津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家の御医師について

2007-10-15 15:35:12 | 歴史
 お問い合わせをいただいたので、細川家御医師について記す。松本寿三郎先生の「熊本藩における医師」によると、宝暦年間の医師の数は、御医師12名、外様御医師50名、御郡医師11名、その他御郡医師並・直触医師などがいた。医師会が発行する書籍から「肥後藩の医師制度」をみると次のように有る。
<士席医師>
・御匙御医師 君矦の診察をなす者、いわゆる侍医。
・御次御医師 君矦の次の間に伺候する。時に御匙医師に代わって診療をなす。いわゆる近侍医。
・外様御医師 御花畑御番並に駆付受持、野方御供、御連枝様御供、御手当受持、調練出役、武芸並に大砲打方御覧の節詰方、御花畑御礼の節書詰、両御祭禮御桟敷詰、両御寺神護寺往生院詰方、公儀御役人衆止宿の節詰方、御刑方出役。後に再春館勤務。
 右の通任務が外務めのため、前二者の「奥向き」に対して「外様」という。以上知行取りである。
・御次御中小姓御医師 家格は知行取の次に位する。御中小姓と同格であって扶持米取。任務は御次医師と同じ。
・外様御中小姓御医師 任務は外様御医師の通りである。

その外次のようなものが有る。
・御裏御医師 ・御裏御中小姓御医師 君矦の夫人をはじめ大奥の婦女を診察する者。御次の席にある者より命ぜられる。
・御留守居(御中小姓)御医師 君矦、江戸にある際は熊本にある御次のもの、君侯在国の際は江戸にある御字のもの。
                         
<軽輩医師><町医師><在医師><浪人医師>等については省略する。
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京都大原三千院・・・

2007-10-14 18:17:13 | 徒然
 私達が結婚した昭和42年当時、ディユークエイセスの「京都大原三千院・・」という歌詞の歌が流行っていた。二番は「栂野高山寺」、三番は「嵐山大覚寺」である。そこで半ば強引にだが、二人してその地を訪ねた。あの歌は「女ひとり」というのが題名で、後で知った事だがどうも失恋の歌らしい。「恋につかれた女がひとり・・・」という歌詞があるが、私は「恋に憑かれた」と思い込んでいたのだが、「疲れた」が正解だった。ちょうど40年前のことである。カメラがトラブッて、写真が一枚も残っていないのがご愛嬌だ。ルビー婚の今年だが、奥方は「ルビーは好きでない」らしい。よかった・・・
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清田石見という人

2007-10-14 10:19:42 | 歴史
 「米田家臣中山宗俊覚書」にあった、幽齋女・伊也(吉田左兵衛尉侍従卜部兼治・室)の末娘が、清田石見に嫁いでいたという事は、初めて知って驚きであった。「於豊前小倉御侍帳」は「頭衆」として「二千五百石・源・清田七助乗栄 大阪鑓下高名後石見 父主計鎮乗 大友家」と紹介している。忠興はその働き振りを「鑓つき申候者共、一番ニ七助」をあげ「七助鑓ハさきをつきまげ申候」と称え、後日「御饗応、御褒美被下候」と綿孝輯録は記している。祖は清田掃部鎮忠、その妻は大友宗麟女ジェスタ(元・一条兼定室)とされる。詳細を知りえないが、ジェスタは長崎で殉教したと伝えられる。父の主計鎮乗・入道寿(素)閑の代に細川家に仕官した。その娘・幾知(圓通院)は忠興四男立孝(宇土細川家祖)、五男興孝(刑部家祖)の生母である。七助・幾知の母親は元切支丹信者で勤談跡覧によると、寛永十三年改宗した(転切支丹)とされ、その後の宗門を改める為、詳細な系図が認められ残されている。石見は島原一揆にも出陣したが、流れ矢にあたり負傷した。(ご厚誼いただいている沢村家の資料に、二月二十七日手負いした事について証言を求める六月五日付け、ローマ字が押された石見の文書が残されている) また傷を癒す為の温泉療養を願う資料なども散見される(*細川家文書・御印之物、寛永十八年二月) 後知行地に在宅し病死している。嫡子外記は病身の故を以って家督は次弟主馬に譲り帰農した。主馬室は沼田延之女・国、二男は沼田延春の養子となった(元春)。石見家は先祖付けによると、主馬乗治--石見弟(寿閑四男)左近右衛門--主馬の子・源左衛門と引き継がれた。

