津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■ひまじんの仕事

2021-01-07 15:25:37 | 徒然

 我が家からからあまり遠くない東区戸島に「出小屋の追分地蔵」があるという話は承知しているが、漠然とした場所しかわからない。
出かけてみようと思うのだが、何とか確かな場所が判らないかといろいろ調べるがいずれもアウト。
そこで思いついたのが「グーグルアース」、該当地番(戸島西3丁目2)で調べると畑だろうか、広い敷地のようだがそれらしいものは見当たらない。
それに出小屋とか追分というには、かっての往還沿いにあったのではないかと思うのだがそれらしい場所とも思えない。
移設でもしたのだろうか?
こうなると直接アタックするかと思い立ったが、今日はいかにも寒い。
朝の散歩は、小ぶりの雪の中だったしなんともし難たい。「ひまじんの仕事」にはもってこいなのだが、これは天気の回復を待つしかない。
強い風がサッシュをがたつかせている。


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■細川小倉藩(452)寛永六年・日帳(九月廿七日~廿九日)

2021-01-07 08:23:49 | 細川小倉藩

                      日帳(寛永六年九月)廿七日~廿九日

         |                        
         |    廿七日  加来二郎兵衛
         |
忠利書状三斎宛  |一、大坂ゟ、桑田左兵衛罷下候、子細ハ 三斎様へ 殿様ゟ被進之御文箱一包、大坂迄之使ニ参候由
         |                  (雲嶽霊主)
圭長老ヨリ御所柿 |  にて持下候、此御小早ニ 三斎様へ圭長老様ゟ被進之御所柿壱籠幷御文箱壱つ、吉田忠左衛門・
三斎へ      |  小野吉左衛門被差下候、則持せ、中津へさし上候、勿論、右両人ゟ権内・兵左衛門方へ参候状壱
忠利書状     |  つ、何も中津へ持せ上候事、又私共ニ被成下 御書壱つ・御金山衆へ被成遣 御書壱つ下申候事、
船頭病死届    |一、御船頭宇高久右衛門尉と申仁、今月廿六日ニ病死仕由、白井兵介被申来候、御切米高十石・御扶
ソノ切米     |  持ハ三人ふち取申者之由、
         |    (正慶)
鉄炮足軽死跡ノ処 |一、加々山権左衛門与小池市左衛門尉と申者、今月廿一日ニ病死仕候由、同与小頭八右衛門登城にて
理        |     (加々山可政)
         |  申候、主馬被申候茂、死人跡替早々聞立候て抱可申通被申候、抱申候者ハ見立置申候、左様ニ候
         |  ヘハ、来月ノ御ふちかた、もはや請取申自分にて候か、抱申候者ノ来月分御ふちかたを茂うけ取
         |  せ可申候や、但又、召抱候まてハうけとらせ申ましく候や、得其意候通申候、此方ゟ申候は、今
         |  まて死人の跡替は、不得 行候ヘハ難成候、権左衛門尉殿御与は各別ニ被仰渡茂御座候や、弥
         |  々主馬殿さしづを請候而、重而申来候へ之由、申渡候也
豊後横目へ音信物 |一、豊後御横目衆へ御使者ニ被遣候ハ、歩之御小性菅八左衛門尉也、御音信物ハ、御壱人ニ諸白樽三
 諸白三樽    |                            (松井興長)
 南蛮漬一壷   |  つ宛、なんはん漬一つほ宛、あゆノすし一桶宛也、 御書ハ式ア監物御調被成、八左衛門ニ御渡
 鮎鮨一桶    |  被成候也、
         |
         |一、大学殿ゟ被仰候ハ、御上洛已後、御印帳ニ付申米銀之員数可有御究由にて、小性壱人被指上候、
御印帳米銀ノ清算 |  此方ゟ返事申候ニハ、去年 殿様爰元ニ被成御座時ノ御印帳之内ノ渡り残も、今年渡申米銀も御
急度ハナラズ   |  座候、とかく御印帳ニ付申米銀ノ積を仕立候事、急度不成儀候間、其分ニ心得られ候へと申渡候、
         |  ■■■御印帳ニ付候米銀ノ根合ハ中/\不相成事候、上方諸方へ申上せ候儀を根合ハ不罷成候、
         |  合せ候ハて不成事ニ候は、松ノ丸諸算用を留、是迄ニ懸候ハねハ不成事候間、只今根合ハ不成
         |  由、返事申候事
         |一、林理右衛門、病死仕候事、

