津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

「加藤清正『妻子』の研究」

2007-10-16 17:00:08 | 書籍・読書
 旧備後福山藩・下総結城藩水野家の御当代・水野勝之氏と、熊本在住の史家福田正秀氏の共著「加藤清正『妻子』の研究」が発刊された。福田氏は過去に「宮本武蔵研究論文集」「宮本武蔵研究第二集・武州傳来記」を上梓発刊されている。二冊とも御恵贈いただいたが、この度も又お贈りいただいた。来る11月4日には「加藤家顕彰シンポジウム・加藤家の謎に迫る」が開催されるが、タイミングを合わせるように発刊されたことが喜ばしい。加藤清正の室・清浄院は水野家の出である。このことが発端となっての水野・福田両氏の研究の成果としての本著である。今まで知られなかった豊富な史料を検討され、数多くの現地調査がなされたご苦労の結果を、我々はこのように容易にその内容に触れることを申し訳ないような気がする。我々熊本人が「せいしょこさん(清正公さま)」と親しみを込めて敬愛する清正公はじめ、奥方様、又御子達の生き様を改めて確認できる佳書である。秋の夜長にぜひともお読みいただきたいと、ご推薦申し上げる。

 発行:ブイツーソリューション 発行:星雲社 定価:本体3,000円+税
書店での購入は難しいと思われますので、インターネットから申し込まれる事をお勧めします。
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加藤家と徳川家の真実 (加藤秀治)
2007-11-20 23:45:24
徳川忠長公と家光の真実

徳川忠長の父、徳川二代将軍秀忠は能力が無かったので、家康が駿府城で大御所政治を行い、一時的に静岡が日本の首都になった。
そして家康の死後、跡目争いが表面化した。秀忠の長男・家光と弟で駿府城主の忠長だ。
家光は秀忠に似た愚鈍な男で、忠長は家康に似た優秀な男だったので、秀忠は家光を廃嫡して忠長を将軍にしようとした。(家康が家光を将軍に任命したという話は嘘である)
だから、家光は秀忠を毒殺した。いわゆる柳生一族の陰謀である。実行犯は柳生宗矩。彼は、実戦では役に立たない道場剣法のリーダーで、数々の陰謀によって権力をつかんでいた。もう一人、天海の娘の春日局も、父の意に反して家光の味方になった。
父の毒殺に怒った忠長は、駿府城に立てこもり、臣下は武装して開戦の準備をしていた。
ところが、家光側の挑発に乗った臣下が、朝廷の使者を殺すという事件を起こしてしまった。戦ったら朝敵になる。
家光から武装解除・亡命の勧告が来た時に、忠長は臣下に武装解除を命じ、単身、家光の指定した場所に移動した。そして家光の命により切腹した。
忠長の思いは、とにかく家臣に無駄な血を流させたくない、静岡を火の海にしたくないという一点にあった。自分さえ犠牲にすれば、皆は助かる。家光よりも自分の方がずっと優れているのに、そのことには目をつぶった。

将軍となった家光は、家康と静岡を徹底的に憎んだ。そして、家康の政策を必死にひっくり返した。江戸幕府のネガティブな体制を築いたのは家光だ。
参勤交代は各藩に多大な負担をかけ、人民を苦しめた。
鎖国は、日本を閉鎖的な社会へと変貌させた。
そして何より、キリシタンに対する大弾圧は、その後の日本に大きなマイナスをもたらした。
家光は、誰よりも自分自身が忠長よりもはるかに劣ることを自覚していたので、徹底的に歴史を改ざんし、忠長を悪者にしようとした。それは、文書の改ざんにとどまらず、忠長が生きていた頃から、偽の忠長役の男に辻斬りなどの悪事を働かせ、忠長の評判を落とすことに全力をつくした。

家光は、外国人の魔術師を常に側に置き、師事していた。そして自らも黒魔術のセレモニーにふけり、その威力によって次々と願望を成就していった。
もちろん、忠長を滅ぼした時にも使っていた。
だが、黒魔術は、素早くほとんどの望みが叶えられる代償として、悪魔との契約の履行が待っている。家光は、最後は契約通り、悪魔に魂を奪われて死んだ。

家光は忠長を徹底的に憎んでいたので、当然各有力大名の中でも、特に忠長と親交の深かった大名を除封、減封していった。代表例が、加藤清正の息子、忠広だ。
忠広は忠長より5歳上だが、聡明な忠長と非常に仲が良く、家光と忠長の跡目争いでは、有力大名の中で真っ先に忠長支持を表明していた。
家光は忠長を支持した大名を執拗に滅ぼし、家光死後も文書の改ざんなどを徹底させた。これらの行為が、一般には家光の偉大さや業績が際立たされており、忠長の存在が歪められ、真実とは反対のことが記されている原因である。
当然、加藤忠広及びその子孫についても改ざん・隠蔽されている。

かくして、悪魔家光による工作により、偉大な徳川忠長、忠長を支持した有力大名達の真実は闇へと葬り去られ、今日に至っている。
現在、どれほど努力しても入手できる資料に真実が書かれていないのは、そもそもの資料が始めから改ざんされているからである。
もし忠長が将軍になっていたら、日本はどれほど良い国になったのかと想像すると、忠長はあまりに惜しい存在である。

なお、家光は静岡の久能山東照宮に埋葬された家康の遺骨を、無理やり日光へ移したが、家康・忠長が鎮座するのは久能山の方だ。印象的なのは、久能山では家光が寄贈した五重塔のみが撤去されていたことだ。
家光の真実、忠長公の真実が公開され、少しでも多くの人々に忠長という偉大な魂を知って頂きたいと切に願うものである。
久能山東照宮でも、忠長の存在は殆ど語られておらず、関係者には是非認識を改めて欲しいと思う。
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