 石見の次弟・与三右衛門は、忠興により細川刑部の目付けを仰せ付けられ、後代々刑部家家臣である。姉・幾知の子・刑部の面倒を見たという事である。

 石見の伯父(父鎮乗兄)五郎太夫は中津や八代に於いて、忠興の側近として働いた。ご子孫のお宅(富合町釈迦堂にある)に「ふるさと生活資料館」が平成十七年開設され、諸資料が公開されている。
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中山宗俊覚書

2007-10-13 20:22:18 | 歴史
 細川家家老米田家の重臣が書き残した覚書、幽齋公、ガラシャ夫人及び長岡肥後誅伐事件などが書かれている。幽齋公家系については、特に娘の一色義有後室(伊与)についての記載が興味深い。男子(幸能)が一人あり、忠興による義有誅伐のあと愛宕山福寿院に入った。ここに面白い事が書かれている。義有後室は笹(篠)原五左衛門という人に嫁したというのである。この人こそ飯川豊前すなわち長岡肥後の父親である。もっとも虚説であろうとしているが・・・。正式には吉田兼治に再嫁し八人の子をなし、一人は兼治家督兼英、一人は豊国大明神神主・萩原兼従、末子は幅寿院に入り幸賢法下、義兄幸能法下の跡を継いだ。女子は長塚正家男田中半左衛門室、阿野中納言室、船橋従三位秀相室、小笠原備前長元室、そして吃驚したのは清田石見に嫁がれた方が居られた事であった。
 長岡肥後誅伐事件については詳細を極めるが、綿孝輯録等で承知するものとさして違いは見受けられない。只その原因らしき事として、父飯河豊前が石田三成と「別して念比」で石田方へ密通していたのではないかとの記述が目新しい。仮にそうだとすると、親子揃って誅伐という措置に納得させられる。
 詳しくご報告するには訓下が進まずしばらくのご猶予を・・・
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黒川紀章氏逝く

2007-10-12 17:51:39 | 徒然
 建築家・黒川紀章氏が亡くなった。最近の都知事選や参議院選挙出馬など、その行動に些か奇異な感じを持っていた。奥方(若尾文子)までひっぱり出して・・・。著名建築家の論文というものは、なかなか難解で何を言わんとするのか理解に苦しむものが多いが、黒川氏の「共生の思想」などは平易な文章で、分かりやすく多くの共感を受けたものだった。熊本では、熊本市立博物館が主たる作品だろうか。もう30年ほど前、氏の講演会が行われた。お茶に造詣の深い氏の為に、お抹茶の茶碗を御礼に添えようということになった。私にお鉢が廻ってきて、存じ上げていたある窯元を訪ねた。予算の事も有り、「相手は大建築家」だからと暗に値引き交渉をして、半値ばかりでお願いをした。(当たり前だと結構な値段であった)ついでに「銘を・・」とずうずうしくお願いし「肥後路」という銘を箱書きしていただいた。私はお目にかからなかったが、大変喜ばれたと聞く。大阪万博の跡地に千里ニュータウンが出来、同年輩の若い人たちが入居していったが、数十年が経過した今、老人の町に成りつつあると聞く。そんな歪んだ都市計画を見ると、紀章氏の「共生の思想」が卓見であったと、つくづく思うのである。
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些事奏論

2007-10-12 15:28:43 | 徒然
 スポーツマンシップという考え方は、亀田一家にはないらしい。(切腹は名誉有る武士の作法だ)相撲協会にも「公」という発想がない。改革を掲げた前理事長境川は守旧派の反対を受けて辞職したが、何処の世界でも改革は難しいらしい。改革の目玉・郵便局は突然愛想がよくなって驚いてしまうが、過疎・山間部などの手当てはどうするのか。弱者切り捨てが改革なのか。小泉さんの「改革・改革」に踊らされている内に、年金問題などほころびがあちこち。安倍さんは同僚閣僚に足をすくわれて政権を投げ出し、国民は蚊帳の外で福田内閣が誕生、あの低姿勢はなんだろう。「バランス感覚」なんて話しを聞くと、それではとまた元通りにと思う単純有権者が出るのではないのか。小沢さんのこわ持ては、次の選挙でどうなるのだろう。広島の母子殺害事件の弁護団の言いようにもあきれるし、坂下弁護士の脱線も如何なものか。ガソリンは一向に下がらないし、小麦粉製品は値上がり気味だし。異常気象は地球温暖化のせいだろうか。熊本は熊本城築城400年でいろんな行事が目白押しだが、熱しやすく冷めやすい県民性だから、来年はどうなるのだろう。そろそろ県知事選挙も近いが、熊本県出身で東国原氏のような人はいないかなー。(クリームシチューはどうだ)真剣に考えなければ成らない事柄が多すぎる。

