津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川小倉藩(457)寛永六年・日帳(霜月十九日~廿五日)

2021-01-13 09:12:53 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年霜月)十九日~廿五日

         |                        
         |    十九日  加来二郎兵衛
         |
蔵奉行吉用忠右衛 |一、矢野勘右衛門尉被申候ハ、吉用忠右衛門尉上り家、ちと■損申候塀も少御座候、土少無之、うら
門上リ家損壊ス  |  迄見え通り申候、御下向被成候ハヽ、 殿様御目ニ当ヵ申候間、つくろわせ可申候哉と被申候、
         |  可然候ハん由、返事申候事、
鷹師鷹ノ鴨ヲ上グ |一、御鷹師横山九介、まかも壱つ・くろかも壱つ持参仕候、足立與兵衛ニ渡申候、河井権丞預りノ御
         |  田かニとらせ申由、被申候事、

         |                        
         |    廿日  奥村少兵衛
         |                                     (沙汰)
絵書皿ノ価道服ノ |一、絵書皿弐拾之直段、又今度かき道服百被 仰付候、そめちん事外たかきよし、さた御座候間、能
染賃等ノ吟味ヲ直 |  々吟味可被仕通、直段奉行衆へ申渡候事、
段奉行ニ命ズ   |

         |                        
         |    廿一日  安東九兵衛
         |
鷹師雁ヲ次夫ニテ |一、御鷹師渡辺三十郎預りの御隼、鴈を壱つ取候由にて」、中津郡より次夫にて、夜前持せ越候を、
上グ       |  河野新右衛門ニ渡候也、

         |                        
         |    廿二日  加来二郎兵衛
         |(ママ)
         |一、

         |                        
         |    廿三日  奥村少兵衛
         |
三斎江戸供ノ沢井 |一、中津ゟ沢井次右衛門尉方、此度江戸御供之筈ニ而候へ共、御用被 仰付、御留守ニ被 召置候ニ
某留守役ニ代リシ |                (元高) 
故借米借銀ノ件  |  付而、御借銀・御借米之儀、志水次兵衛・蒲田賢斎ゟ被申越候通、則豊岡甚丞ニ申渡候事、

         |                        
         |    廿四日  安東九兵衛
         |

         |           二而
沢村吉重泰勝院前 |一、沢村大学殿ゟ、使者被申越候ハ、昨日ひがしへ用所候て、舟にて参候処ニ、泰勝院ノ前、舟ゟ上
ノ船着場ノ整備ヲ |  り申候所、殊外足場悪敷御座候間、 殿様御下国不被成内、直シ申候様ニ被仰付候而可然候由、
指示ス      |  被申越候、心得候由、返事候也、
鷹師鴨ヲ上グ   |一、山本三蔵御鷹つかひニ被参、夜前罷帰候由ニ而、鴨三つ持参被仕候、則足立與兵衛ニ渡申候事、
鷹匠頭捉飼ヒシ鴨 |一、河井権丞所ゟ申越候は、昨日罷出候而とりかひ申候由にて、鴨二つ持せ被上候、 殿様御下国前、
ヲ上グ      |  生鴨なと入申候御用候は、可被仰付候、何時成共、御用ほとは取申候而上可申候由、被申越候、
         |  則右之鴨は足立與庸江ニ被渡候へ之由、申わたし候也、

         |                        
         |    廿五日  奥村少兵衛
         |
宇野七右衛門豊後 |一、宇野七右衛門尉ゟ、次飛脚ニ而書状被差越候ハ、 殿様近日可被成御下国之由、取さた御座候
横目交替之時分ニ |  間、為 御目見可罷出哉、豊後横目衆御替之時分ニ而候間、いかゝ可有之哉と、被申越ニ付て、
ツキ目見ノ可否ヲ |  御出津御無用之由申遣候、式ア殿へも、右之段書状にて被申越候、式ア殿ゟも、我々同前ニ御返
伺ウ  出津無用 |  事被成候由、被仰越候事、
鷹師取飼ヒシ鴨ヲ |一、渡辺三十郎預りの御鷹ニ取かい申候由にて、鴨三つ持せ被差上候、則足立與兵衛ニ渡させ申候也、
         | (唐津、肥前松浦郡)                                (高月人留)
唐津ヨリ牢人小性 |一、からつゟ牢人小生安田才蔵・岩田太郎助・森少内と申もの参候を、御番之尾藤新助召連参候処、
三人来ル     |  右三人之内森庄内と申者、安井太右衛門こしうとのじやうはんためニ親類之由申候、又からつに
安井太右衛門縁者 |  て煩候主仁茂じやうはんとも親類之由候間、彼ものとも太右衛門親縁者ニ引付可申通、御年寄衆
町宿ニ入ル    |  御三人ゟ御使にて候、日暮申ニ付、町やとを申付置申候事、
上グ       |

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■うっちょかれる(打ち置かれる)

2021-01-13 08:16:28 | 熊本

 熊本県知事は熊本市長のコロナに関する「緊急事態」の要請を受けて、近県と連携をとってと発言していたが、すっかり置いてきぼりをくらい、福岡のみが対象になるようだ。
人吉の治水対策やは十数年にわたり手が付かず(これが一番腹立たしい)に大水害を招いたし、今回のことなども「何やってるの」という感じ・・・
不信感がつのって仕方がない。どうする樺島さん・・・

1月14日熊本日日新聞国への要請、事実上〝頓挫〟 急転直下、熊本県独自の緊急事態宣言」お粗末様・・・

 

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■重賢の藩主時代の丑の年

2021-01-13 07:02:31 | 徒然

 細川重賢のある丑の年の正月の句に ゆる/\と春は来にけり丑の年 がある。
重賢の生年は、享保5年12月26日(1721年)、没年が天明5年10月26日(1785年)、延享4年(1747年)8月15日兄宗孝の突然の死により遺蹟相続をした。
治世38年の間の丑歳は、宝暦7年(1757年・丁丑)、明和6年(1769年・己丑)、天明元年(1781年・辛丑)の三回がある。
重賢は「花裡雨」という俳号を持っており、この句もこの俳号が記されている。
いつの頃からこの号を使い始めたのかが判らないので、この丑の歳がいつであるのかは特定できない。
宝暦7年元旦はグレゴリオ暦では2月7日であり、まさにゆるゆると春がやってきている時期である。
明和・天明期もあまり変わりはない。(和暦から西暦変換(年月日)による。)
現代におけるお正月は寒の中にあり「初春」とか「新春」とかいう言葉は実感としてないが、これはまさに旧暦時代における言葉である。

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