津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■尾ノ上のトリビア

2021-01-11 17:13:00 | 熊本

            
    

 私が住む東区尾ノ上のコミュニティ紙に掲載されている記事である。
かって国鉄(現JR)豊肥線の水前寺駅の東500mほどの所から、現在の健軍自衛隊の西北かどに向けて、真っすぐに鉄道が走っていた。
自衛隊がある場所は、戦時三菱重工の飛行機製造工場があり、その専用鉄道である。
スレート葺ののこぎり状の屋根を持つ大きな工場は、まだ残っていて自衛隊内で現役で活躍している。
私は幼いころ沿線近くに住んでいて走り回っていたが、そのころには線路も撤去されて市道となっていた。
ここに取り上げられているように、「京塚バス停」のあたりは、その名残である市道と、そのわきに戸島方面に走る県道が並行しているところがあり、一時期交通事故が多い場所として知られた。
現在は、バス停が設けられて分離されたが、このような事情を知らない人は、不思議な道路だと思われることだろう。
現在、日赤病院や熊本県立大学がある当りの長い真っすぐな道路とその周辺は、かって健軍飛行場があった場所で、ここから「尾ノ上」の由来になったのであろう丘陵地を掘り切って、やはり三菱の工場の北側の中ほどに繫げられた。
健軍飛行場はまさしく、三菱重工の付属飛行場であった。

三菱の広大な敷地は自衛隊の敷地となったが、その道が南に延長され、大きく東西二つに分断されて大きな道が通り、健軍へぬけて官庁街となった。
旧健軍町は、南北朝時代に於いては戦場となった「託麻が原」であるが、近代の一時期はこのように軍都としての一面を成していた。
私は幼いころ母や祖母から「三菱の引き込み線」と教えられた。

 ご厚誼をいただいているS様のブログ「徒然なか話」の「かつて そこに 飛行機に命をかけた人たちがいた・・・」に往時の三菱の工場の事が紹介されている。
そしてこんなすごいブログも発見した。廃線探索 三菱重工業第九航空機製作所専用線(歩鉄の達人)

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■細川小倉藩(455)寛永六年・日帳(霜月九日~十二日)

2021-01-11 06:44:28 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年霜月)九日~十二日

         |                        
         |    九日  安東九兵衛
         |
人割奉行へ用済ノ |一、先度、長崎ゟ来候飛脚壱人、もはや長崎へは不罷候間、役め被申付候へと、沢だ吉右衛門尉所へ
飛脚ニ役務ヲ命ゼ |  申遣候事、
シム       |

         |                        
         |    十日  加来二郎兵衛
         |
選択雑用ノ為ノ賜 |一、山村三丞事、御下向前にて御座候間、ちと御暇を被下候ハヽ、在所へ参、せんたく等仕参度由申
暇願       |  候、参候へと、申渡候事、
         |一、南喜右衛門尉・河村哉右衛門尉・乃美十左衛門尉・明石角兵衛・東次介、此五人明日中津へ参
         |  候、御用ハ務御座候哉と申候、御用ハ無之候間、可被参由申候事、
         |   (正照)                                                         
聚)
曽根某積聚ニテ死 |一、松野右京殿登城にて被仰候ハ、曽根安左衛門尉儀、此中積衆相煩、一昨日相果申由申越候、我等
ス  伜目見ノ有 |                                         
無ハ知ラズ    |  与にて御座候付、申上由、又十二三ほとノせかれ壱人御座候由、名ハ権三郎と申候也、御目見へ
         |  ハ仕候共、不仕共、無御存知由、被仰候也、
         |一、右ノ分ニ候間、御代官可被申付由、加藤・金子方へ切帋遣候事、
日向ヨリノ舟板ノ |一、白井兵介ゟ申越候ハ、今度日向ゟ被召寄候御舟板、明日五十人ほとにて被成御上由、承及候、
荷上ゲノ用    |  今ほと、御加子共させる御用も無御座置申候間、御加子を加、上ヶさせ可申候哉と被申候、一段
用務ナキ加子ヘモ |  可然候ハん由、返事申候、此段人割奉行衆へも切帋にて申遣候事、
命ジタシ     |

         |                        
         |    十一日  奥村少兵衛
         |                         (御)
筑前ヨリ走リ百姓 |一、筑前ゟ百性男女子共ニ五人ニ参候、彼地にてハ、三牧郡吉田村ノ者之由、名ハ長右衛門・三五郎、
高野村ニ親類アリ |  子弐人、女房一人之由、人留ノ原久兵衛めしつれ参候而、御年寄衆へつれ参候ヘハ、則規矩郡高
人ヲ付ヶ規矩郡奉 |  ノ村に親類有之由申候間、則御家老衆参人ゟ壱人宛御付候而、平井五郎兵衛所へ被遣候間、我 
行へ遣ス     |                     (浅山修理)
         |  共ゟも一人宛付遣候へと、被仰下候に付而、修りもの一人付遣申候、原久兵衛も付遣候事、
白井兵助小者走リ |一、白井兵介途上にて被申候は、主小者壱人前廉走候而申候、何方へ参候も不存候処ニ、御船頭河村
テ長苻ニアリ   |                       〃〃
         |        (長門豊浦郡)
         |  弥右衛門小者長苻へ用所弐付、遣候処ニ、右ニ走候我等小者行相申候候ヘハ、兵介所へ戻り度由
         |                                〃
         |                                 (鏡)
迎舟ヲ遣スモ今ニ |  申候、迎舟遣候ハヽ、早々可■戻由、申越候ニ付、四丁立之御小早を、善右衛門ニ申候テかり、
帰着セズ     |  昨日遣申候か、于今戻不申候、いかゝ仕候テ戻り不申候哉、ふしんニ存候、今日ひる迄待申候
         |  而、許り不申候ハヽ、兵介参候而聞合申度由候、其分ニ可被仕由、申渡候事、

         |                        
         |    十二日  安東九兵衛
         |
         |        (生姜)
上林甚助生姜ヲ上 |一、上林甚助ゟ、せうがを持せ越候、何かたへ成共御渡候様ニと、申越候ニ付、足立與兵衛ニ相封
グ        |                     (規矩郡)
生姜ヲ能ク埋ル者 |  仕、当分御用程は與兵衛ニ渡候而、残分は、当郡貫村ニせうが能いけ申者在之由申候間、彼者ニ
アリ       |  尋候而いけ、損シ不申候様ニ仕置候へ、御たんの御薬ニ入候間、念を入候へと、甚助ニ申渡候へ
忠利ノ痰ノ薬   |             (へ脱)
         |  之由、御掃除の又右衛門尉申渡候也、
櫓ノ鍵ノ請取   |一、堀口五介預之御矢念倉此中明申ニ付、私を被遣候ニ付、来ル十五日ニ家仕候間、かきを被借下
         |          〃
         |  候へと被申ニ付、相渡候、     右之かき、慥うけ取申候、 藤田宗理(花押)
白井兵介ノ走リシ |一、白井兵介登城にて被申候ハ、昨日申上候小者、はしめ遣申舟にて参候ニ付、主ハ不参由候也、
小者帰ル     |    

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