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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■「宝暦の改革」の私の評価

2025-02-28 06:57:49 | 歴史

 一連の京都シリーズ「京都ぎらい・京都ぎらい官能編etc」の著者で私が敬愛する井上章一先生は、国際日本文化研究センター(日文研)の所長であられる。
この日文研には、年に2回発行される学術雑誌「日本研究」がある。現在69号が既刊となっているが、私は時折その内容をチェックしている。

 そんな中に、2021年には日文研の教授となられた歴史家・磯田道史氏の論考「藩政改革の伝搬-熊本藩宝暦改革と水戸藩寛政改革」が、2009年(当時は客員准教授)の『日本研究』40号に掲載されているのを発見した。
検索してみるとこの論考はWEBで公開されている。 nk40001.pdf (896.3 kB)
40ページに及ぶものだが、プリントアウトして精読している。熊本藩の宝暦の改革がこのように評価されることは誇らしいことである。

 藩主細川重賢を大奉行・堀平太左衛門が補佐して実行された熊本藩における宝暦の改革とは、次の如くである。
    1、行政改革  大奉行・堀平太左衛門の任用、六奉行・十二分職とする機構改革、(2~5の改革の下準備)
                                          人材登用のための「足し高制」の採り入れ

    2、法制改革  刑法改革-懲役刑の採り入れ、「御刑法草書」の編纂、穿鑿役を設け行政と司法を分離、
             衣服令の施行(封建的身分制の強化につながった)
    3、文教政策  藩校・時習館の設立と朱子学による教育、再春館(医学)、蕃滋園(薬園)の設立
    4、財政改革  世減の規矩(新知知行者の減知)ーーーーーーーーーーーーーーーーーー(旧知知行者の保護)
    5、農業改革  地引合せ(いわゆる検地による隠田畑700町歩の摘発)

 私は「財政改革」についてはいささかの異論がある。
いわゆる「世減の規矩(新知知行の減知)」と呼ばれるものは、「新知」の者だけに限定されたことである。(約17万石)
「旧知」の者は既得権益が残されて、まったく痛みを感ずることなく明治に至っている。保守温存政策ともいえる。
「新知」同様とはいかないまでも、例えば5%ほどでも減知を行い、痛みを共有すべきではなかったのか。
先に■宝暦の改革の限界を書いたが、旧知のお宅の知行の合計は432千石程になる。5%減ずれば2万石ほど削減できたはずだ。

藩主・重賢と大奉行・堀平太左衛門の願いは、100%完成には至らず、二人の存命の内にまた財政は悪化の途をたどり始める。
つまるところ、開明的な藩主重賢や堀の死去後、執政の権力は家老の元へ帰し、誠に保守的な路線へと逆行を始めたというべきであろう。

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■段山橋とか陣橋とか・・

2025-02-27 07:13:21 | 展覧会

 昨日は史談会グループのLINEの「段山橋」の事で、私は大失態してしまった。
LINEに紹介された写真を見て、私が「これは陣の橋では」と指摘したのだが、どうも私の勘違いのようで、結果取り消させていただいた。
段山という地域は、西南の役では井芹川が真っ赤に地で染まったという激戦の地である。

「段山(だにやま)橋」は、熊本城城地が西に低山を飛び出させた地域で、その先の島崎地域へ通じていた。
井芹川を渡る為の小さな石橋があったのだが、これを戦の前に落としておけば、薩軍の段山への侵入を抑えられたのではないかと思うのだが、そんな時間さえもなかったということだろうか?
これの橋が同じ川の上流部にある「陣の橋」と形も構造も類似している。
「陣橋」は熊本城の森本櫓(現存せず)の真下に井芹川が蛇行していて、城内から本妙寺へ通ずる大切な要路に設けられていた。

その先に「杉塘(すぎども)」が続いたが、いまは地名のみ残されている。

「段山橋」は果たしていつ頃に架橋されたのだろうかと思い、「地名辞典」や「熊本県百科事典」などを検索するが全く触れられていない。「陣の橋」も同様である。これはいかん・・・

随分以前熊本城と京町台を結ぶ「磐根橋」の由来を調べたことがあるが、これもいまだに謎のままで何故「磐根」と付けたのかはっきりしない。

これは又、図書館のレファレンスにお願いしようかなどと安直な考えがよぎったが、その前に一応の努力をしなければなるまい。
まだまだ、知らないことが多すぎる。

             