 やはり些事ではなくて、多事が本当だなー。
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快挙

2007-10-11 10:13:21 | 徒然
 また田邊城籠城衆のご子孫K氏が判明した。いろいろお送りする資料を調べたりしていたら、それがきっかけとなって「鍋奉行」や「坂根氏と中村氏、そして桂林寺」に繋がった。K氏の先祖附には籠城のことが一切書かれていない。綿孝輯録の編者小野武次郎も不思議がってコメントしている。なんと言っても、わがサイトを訪問していただいた事で嬉しくてしようがない。感謝。これで「西の方・守備」8名のうち5名の方のご子孫が判明した。快挙・快挙・・・
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坂根氏と中村氏、そして桂林寺

2007-10-11 00:53:30 | 歴史
 坂根氏と中村氏は青龍寺以来の古い家、坂根氏と桂林寺の大渓和尚は田辺城に籠城した。桂林寺の由緒をみると創建者の名前に坂根修理亮なる人がある。綿孝輯録は板垣修理太夫としているが間違いだろう(綿孝輯録にも間違いは結構ある)。坂根修理亮の父親が桂林院であるらしい。細川家家臣坂根長右衛門も、丹後田辺に住んだ坂根右京の子とされるが、二人を結びつける資料はないものだろうか。中村新助は妻と共に町屋に隠れ住み誕生後の忠興を育てた。忠興と生活をともにした一人の娘が、長じて坂根長右衛門に嫁いだ。その嫡子が中村家を継ぎ、二男が坂根家を継いでいる。桂林寺の大渓和尚は忠興について豊前に入った。細川家草創期を支えた三人である。

「SAKANE.NET」というサイトにある、「丹後半島の板根」というレポートが興味深い。又、宮村典太の「吹奇与勢」に「丹後桂林寺の事」という一文がり、未見であるがこれも大変興味深い。図書館へ行かねば成らない。
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鍋奉行

2007-10-10 20:27:52 | 歴史
 いわゆる豊前小倉侍帳は、慶長九年から肥後入国前・慶長九年迄が記載されている。しみじみ眺めると面白い発見が有る。大阪銅物奉行とか、京都買物奉行、大阪米奉行、明屋敷奉行、そして鍋奉行などという者がある。惣銀奉行、人割奉行、馬具奉行、諸職人奉行、鉄炮薬合奉行、炭薪奉行、畳奉行、味噌奉行、買物奉行、杣奉行、人足奉行、御家奉行、鍛冶奉行等々である。鷹匠は25人、犬引き4人、餌さし11人、忍之者が7人もいた事が分かる。
 鉄炮鍛冶が一人、宮村出雲と記されているが、田邊城籠城衆の北村甚太郎である。細川孝之について香春城に入った折、孝之により宮村出雲と名乗りを替えた。150石御鉄炮二十挺頭である。孝之が牢人した際出雲も牢人、忠興から扶持を頂戴したが後鉄炮鍛冶を家業とすることになる。「宮村出雲覚書」を残したことは有名である。熊本にもお供し承応元年死去した。
 又、刀鍛冶2人、鑓鍛冶1人なども記されている。具足屋、蒔絵屋、漆工屋、紺屋、表具師、畳表打、釜屋、金具屋、引物屋、白銀屋、表具師そして炭焼きまでが侍帳に其の名を残している。

 涼しい季節になって「鍋奉行」などと聞くと、「どういうお役目?」と聞いてみたくも成る。
 
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雨の一日

2007-10-10 09:15:53 | 徒然
 昨日は終日雨、時折すごい降りとなり夕刻には雷で驚かされた。三通の資料を発送、生業の為の打ち合わせ一件、ドナルド・キーンの「続・百代の過客」を読み、ブログを書き、難解な玄祖父の日録(漢文)を一文字ずつ確かめながらのタイピング、宵の内にずぶぬれ泥んこになった老犬を風呂場に連れ込んで洗ってやる。K氏から送られてきたエッセイ集「随筆春秋」をよむ。相変わらずの豊かな感性と卓越した筆致、鋭い推敲で完成された文章にただただ敬服、御礼のメールを差し上げる。

 すっかり綺麗になった老犬も、今朝方には外が恋しいらしく庭先に出す。すっかり雨も上がり日も差してきた。夏の間は短パンで過ごしてきたが、今朝は冷え込んでそうとは参らぬ。Tシャツの上に半袖シャツを着込む有様、暦を見ると昨日は寒露、本格的秋突入と相成った・・・(歟)
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ブログ・そして日記

