津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■小崎五郎左衛門宛忠利書状

2021-01-25 07:33:55 | オークション

          細川忠利筆 小崎五郎左衛門苑書状 肉筆紙本掛軸(陽明文庫小笹喜三箱書

             

 小崎五郎左衛門の見廻に対する礼状である。それにしては大変丁寧な長い文章である。
この人物については判らないことが多い。以下にある消息文から寛永16年(1639)7月に、「四十人扶持」という好待遇で召出されている。9月には、1,000石の大身となった。
忠利は18年(1641)3月にはなくなっているから、わずか2年の間に書かれた書状である。

そして明暦元年(1655)には御隙となって居り、わずか16年の細川家との縁である。
他の資料を紐解くと面白い事実が見える。
細川家には赤穂浪士で討ち入りに参加した堀部弥兵衛の兄・次郎左衛門が召出されているが、その召出しはこの小崎五郎左衛門が関係しているが、次郎左衛門の妻が五郎左衛門の姪であるらしい。
正保四年の事だとされる。熊本の堀部家四家

大変な実力者であったことを窺わせるが、五郎左衛門の仕官のいきさつなどは、史料不足でなかなか近づけないでいる。

       ○ 小崎五郎左衛門  御鉄炮頭衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
               千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
               千石 明暦元年八月 御暇被遣候 (※)
      消息:熊本縣資料近世編第二p467
          被仰上可被下御印之?
         一 四拾人扶持ハ    小崎五郎左衛門
         一 八人扶持ハ      小崎三右衛門
          右之五郎左衛門・三右衛門新参ニ被召拘候寛永拾六年七月廿二日御禮
          申上候右之日帳より御扶持方被為拝領候御印之儀仰上可被下候以上

      消息:
         小崎五郎左衛門・同三右衛門・速水助兵衛此三人新参ニ召置候
         五郎左衛門千石・三右衛門弐百石・助兵衛六百石遣候筈候間当
         物成之分ハ家中へ遣候知行並のことく蔵米ニ而可相渡候 謹言
            (寛永十六年)九月七日     越 忠利 御判
                        西郡要人佐殿
                        浅山修理亮殿
                        河喜多五郎右衛門殿
                        椋梨半兵衛殿 

                               (綿考輯録 忠利公・下 p289)

 肝心の読み下しは、今からである。

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