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■講演会「熊本藩士上田久兵衛と幕末維新」を前にして

2025-02-26 07:25:00 | 講演会

 3月8日に熊本大学で行われる講演会「熊本藩士上田久兵衛と幕末維新」を、血縁の一人として楽しみにしている。
東京大学史料編纂所の資料からの「新しい知見」とあるが、上田久兵衛に関わる「幕末京都の政局と朝廷-肥後藩京都留守居役の書状・日記から見た」は当時の編纂所所長の宮地正人教授のご苦労によっての成果である。
その後の「新しい知見」に興味が尽きない。
宮内庁書陵部からのご出席は、察するところ「中川宮」と上田久兵衛との親しい交流をお話になるのではないかと思っている。

熊本の近世史において、京都留守居役・上田久兵衛の仕事ぶりは忘れられつつある。
私は一時期の「公武合体」運動の大きなうねりの中で熊本藩の存在を大いに発揮した人物として評価されるべきだと思っている。

倒幕により薩長勢力に牛耳られた近世から近代にかけての戦争に向かった結果を見る時、公武合体による幅広い衆議による国家運営がなされていたならば?などと、「歴史にもしもはない」と承知しながら考えてしまう。

熊本における上田久兵衛の研究家・鈴木喬氏は、上田久兵衛について「ひとえに細川韶邦につかえた」人と評されている。
つまり、韶邦の「公武合体」に対する熱意を実現させたいという思いが京都におけるエネルギーとなっていた。
幕末の熊本の政局は「実学派VS学校党」で語られることが多いように思うが、「公武合体」は一時期党派を超えて藩の総意であった。
しかし時の流れに抗えることが出来ず執政等は藩是を覆し、久兵衛は免職となった。
その執政等は韶邦を支えることも出来ず、一部の勢力が朝廷の意をかりて韶邦を藩主の座から引きずり下ろした。
そして改革派の護久、その弟・護美を登場させた。一種のクーデターともいえる。

 韶邦夫人は一条忠香の養女で三条実美の実妹である。明治天皇の皇后・美子は一条忠香の実娘である。
明治五年、明治大帝と皇后は、韶邦の今戸邸をお訪ねになっている。
そういう意味で、韶邦が朝廷を疎かにするとは考え難い。ひとえに「公武合体」を理想に掲げた人であったと確信する。
我家に伝わる話によると、韶邦が東京の今戸邸で病に伏すと、久兵衛は一人熊本から見舞のために上京したという。
「ひとえに細川韶邦につかえた」久兵衛を誇らしく思う。

そして西南戦争に当たっては、川尻の前の奉行職の名の元に、川尻の町を戦火から守るべく奔走したが、新政府により罪を着せられて斬首された。
熊本大学永青文庫研究センターの今村直樹先生の「明治維新後の上田休一廃藩置県・細川家・西南戦争一」を伺えることも楽しみである。
久兵衛の無念の死から再来年は150年に成る。つまり、西南戦争で多くの被害者がでた明治10年の事だが、私は静かに禅定寺の彼の墓前に手を合せるのみである。

 

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■ふきのとう

2025-02-25 08:04:01 | 展覧会

 過日スーパーで「ふきのとう」がパック詰めにされて売られていることに気づいた。
思わず買おうかと思ったが、今の妻ではとても料理することはできないのではないかと思い、諦めた。

「ふきのとう」は漢字では「蕗の薹」である。「蕗」の字は何方も書くことはできるだろうが「薹」は簡単には参らぬ。
私は「草冠に吉、宀冠の点を取って室」と覚えている。

             

俳人「富安風生」氏がよく、「漢字」を取り上げて作句されている。

       むつかしき辭表のの辭の字冬夕焼け
       寒といふ字の一劃々々の寒さ

その富安先生ならば、「蕗の薹」をどう句にされるだろうかと思って調べてみると、お父君との思い出として「蕗の薹」が登場していた。

       蕗の薹炙れば父と居るごとし 
       蕗の薹炙ればせちに父懐ふ

そうか炙ったままで食べる手があると気づいた。
しかし、蕗の薹は「薹」がたったものでも、「蕗」自身もうっすらとした苦みがたまらない。

 

 