2007-10-09 15:49:36 | 徒然
 6月のはじめ頃から些かむきになった状態でブログを書き綴っている。正確にいうと6/29日から無欠勤状態(?)が103日となった。最近は「休むとまずいぞ」という脅迫感に襲われている感じだ。
 最近紀行文やら日記に興味が有る。何か面白い本は無いかと、ドナルド・キーンの「続・百代の過客」上下を読んでいる。都合32編の日記が紹介解説されていて、この本自体が中々面白い。著名な人のものが殆どで、熊本人徳富蘆花や川添井々の2編も含まれている。その中で興味深く読んでみたいと想うのが、「小梅日記」なるものである。幕末から明治に掛けて約30年間の、市井の女性の日記である。一部紹介されているが、なかなか魅力的で是非読もうと思う。
 日記には私も幾たびかチャレンジしたが、いつも三日坊主で終わった。「何月何日、天気はどうで、何をして、誰が来て・・・」そんな面白くも何ともない日記が多いと、キーン氏は嘆いているが、自分自身がそうだったし、私が今一生懸命読んでいる玄祖父の日録もそんな類のもので、読んでいて疲れる。日記に替わる私のブログも、中身の濃いものにしなければならないと思うのだが・・・・
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鬼が笑うぞ

2007-10-09 14:55:17 | memo
 来年のお話。2月10日午後3時からの85分間、KKT(熊本県民TV)では特別番組「史上最強の城」を放送予定。同社の開局25周年記念番組、築城400年を迎えた熊本城を紹介する。関西以西系列局12社で放送予定。KKTは日本TV系列だったかな。案内役は内藤剛志、いいじゃありませんか・・・楽しみ。
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10/2-高橋一閑なる人・・・続

2007-10-08 21:03:01 | 歴史
 10/2、細川忠利に殉死した田中意徳と、弟高橋一閑について書いた。高橋一閑が「転切支丹」であったが故に、種々記録が残っていて二人の関係が判明したのだが、実は田中意徳の跡式を相続した一閑の子作丞(甚左衛門)が堺の玄斎という者に訴人された事が発端とも考えられる。玄斎が一閑に遺恨をもってのことらしい。作丞が切支丹でない事は判明して事なきを得ているが迷惑な話では有る。一閑は狩野勘右衛門と名乗る絵師で一時期大阪の切支丹寺に通い切支丹となったようだ。後に南禅寺に入られた宣長老の意見を入れて、禅宗に改宗したが、「ころび帳」なるものに記載されて御改めの際は何ごともなく過ごして来たのだという。哀れを留める小笠原玄也一家の殉教事件も、訴人によると伝えられる。いかに藩庁が切支丹問題に戦々恐々としていたかが覗える。
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幸福感

2007-10-08 09:23:34 | 徒然
 ここ数日数件の問い合わせのメールをいただいた。ご先祖探しのお尋ねであったり、確認のメールであったりだが、夫々貴重な情報を得て大変嬉しい。サイトをアップした時分は、まさかこのサイトがこの様なお手伝いができるとは思いもよらなかった。のちのち喜びのご連絡をいただくと、何ごとにも変えがたい幸福感に満たされる。その上の喜びは、この年になって新たな友人を得たことである。お目にかかったこともなく、お顔も存じ上げない方もあるが、時折いただくメールやお便りに感激するのである。メールのご返事や、資料の送付や、調べ事や、図書館通いや、そして読書やらと65爺は忙しさを楽しんでいる。
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塾通い

2007-10-07 16:14:14 | 歴史
 先祖附をお読みになった方は、ある時期ご先祖様がいろんな習い事に勢を出される事に、お気付きであろう。多い人は七つも八つにも及んでいる。突然先祖附にそういう記載が現れるから奇異に感じてしまう。先祖代々の家禄は「世減の規矩」により、新知の家は家禄が削減される事になった。そのごその家禄は相続に当たっては、いくつかの免許を持つことが条件となるのである。そこで皆さんの塾通いが始まる。弟子数千などという師匠が何人も登場する事になる。懐も潤ったものと思われるし、現代の世相を思わせる現象でもある。体育会系が殆どであるが、藩校時習館の創立などで勉学する人口も増えたのであろう。私塾の発展も、藩校の休講の日に師匠が自宅で教えたという事が拍車を掛けたのだろう。幕末期江戸や長崎に勉学の為に遊学する人たちは殆ど二三男である。そこで新しい知識を得て、新しい時代に雄飛していった。そういう意味では跡取息子殿は家を守る為に取り残された感がする。

 塾通いの実態を先祖附から調べてみたら面白いと思うのだが、大学でどなたかおやりに成らないだろうか。いつも他力本願な私である。
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