         |                        
         |    廿八日  安東九兵衛
         |
         |   (恵重)
明石源左衛門危篤 |一、志水新丞登城にて被申候は、明石源左衛門煩以外とりつめ申候、左様ニ御座候ヘハ、御本丸ニ
ニツキ本丸ノ紫雪 |  (紫雪)
服用ヲ願ウ    |  しせつ御座候由承及候、是を拝領仕候而、のませ申度由被申候、則御本丸へ被参候而、御薬御拝
         |  領あるへく候由、申渡候也、
銀子預リ状    |一、宇野七右衛門尉殿へ、財津惣兵衛殿ゟ御言伝ノ御状、内ニ銀子在之由、慥請取申候、則届可申候
         |                                   (抹消)
         |                              矢野少次郎(花押)
         |一、吉竹兵右衛門尉、夜前罷下候由にて、登城仕候、次郎右衛門・金右衛門も罷下候へとも、此両人
         |  をせかれとも相果早漏ニ付、わさと登城不仕候由、申候事、
         |      (ママ)                                                                                                                                                                       (大塚)
忠利帰国道中ニ鷹 |一、殿様江戸ゟを御発足之砌、爰元ゟ御鷹師両人・御餌差両人、道まて差上せ可申旨、奉り長庵申越
師餌差之随行ヲ命 |  候、則河井権丞ニ申渡候也、
ズ        |
中山某道中遣銀ノ |一、中山金右衛門尉道中遣銀之儀、歩之御小性並共、御役者衆並共不究ニ付、江戸にて皆川治ア被
定    役者並 |  得 御諚候ヘハ、御役者衆なミニ可相渡旨 御意之由、治アゟ書状被差越候、則其書状深野二郎右
         |  衛門ニ相渡候事、
江戸へ廻送之品々 |一、大廻にて江戸へ遣候色々、目録ニ調候而、乃美市郎兵衛・岡六左衛門被差越候を、深野二郎右衛
目録ヲ惣積奉行へ |  門尉ニ渡候事、
渡ス       |
               
         |                        
         |    廿二日  奥村少兵衛
         |
太鼓番八ツ時ヲ頼 |一、太鼓之番ニ申渡候ハ、此中、時太鼓時分違申候由、方々さた仕由、御家老衆被仰候、又ハ八つ時
マレテ早ク打ツ  |  ヲはやく打候へと頼れ候て、はやく打由申候、左様之儀候ヘハ、さたのかきりニ候、時分違不申
時ノ太鼓ノ正確ナ |  様ニ、念を入候へと申渡候事、
ルヲ命ズ     |
金子喜左衛門知行 |一、金子喜左衛門、知行所ゟ夜前被罷帰由ニ而、登城被仕候事、
所ヨリ帰ル    |
         |  (福王十蔵ヵ)(福王)
福王十蔵中津演能 |一、福田十大夫ゟ、千松を以被申越候ハ、明日中津へ御能ニ付罷越候間、いつものことく次馬壱疋被
ニツキ継馬ヲ乞ウ |                                 (政長)
中村政長同伴   |  下候様ニと申候、則高橋兵左衛門方ゟの書状を上申候、見申候処、中村少兵衛殿同道にて参候ハ
         |  ヽ、可被参と、文躰ニ御座候、必 御諚ニ而中津へ被参にてハ無之候へ共、兵左衛門状ニ在之上
         |  ハ、馬一疋遣と申候而、次馬之状を調、遣候事、