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■青にょろい

2025-02-24 08:25:12 | 徒然

 「ふるさと-史跡と風土をたずねて」(昭和55年・熊本市発行)を読んでいたら、「青にょろい」という言葉が出てきた。
「青桐」の木のことだそうな。下通りから安政町にぬける緩やかな「三年坂」は昭和の初期あたりまでは、青桐の並木だったという。
今では青桐の並木と云えば新町の「正妙寺町通り」が知られるが、かっては「上通り」もそうであったと熊本の歴史家・鈴木喬先生の著にあった。
青にょろい」は熊本独特の言い方なのか、「青にょろり」と呼ばれるようだが「にょろり」とは「真っすぐに立っている」の意らしい。

 私が小さいころは、所々で青桐を見かけた。秋に成ると実を付けた袋が四つ・五つに割けて地面に落ちるが、これを拾い集めて、火に炙って食べた記憶がある。
大変香ばしく美味しというその味は良く覚えていないが、戦後の食糧難の頃の小学生時代のなつかしい思い出だ。ちょっと食べてみたい気がする。
今では、あの青々とした木肌の「青にょろい」を見かけることはない。
               

 

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■衣服や軍役のこと

2025-02-24 07:25:26 | memo

安永四年二月廿四日・仰渡し
一衣服御制度之内、御家中家來/\知行遣置候者仕席ニ可准旨被仰付置候處、知行遣不被置候共、知行取格又は給人段なとと申名目
 ニて、知行遣置候者同様被申付候類も有之様子ニ付、去々年以來右之趣段々相尋、夫々之返答も承届候處區々ニ相聞、只今之通ニ
 てハ右際限之據無之候條、以來左之通
一知行取は不及申、知行取格・給人段と申ハ騎馬之名目ニ付、軍役ニ差出候騎馬之人數は知行遣置不申候共、知行取格・給人段なと
 へ被申付、刀脇差之拵・衣服等士席之御制度ニ准被申付候儀不苦候事
一右之通ニ付、軍役之外ニ騎馬可被差出用意於有之は、何人にても知行取格・給人段等之名目不申付候儀不苦候事
  但軍役之騎馬數之外ニ、給人段等ニ被申付儀ニ候ハヽ、先其騎馬數之武具馬具用意有之候上、其姓名等頭々え被相達、頭々よ
  り御奉行所被相達、御奉行所より達を受可被申付候、依之騎馬之用意も無之、名目計知行取格又は給人段と被申付候儀ハ難叶候
一當時之軍役ニては、貮千石以上騎馬被指出候御格ニて候へ共、前條之通騎馬用意有之輩五百石以上は、知行取格・給人段等之名目
 不苦候事
  但、五百石以下ニても、前々より譯有物之右格合ニて代々召仕來候家來は、其由來委ク被相達、是また騎馬之用意有之候上被相
  達置候ハヽ、其譯次第給人段等之名目ニ被申付候儀、御免有之候筈候事
一知行取幷知行取格・給人段等之子弟、別ニ呼出召仕非申候者は、其父兄之家類之衣服等は難叶、其者之段敷を以日申付筈候事
 右之通被仰付候、以上
   安永四年二月廿四日

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■弓削神社の「夜泣き貝?」

2025-02-23 07:33:31 | 熊本

 時々のぞかせていただいている「肥後ジャーナル」さんの、あの“インパクト”のある神社に行ってきた!【弓削神宮】を拝見した。
弓削神社龍田町弓削489に孝謙天皇をお祀りして鎮座する神社で白川の大蛇行するその突端部の内側にある。
その白川の対岸、県道235号線沿いの弓削町258には弓削法皇社(上弓削神社)が鎮座している。こちらも祭神は孝謙天皇だが弓削道鏡だともされている。
そんなことから「あの“インパクト”のある」神社として有名になった。夫婦和合の神様だとか、子授け、五穀豊穣の神様だとされる。
私はそれこそ50数年前、近くに住んでいた友人と訪れたことがあるが、法皇社の方は尋ねたことがない。
弓削神社にはイチョウの巨木があるが、これに地元の人たちが「なっぎゃ=泣き貝」」と呼ぶ貝が生息しており、夜泣きする赤ちゃんをお持ちのお母さんたちが、この貝を赤ちやんの枕に入れると良くなるとかで持ち帰えられるという。
本来の「夜泣き貝」は海の浅瀬に棲息する貝を言うらしい。形がよく似ているからそういうのかもしれない。
史料が焼失したりしていて、何故孝謙天皇が祀られているのかさえ判らないようだが、道鏡の方は地名に由来して付け足しなのかもしれないが、最近では道鏡の方が主に扱われる「インパクト」ある神社ではある。
全国の皆様にご紹介しておきたい。


