goo blog サービス終了のお知らせ 

みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

王のことばに力づけられる

2021年09月09日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 32章1−19節

 以前も書きましたが、私たちのウォーキングコースはいくつかあります。昨日夕方は、久しぶりに西南方面に向かいました。帰り道でお腹が空き、アイス屋さんでカラメル・アイスを…。「アリガトウ」と店主が言ってくださったのでびっくり!

 本章は、北王国イスラエルを滅ぼし、その勢いでユダに入りエルサレムに攻め入ろうとするアッシリアの脅威をヒゼキヤ王がどのように防いだのかが書かれています。

 この出来事については、列王記第二18章、そしてイザヤ書36章にも記されています。しかし、歴代誌ではヒゼキヤが王になってすぐに行った神への信仰を回復するための改革にすでに3章を割き、残りの1章でアッシリアの信仰という国家的な危機を記しています。

 この順序は大切です。ヒゼキヤの信仰復興のための取り組みがユダの国に浸透し、祭司やレビ人は落ち着いて主に仕えることができていました。アッシリアによるユダへの侵攻はヒゼキヤの改革からおそらく20年以上経ってからのことでしょう。

 しかし、この危機に際して人々のヒゼキヤへの信頼は確かなものでした。それは、8節のヒゼキヤのことば「彼とともにいるものは肉の腕だが、私たちとともにおられる方は、私たちの神、主であり、私たちを助け、私たちの戦いを戦ってくださる」に、民は力づけられたということから分かります。

 当地でも祖国でも、新しいリーダーを選ぶための活動が盛んです。国家の危機に際して、ことばをもって民を励ますことのできるリーダー、そして口先ではなくて率先してことを行うリーダーが、神を畏れる人が立てられるようにと、祈る者です。


主が御民を祝福されたので

2021年09月08日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 31章

 公園の木々も色づいてきました。林檎も手で摘むことができる高さのものはほとんどなくなりました。それよりも上の実は誰のお腹に入るのだろうかなどと考えながら、歩いていました。

 29章から続いたヒゼキヤの宗教改革についての記述は最後の段階に。ヒゼキヤは第二の月の14日に過越の祭を行うことを知らせるために急使を全イスラエルに遣わしましたが、それによって北王国イスラエルからも、多くはありませんでしたが、エルサレムに上って来る人々がいました。

 本章の初めの部分には、過越の祭を終えた人々は何をしたのかが書かれています。それによると、ユダの人々は町々に置かれていた偶像を壊し、イスラエルの子らは自分の町に帰って行っのです。

 人々が自分たちで偶像を壊したというのは、ヒゼキヤによって始められた改革が人々の間に浸透していったことを語っています。ところで、ユダ王国以外から祭りのために上って来た人々がどのような思いで自分たちのところに戻って行ったのでしょうか。

 本章の残りの部分には、祭司とレビ人のために人々が十分の一を携えて来たことが書いてあります。10節のことばに目が留まります。奉納物を主のもとに携え来るようになってから、彼らの生活は豊かになったというのです。ここを読んで、「あるある」と口ずさみました。この順序が大切なのです。


原点を忘れずに

2021年09月07日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 30章

 「みことばの光」12月号の編集中です。昨日はクリスマス前後の箇所。今年のクリスマスはどのように迎えているだろうかと思いつつ、取り組みました。

 本章では、過越の祭のことが書かれています。過越の祭は第一の月の14日に行われるべきものですが、正規の日程で行うことができない事情があった場合には、第二の月の同一日程で行われるという規定が民数記9章にあり、ヒゼキヤはそのことに基づいて、翌月に過越の祭を行うことにし、呼びかけたのかもしれません。

 ヒゼキヤは、北王国も含めてイスラエル全土に急使を遣わして知らせます。「ベエル・シェバからダンまで」ということばが久しぶりに聖書に登場したという感があります。この時ヒゼキヤの心には、自分が王位に就いているユダだけではなく、北のイスラエルも神の選びの民であり、過越の祭を一つ所で祝うときだという思いがありました。北王国イスラエルはヒゼキヤの治世中にアッシリアによって滅ぼされてしまいます。だからこそ、この時ヒゼキヤは呼びかけたのではないでしょうか。

