津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■湊町川尻

2021-01-30 16:08:11 | 歴史

 史料としては見出し得ないでいるが。細川家の熊本へのお国入りなどでも、多くの人や荷物が小倉から海路で川尻へ入ったことであろう。
高橋から熊本城下・船場あたりまで入り込んだのかもしれない。
参勤の為の藩公の御召し舟「波奈之丸」は豊後鶴崎に留め置かれていたようだが、大廻して川尻にも来航したことであろう。
天草島原の乱や正保四年のポルトガル船の長崎来航にあたっての出兵の際は、鶴崎から回航した船を含め、川尻の湊は船の出入りが煩雑であったらしい。
某家の史料を読むと、長崎警備にあたる12,000人ほどの先陣を切ったのは沼田勘解由であったらしいが、熊本に於いて家老をはじめ重役の見送りをうけ、川尻に赴いている。
その折の事に「紺地に大葉大根」が描かれた帷子を着た船頭が迎えたと書かれている。

以前、靏崎の舟歌について書いたことが有ったが、平常においては川尻に於いても、華やかに船頭衆の舟歌が流れていたのかもしれない。
戦時に於いては多くの侍や物資を運び、狭い港はごった返したことであろう。
今はかすかに往時をしのぶ湊の雁木あと等が残るが、静かな川向うは船頭衆の集住の地が有った。
歓楽の地もあったと伝えられている。一時代を期した川尻の地は、高祖父上田久兵衛が免罪を被り斬首された因縁の地でもある。

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■細川小倉藩(474)寛永七年・日帳(一月晦日)

2021-01-30 06:37:34 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永七年一月)晦日

         |                        
         |    晦日  奥村少兵衛
         |
         |  (蜂須賀忠英)
蜂須賀忠英同家政 |一、松平阿波守様へ、加々山主馬御使者ニ被参、御返書とも大坂ゟ主馬下シ被申通ニ而、式ア殿ゟ持
等ヨリ書状    |                 (同家政)                          (辰珍)
津川辰珍ヘノ状  |  せ被下候、阿波守様ゟ御文箱壱つ、蓬庵様ゟ御状弐通、御つほね殿ゟ之御状壱通、津川四郎右衛
         |  門尉殿へ蓬庵様ゟ 御書文箱壱つ、四郎右衛門尉殿へ阿波守様ご家老衆ゟノ状五通持せ被下候、
         |  請取置申候也、
蜂須賀家ヨリ年賀 |一、蓬庵様・阿波守様へ被進之御折帋・御馬代金請取候との裏書在之を弐枚、又御つほねかたへ被遣
ノ返書      |   (臘燭)
他国ノ段     |  候燭臘幷御小袖請取候との状、壱つニ包、他国の段ニ入置候也、
御冬賄所     |一、御冬様御賄所ゟ御茶取ニ参候間、遣申候事、
田川ヨリ鹿兎来ル |一、夜前、田川ゟ鹿八拾弐・うさき四つ参候事、
         |   (尾ヵ)
上リ家ヲ所望ノ家 |一、小袋九兵衛家望被申衆、
中ニ籤取セシム  |    津田才左内・的場勘平・可児兵介・武藤長兵衛・瀬崎猪右衛門・西沢伝兵衛・服部武兵衛・
         |      〃
         |    清田助十郎・菅村七大夫・菅村藤兵衛・堀江勘兵衛・小林半三郎・久保田安丞・永良助丞
         |  右くし取ニ仕候ヘハ、津田左内取被申候也、
         |一、高橋五郎作上り家望被申衆、
         |    黒部孫丞・山崎加平次・藤崎喜八郎
         |  右くし取ニ仕候ヘハ、喜八郎取被申候也、
         |一、百留忠左衛門家望被申衆、
         |    村上才十郎・財善七郎右衛門
         |  右くし取ニ仕候ヘハ、七郎右衛門取申候也、
         |一、北原新十郎上り屋敷ハ、住江孫三郎一人望被申ニ付、孫三郎取被申候也、
沢村吉重等豚飼ニ |一、大学殿御登城ニ付、ぶたの儀談合申候処、今迄かい申候たまとりのぶたハころし、其外ハはなし
ツキ談合     |  かいニして置可然ニ、談合究候事、
たまとりノ豚   |
放飼       |
塗師屋ノ手伝ヲ取 |一、御扶持人ノぬしや左兵衛御仕事仕候時、手伝をとり申候、此等ハ取可申儀ニ而ハ無之候間、手伝
上グ       |  ハ取上可然通、大学被申候事、
忠利帰城     |一、今日大橋ゟ被成御帰城候事、
惣奉行へ鹿̪肢下賜 |一、鹿肢、修理・兵庫も拝領仕候事、

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