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■日本の古本屋にもない・・・

2025-02-22 08:27:13 | オークション

 ヤフーオークションで「細川」と打ち込んで検索して相当の数をチェックしてそろそろ止めようかと思っていたところに、この本が目に飛び込んできた。
この本は現在では大変な貴重本になっていて、「日本の古本屋」でも見当たらない。随分久しぶりにお目に懸った。
2007年頃私はこの本を探し回っていて「見つからぬ本・・そして雑感」を書いている。その後この本を所蔵されていたP様からご恵贈給わって現在に至っている。
以来気にして来たが、それ以来の事かと思う。
応札しようかとも思ったが、一冊持っているから人様にお譲りするのが良かろうと思ったことだ。

                     
                     細川ガラシャの娘・お長

 お長は忠興とガラシャの間に生まれ、前野出雲守に嫁いだが、夫君景定がその父但馬守と共に「秀次事件」(文禄4年=1595)に連座し切腹を仰せつかり、父・忠興の機転により剃髪して死を免れた。
傷心のお長が母と再び過ごすことができたが、その母・ガラシャも慶長5年(1600)には亡くなっているから、わずか5年の歳月だった。母の死の跡慶長8年に死去している。記録に於いても僅かである。

綿考輯録
(慶長八年)九月廿九日、前野出雲守後室忠興君御女御名お長安昌院殿御卒去、法号月心妙光
  考ニ一書、妙光を妙覚、慶長八年を九年、九月を八月、御名お長をお市なとある皆誤なり、御碑面を拝し候ニ安昌院殿心月妙光大姉、
  慶長八年九月
廿九日と有、但八月と云事は近年盛光寺より願之筋有之、由来記を御役所ニ書出候ニ先住誤て八月と調出候由、当住之
  物語也寛政十二庚申也、御名由
来記ニもお長と有之、お市と云事ハなし、当時八代安昌院に御位牌有、此寺ハ元ト盛光寺の隠居所な
  りしニ、安昌院ハ元来西光寺と云、三齋君の御
愛妾小上(コノウエ)といへる女の法名を西光院法樹栄林と云、此菩提の為元和年中
  中津に一寺建立西光寺と被号、右女の弟良運乗誉という僧開祖也、
夫より四世の僧三齋君を慕ふて八代に來り西光寺建立、安昌院殿
  殿御位牌も初ハ此所ニ在、後ニ盛光寺と改也、浄土宗筑後善同寺末也 

兼見卿記(結婚について)
  天正十八年十二月廿六日 甲午、長岡与一郎息女(お長)隣國但馬守(前野長康)子息(景定)へ祝言、今夜被罷向云々

 

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■侍の事を腐しおって・・・

2025-02-21 07:20:54 | 徒然

 2008年4月に「しっかりしろ行政」を書いたが、実際の内容は随分古い話で半世紀近くは経過している。
若いころ私の行きつけの7・8人入れば満杯になるようなスナックで、熊本県警本部長(?)を努められたという方と二人席を並べたこと
がある。
鹿児島のご出身と聞いて、よせばいいのに初代警視総監・川路利良の事をお訪ねした。
つまるところ、御自身は西郷派か明治政府派かをお聞きしたことに成る。

 酒の勢いで失礼なことをお聞きしたのではないかと思うが、そんな中で「そつぞく・そつぞく」と仰るのだが意味が分からずにいると
マスターが「そつぞくって何ですか」と助け船を出してくれた。

「足軽=卒族」であることをその時知った。
当時の話は断片的にしか覚えていないが、山県有朋の話だった。山県が足軽身分を隠すために卒族を廃して士族にしてしまったという話だったように思う。
話が及んで何やら「侍の事を腐しおって・・」とすこし声を荒げられたのを記憶している。
 この話が氷解したのはつい数年前、半藤一利氏の「幕末史」を読んでの事である。
明治六年、山県は西郷と相談して「徴兵令」を太政官令として発布している。岩倉使節団が出発した直後の事である。
幕末史には「徴兵告諭」とあったからこれを調べてみると、先の「侍の事を腐しおって・・」の意味がよくわかった。
いささか長くなるがご紹介しよう。山県なる人は、足軽身分の時よほど過酷にこき使わされていたのだろう。
「太政官令」とは思えない私情を含んだ過激な文言が並んでいる。
ひそかに「50年近くたってようやくあの時の話が理解できました」と感謝したことであった。 