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■西遊日記・肥後見聞録から「左義長」のこと

2021-01-07 07:21:01 | 史料

 慶応元年、松江藩士・桃節山が七月に松江を発し熊本・阿蘇・長崎などをおとずれ「西遊日記」を書き残している。
その中に特に「肥後見聞録」昭和51年に発刊され、幕末期の熊本を窺い知ることができる。
節山は下記の如く熊本の「左吉兆(左義長)」にも触れているが、残念ながらこれは聞き書きであり、実際に見物することはなかった。師走の十四日には松江に帰国しているからである。

       (左義長)
一、左吉兆之式有之、世俗どんどと申候、正月十四日神飾を卸し、處々ニ積置、火を懸候事、御國(松江)左吉兆と同様
  ニ御座候、されとも眞木倒れ候を切りにして火の中へ乗込、火を乗越候事以下ニも烈しきものゝ由、馬數ハ六七百よ
  り千餘茂有之、いつれも犬追物ニ達し候者を見分ヶて被申付候。然處此時ハ我勝と豪風を競ひ、髪ニ而も火ニしゞれ
  候を自慢と仕候位之事ニ而甚混雑之もの之由、其節ハ馬を打合へ抔色々といさかひなども有之ニ付、犬追物之験見役
  を左吉兆之制役と相立、其印ニ黒塗鞭を持候故これを黒鞭と穪し候、兼而内密婦女を弄被候とか、何そ陰事之心底ニ
  懸り候様之事有之候得は、必左吉兆之節一同申合せ馬を以責付候、四方より馬を以打當て馬より落し候事之由、これ
  をアテルと唱へ罷在候。此儀ハ少しも御構へ無之存分氣を張らせ候御仕向と申事ニ御座候。只馬にて當て候のみにて、
  手を懸候儀ハ堅く制禁ニ御座候、此等之為黒鞭始終見廻り候事ニ御座候、爾し甚敷相成候得共、中々以黒鞭之制も及
  兼候位之事と相聞へ候、私熊本滞留中田嶋富之介儀と申候ハ當時阿蘇在宅郷士共之柔術劍術師範仕居候由此者若き時
             〃〃〃〃〃〃先年〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃〃
  劍術の儀ニ付論談之出来候儀有之、左吉兆之節ニ三十人申合せ、例之アテを仕候處、四方ゟ包まれ段々取合候得共、
  此節御馬を拝借致し居馬之よき故落馬も仕らさりしニ、遂ニ一人之者組付、組たる儘落馬仕、其一人素手指ニ手を懸
  候處へ黒鞭来て制し候故物分れと相成候、危かりし事ニ御座候と相語り候。扨右様之次第ニハ御座候得共、これを強
  而止むる時は、又士風軟弱ニなるの弊ありとて深くハ不被制趣ニ相聞へ候。

又、熊本城顕彰会の季刊誌「熊本城」に、村田眞理氏が十二回に亘り書かれた「熊本年中行事圖絵」にみる熊本城下町の年中行事でこの左義長についてもふれておられる。二ノ丸御門前の勢屯あたりで行われたらしく、侍だけではなく多くの人達が百間石垣前・二ノ丸御門から勢屯あたりに集まり見物している様がこの圖絵に描かれている。
お正月の一大イベントであった。
村田氏の解説によると次の様にある。

  左義長正月十四日、其ノ際ニ至レバ家中の子弟良馬を求め競テ荒乗シ武ヲ試ム 武士之家風ナレバ婦女子に至迄後ルゝ
  事ヲ恥ツ 馬数多キ時ハ三四百ニ及所謂古の馬揃ナリ 此事兼而他邦江も聞エ其日ニナレバ自他見物拝衆垣ヲ成シ誠ニ
  天下の壮観ナリシガ 近年ニ止ミテ今纔ニ遠在郷士の左義長共残ルトいへ共其聴ルナシ

今年はコロナ禍のなかで、あちこちの「どんどや」が中止になった。
左義長には「疫病退散」の思いも込められたと思われるが、こんな時期だからこそ密をさけて行われるべきだと思うのだが如何・・・

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