 北の人々の反応は鈍いものでした。遣わされた急使たちを嘲る者たちもいました。しかし、少数の北の人々はエルサレムに上って来たのです。11節の「へりくだって」ということばに目が留まります。

 祭りが始ると、身をきよめずに、決められているのとは違う仕方で過越のいけにえを食べる者もいました。このようなことは、せっかくの祭を台無しにするになるかもしれません。しかし、この時ヒゼキヤは、過ちを犯した人々のために神に赦しを祈ります。「彼らは…心を定めて神を…求めています」という祈りのことばに感動します。

 過越の祭はイスラエルにとっては、神の救いの原点。これを忘れずに覚えつつけることが肝要だと、歴代誌の作者は伝えるのです。クリスチャンが覚えつつけるべき原点は何か…。


神が備えてくださったこと

2021年09月06日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 29章20−36節

 日曜日の午前に「子ども会」をしました。コロナ禍で集まることが激減したという感がありますが、14名の子どもたち(小学1年生)が集まって過ごした2時間半はあっという間でした。

 王になったヒゼキヤが真っ先に行ったのは、神との結びつきを回復すること。それは、父アハズが閉じた主の宮の戸を開くことから始まりました。しかも、第1年の第1の月だというのです。さらに、宮で主に仕えるレビ人や祭司たちが身をきよめ、宮が聖別されるまでに要したのはわずか2週間。このことに、すぐにしなければ、というヒゼキヤの思いが表れています。

 聖別は主の宮から始まり、エルサレム中に広がります。21節に「王国と聖所とユダのために」と書かれています。このことばは神への背きが全体に及んでいたということです。主を礼拝するために建てられていた聖所さえも偶像礼拝の場となり、偶像を拝む所は国中にありました。

 どこから手を付けたら…と考え込むような局面でしたが、ヒゼキヤは主を礼拝する国にユダを回復するために迅速に行動しました。民のために罪のきよめのためのささげ物、全焼のいけにえ、そして感謝のささげ物をささげて、主の宮の本来の働きが回復されました。

 本章最後に、「神が民のために備えてくださったことを喜んだ」とあります。彼らは自分たちがささげ物を用意した、自分たちが成し遂げたとは言いません。神はみこころに適うことを行おうとするものを喜び、そのための必要をすべて満たし、備えてくださるお方だということを発見する一言でした。


好き勝手にふるまった王

2021年09月04日 | 歴代誌第二

歴代誌第二 28章

 長い間当地で仕事をしてこられた方がきょう、日本に帰国されます。昨日はわずかの時間でしたがいっしょに過ごさせていただきました。新しい歩みを神が祝福してくださいますように。

 主の前に歩んだヨタム王の後継がアハズ王。そしてこの後に登場するのがあのヒゼキヤ王ですから、どうして主の心に適う王と王の間に、アハズのような王が現れるのかと思うのです。

 アハズはバアルを拝み、わが子に火の中を通らせるなどの愚行を重ねます。19節に「彼はユダにおいて好き勝手にふるまい」とあります。新共同訳や共同訳聖書はここを「彼がユダを堕落させ」と訳します。個人として勝手なことをしたのではなくて、王として勝手なことをしたので国を堕落させてしまったということが伝わってきます。

 「自分一人ぐらい」という理屈をこねる人がいて、私もそのような思いに駆られるときも正直言うとあります。しかし、それはその人をだめにするだけではなくて、周囲にいる大切な人をも堕落させてしまうのだということを、ここでの描写から考えました。

 アラムに攻め込まれ、兄弟国イスラエルに攻め込まれて国がぼろぼろになった時、それは起死回生の大きな機会でもあったのですが、アハズは主にではなく、アッシリアの王たちに助けを求めるのです。そして、何の助けにもならなかったのです。窮地に追い込まれたときに誰に助けを求めるのかを、私たちは知っています。知っていることを行動に移せるだろうかというのも、この箇所からの問いかけとして読みました。

[おわびと訂正]「みことばの光」本日の箇所11頁6行目に誤りがありました。以下のようにお詫びして訂正いたします。なお、PDF版は修正済です。 (誤)父ヨラムが (正)父ヨタムが


2011-2024 © Hiroshi Yabuki