  我が朝上古の制、海内挙て兵ならざるはなし。有事の日、天子之れが元帥となり、丁壮兵役に堪ゆる者を募り、
  以て服さざるを征す。役を解き家に帰れば、農たり工たり又商賈たり。固より後世雙刀を帯び武士と称し、抗
  顔
座食し、甚しきに至りては、人を殺し、官其の罪を問はざる者の如きに非ず。(中略)太政維新、列藩版図
  を奉
還し、辛未の歳に及び遠く郡県の古に復す。世襲座食の士は、其禄を滅し、刀剣を脱するを許し、四民漸
  く自由
の権を得せしめんとす。是れ上下を平均し、人権を斉一にする道にして、即ち兵農を合一にする基なり。
  是に於
て士は従前の士に非ず。民は従前の民にあらず。均しく皇国一般の民にして、国に報ずるの道も固より
  其の別な
かるべし。凡そ天地の間、一事一物として税あらざるはなし、以て国用に宛つ。然らば則ち人たるも
  の固より心
力を尽くし、国に報ぜざるべからず。西人之れを称して血税と云ふ。其の生血を以て国に報ずるの
  謂なり。且つ
国家に災害あれば、人々其の災害の一分を受けざるを得ず。是れが故に人々心力を尽し、国家の
  災害を防ぐは、
則ち自己の災害を防ぐの基たるを知るべし。苟も国あれば則ち兵備あり、兵備あれば則ち 人々
  其の役に就かざる
を得ず。是に由てこれを観れば、民兵の法たる、固より天然の理にして、偶然作意の法に非
  ず。然り而して其の
制の如きは、古今を斟酌し、時と宜を制せざるべからず。西洋諸国数百年来研究実践以て
  兵制を定む。故を以て、
其法極めて精密なり。然れども政体・地理の異なる、悉くこれを用ふべからず。故に
  今其の長ずる所を取り、古
昔の軍制を補ひ、海陸二軍を備へ、全国四民男児二十歳に至る者は、尽く兵籍に編
  入し、以て緩急の用に備ふべ
し。郷長・里正、厚く此の御趣意を奉じ、徴兵令に依り、民庶を説諭し、国家保
  護の大本を知るらしむべきもの
なり。

 



 

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■民の竈に煙はたたず

2025-02-20 11:43:42 | 徒然

 妻に夕食のメニューをきいて材料調達のために近所のスーパーに出かける。行く途中で妻が米がないと言い出した。
5㌔の米を持って帰るのには少々応えるぞと思いながら、一通りの買い物をカートに乗せ、最期にコメ売り場に行くと・・全く米がない。
入荷は「火曜と金曜日」と張り紙がしてある。そして御笑い種のように脇に「お餅」が売られていた。
別の店に出かければあるのかもしれないが、何せ車がないから再度出かける気にならない。

帰り道、今晩は店屋物だなと話しながらも、冷凍ものの「炒飯」や「五目飯」があるのを思い出した。
明日の朝はパン食にして、その後、「コメの買い出し」に出なければならない。
その内には、回転すし屋さんが臨時休業したりするんじゃないか、なんて思ってしまう。

 何という世の中だと思う。江戸時代ならば米問屋の打ち壊し騒動が起こるような事態だ。
最近は外国勢の転売ヤーが跋扈しているらしいが、いろんな頭の良い人たちが高値で売り切ろうとストックしているらしい。
政府米が放出されるというが、温度管理などの管理の悪いこれら転売ヤーたちの米は売り切りのために大慌てだろう。
売れなければ豚のえさに成るのかもしれない。精々儲けて税金を払っていただこう。
こんな具合では益々「コメ離れ」に拍車がかかるのではないかと心配してしまう。

「豊葦原の瑞穂の国」は豊作なのに、庶民は高値ですら米が手に入らず、これでは民の竈には煙は上がりませんぞ。

 

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■古文書の終活-3

2025-02-20 08:20:24 | 史料

          

 熊本城内に「熊本城城郭模型」が展示してあるが、熊本城や時習館などは資料が残されているが、侍屋敷などの資料はなくそのほとんどは真実とは程遠い想像上の代物である。
そんな中、写真の「三卿家老米田(長岡監物)邸」だけは平面図が残されていて、熊本大学の伊東教授の監修のもとにこの模型に作り直されている。
その許になったのがかってブログでご紹介した「二ノ丸・米田御屋敷絵図について」に掲載している絵図(左写真)である。
恥ずかしながら所有者として私の名前をご紹介いただいている。
私がこの絵図を入した時期、別途熊本大学図書館にやや小ぶりなものが寄付をされたことが、地元新聞に報道された。
出処は一緒で二件に分けてヤフオクに出品されたものと思われる。

