津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

熊本の堀部家四家

2009-11-27 16:53:16 | 歴史

 赤穂浪士堀部弥兵衛・安兵衛の名跡を継いだご子孫が、細川家家臣であることを知ってびっくりなさる方が多い。熊本においては元々、堀部弥兵衛の兄・次郎左衛門を祖として三流がある。弥兵衛・安兵衛の子孫が熊本に在るというのは、これは弥兵衛の養子・文五郎が、義兄堀部安兵衛の跡をうけ名跡継ぎ、後年細川家に召し出されたためである。討ち入り当時文五郎も仲間に入りたかったようだが、これは弥兵衛の受け入れる所ではなかった。堀部家の跡を託しての事であろう。

竜田藩片桐出雲守家臣  同左・後浪人  正保4年来・肥後  慶安元年(1648)召出
   堀部助右衛門---弥兵衛---+--次郎左衛門---+--甚之允---+--三右衛門・・・・・・・・・・・→甚之允家
                |        |      |
                |        |      +--左近右衛門・・・・・・・・・→右学家
                |        |
                |        +--庄兵衛・・・・・・・・・・・・・・・・・・→庄兵衛家
                |               元禄16年(1703)召出
                +---弥兵衛-----+==安兵衛====文五郎・・・・・・・・・・・→文五郎家
                         |          ↑
                         +==文五郎-----------
                          弥兵衛妻わかの甥・忠見氏

熊本の堀部家史料によると、助右衛門・弥兵衛親子は竜田の片桐家の家臣であったとされる。寛永十二年片桐家を離れて浪人、次郎左衛門が妻の叔父・細川家家臣小崎五郎左衛門(1,500石)を頼って正保四年熊本に来たとされる。慶安元年甚之允が、光尚により児小姓として召し出されている。赤穂浪士討ち入りから55年も前の話である。

堀部弥兵衛の史料を読むと、代々赤穂浅野家の家臣であったとされるが、熊本・堀部家(次郎右衛門流三家)の記録(先祖附)とは明らかに違っている。当然のことながら、赤穂義士に関する資料が多く伝えられているが、それとは全く趣を事にする、細川家家臣の生活ぶりを知る上での貴重な史料が、堀部甚之允家に残されている。(新・熊本市史-通史編第三巻・第四章「武士たちの生活」、「堀部家の生活」 p532に詳しい。)

そろそろ十二月、「忠臣蔵」の話などがぽつ/\出てくる季節になった。

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1 コメント

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赤穂浪士に関連 (井上)
2009-11-27 17:08:12
こんにちわ!しばらくぶりです。堀部家の件読みました。実は井上毅の最初の妻の実家二宮家も赤穂に関連ありと言っても藩主側用人高岡源五郎を介錯した二宮新右衛門がいます。毎年12月になると思い出します。
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