 …と、このようなことを書いている私自身も、神の大いなるみわざを経験させてくださったのだから、あとは何が起こってもだいじょうぶだと落ちついているわけではありません。たびたび恐れますし、眠れなくなることもあります。

 ここで民はモーセに文句を言いますが、モーセは主に訴えています。誰に自分のことを訴えるのかは、大きな違いがあります。

 神は目に見えないお方なので、頼りにならないという人もいます。でも、そうではないのです。神に訴える道を持つ人こそ本当の強さを持っているのです。恐れても、不安を抱いても、モーセのように「どうすればよいのでしょう」と主に訴える者でありたいです。


試みる命令

2024年04月23日 | 出エジプト記

出エジプト記 16章13−36節

 月曜日は「みことばの光」の執筆者の皆さんとともに、研修の時間を持ちました。「木を見て森を見る」というテーマで講師が発題され、それに参加者が応答するというかたちで行われました。聖書の世界観について考える幸いな時でした。

 食べ物がないという民の不平を神は聞いて、「夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ちたりる」と約束されました。そして、約束は早速実行されたのです。

 夕方にうずらが飛んできました。彼らはそれを食したのです。朝露が消えると、そこには白いものがありました。それが神が約束されたパンです。31節に、イスラエルの民はそれをマナと名づけたとあります。同じ節には味が説明されていて「蜜を入れた薄焼きパンのよう」とあります。以前の新改訳は「蜜を入れたせんべいのよう」とあり、新共同訳聖書は「蜜の入ったウェハースのような味」、協会共同訳は「蜜の入った薄焼きパンのような味」と訳しているのはおもしろいですね。

 ここでは、19−20節と、26−27節に目が留まりました。民の一部はモーセの命令に聞き従いませんでした。自分の欲望、自分の考えをモーセを通して届けられる神の命令よりも優先させる時の、典型的な結果を見る思いがしました。

 自分のほうがよく分かっている、自分の考えが優れているとの錯覚が、時に神に従うことを妨げます。「神の操り人形」ではないから束縛されたくないという思う者もいます。荒野はそのような人の思いが探られる場所なのです。私たちの約束の地への旅においても、そのようなことがしばしばです。


日ごとの糧を

2024年04月22日 | 出エジプト記

出エジプト記 16章1−12節

 「4月の陽気」らしく郊外の山麓は雪模様。街中も冬のような寒さの日曜日でした。

 奴隷の立場とはいえ、住む場所があった時とは違い、おびただしい数の民が荒野を進むのですから、そこで起こる困難は予期されたことです。エジプトを出て一ヶ月。彼らは食料不足に悩まされます。3節の彼らの不平は、自分たちの感情がそのまま現われた感じです。

 でも、荒野で食料が足りないというのは深刻です。海の水を分けてできた道を通るという、「ご威光を極みまで現される」ほどの主なる神のみわざを体験したにもかかわらず、彼らは指導者に不平をぶつけます。

 ここでは、主は彼らの不平を聞き、彼らの必要をに応えておられるのが目に留まります。聖書の中で最初の賛美と言われるモーセの歌の中に、「あなたが贖われたこの民を、あなたは恵みをもって導き…」ということばがあります(15章13節)。自分たちの不平を聞き、それに応える姿によって、彼らは「わたしがあなたがたの神、主であることを知る」のです。

 4節の「毎日、その日の分を集めなければならない」ということばに目が留まります。その日に必要な糧は主が与えてくださるという原則は今も変わりません。現実には、冷蔵庫にはあり余るほどの食材があるという家庭は少なくありません。しかし、自分たちの財力で食料などを蓄えることができるとしたら、私たちは自分の力や富に頼りがちになります。

 「私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください」と主イエスが教えてくださった祈りを、忘れてはならないのです。


回り道

2024年04月19日 | 出エジプト記

出エジプト記 13章

 広い公園を貫いて買い物へ。しばらく行かないうちに、閉じている店がいくつかありました。[coming soon!]という貼り紙があるのですが……。

 13章は長子の聖別、種なしパンの祭り、長子の聖別、出エジプトの経路、雲の柱と火の柱により主自らが民を先導する、という順序になっています。 

 主は、イスラエルの人々の間では、人であれ家畜であれ長子は聖別し、ご自分に献げなければならないと命じておられます。「聖別する」とは神のものとするということです。13節と16節にある「贖(あがな)う」ということばに目が留まります。それは「買い戻す」という意味があります。

 その場合、聖い家畜はそのまま神に献げ、そうでないものについては聖い家畜によって贖います。人間の長子は、神に聖別されたものとするのです。長子の聖別も種なしパンの祭りも、彼らが約束の地に入った時に毎年定められた時に守るべき掟(おきて)なのです。

 神は、エジプトを出てからの経路を民のために考えておられました。最短の道を辿(たど)るならば早々にペリシテ人との戦いは避けられません。そうなると、せっかく出てきたエジプトに逆戻りしたくなるという民の心を知っておられた主は、荒野の道へと回り道をさせられました。

 目標をめざすとき、できるだけ最短経路、最短距離で、というのは多くの人が当然のように考えること。しかし、なぜかそれが許されない場合があります。遠回りをさせられると嘆き、時に怒りを覚えます。しかし、そのことが結果的に良かったと振り返ることも少なくありません。遠回りの恵みについて考えてみたいと思いました。


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