           2018年10月2日の熊本日日新聞

この様ないきさつもあり、この絵図をどこに納めようかと悩んでいる。
熊本大学図書館に先述の絵図がそんざいしているから、この絵図は熊本城に展示していただくのが良いのかもしれない。
何とも悩ましい限りではある。

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■源之進櫓

2025-02-19 07:10:27 | 展覧会

                    

 最近こんな素敵な、熊本城の「源之進櫓」のポストカードを見つけた。早速10枚ほどを購入した。
作家・谷村勲氏の作品で、多くのポストカードを販売しておられる。(タニムラポストカードストア

この「源之進櫓」についてはいろんな思い出がある。16年ほど前に成ろうか、「熊本城には人名に由来する三つの櫓がある」ことを書いた。
飯田丸(飯田角兵衛由来)、監物櫓(米田監物由来)そしてこの「源之進櫓」だが、その源之進櫓の名前の由来についてはあまり知られていなかった。
じつは綿考輯録にその答えはあった。源之進の姓は河喜多氏、父藤平(石見)が■綿考輯録から「飯河豊前・長岡肥後誅伐事件」(一)の際その仕手に指名され、不幸に討死したが、源之進はその前後に出生している。
幼名久四郎、島原の乱にも出陣して働いたが控えめな性格であったらしく、「先祖の働き」に比べると大した働きもしていないと、自らの戦功を言い立てることもなかった。
後、「綱利君御幼年の比六斎門(これがよくわからない)の上御櫓一ヶ所御預被成」従類共二居住したと綿考輯録(忠利公・下巻P50~51)は記している。これが今に源之進櫓と呼ばれるものである。

驚いたのは、2014‐8‐22の熊本城顕彰会の会報「熊本城」に於いて、富田紘一先生が「熊本城見所案内・9」の中で取り上げて戴いたことだ。

そして史談会の先輩に河喜多氏がおられ長くご厚誼をいただいたが、この源之進のご子孫であった。
別系の河喜多氏が熊本に来熊されると共に酒杯を上げて旧交を温めた。奇しきことである。

 

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■私が読んだ「昭和時代の取り返しのつかない十年」に関する書籍

2025-02-19 06:55:14 | 書籍・読書

 先のブログ「熊本の儒学がたどった道」のなかで、「細川護貞さまは、昭和10年以降太平洋戦争に至る日本の取り返しのつかない愚行は、その師・狩野君山の言として「みんな宋学(朱子学)のせいだ」という認識を共有されている。」と書いた。
                                                                         
 最近私は、「昭和十年代の陸軍と実像-軍部大臣現役武官制の虚像と実像」という本を購入して読んでいる・
「1936年に復活した軍部大臣現役武官制によって陸軍は暴走し、日本は戦争への道を歩んでいくという歴史認識が定着して久しい。この見方はいかに誤っているのか。陸相のポストをめぐり陸軍と首相が対立した昭和10年代の全ケースを精査し、その対立の内実を初めて解明した本書は、昭和史の常識を覆す注目の書。」とあるが、2・26事件直後から米内内閣の倒閣までを詳しく取り上げている。著者の筒井清忠氏は「軍部大臣の現役武官説が陸軍の暴走を可能にした」説に疑義を感じながらこの著を上梓された。その内容は私の認識を打ち砕くものであった。

 その時代の一時期は、護貞さまにとっては政治の中枢に身を置いておられた。岳父である近衛文麿の秘書官であられた。
その詳細は護貞さまの著「情報天皇に達せず(細川日記=黙語録)」に詳しい。

 又、護貞さまが親しくされておられた原田熊雄(細川護貞著「思い出の人々」)の女婿・勝田龍夫の著「重臣たちの昭和史」も、元老西園寺公望の三羽烏といわれた近衛文麿木戸幸一・そして原田熊雄などの話をもとに天皇周辺の実相に迫っていて、かって一気呵成に読了したが名著だと思っている。

 又、半藤一利の「昭和史」「日本のいちばん長い日」も親しみやすく読了した。

ただ、これらの深刻な内容のそれぞれの著作から、「朱子学」の匂いを嗅ぎ取ることは浅学菲才の爺には100%できない。
君山のこの見解に関する簡明な論考などないものかと思っている。君山は我が祖母の叔父にあたる人だが、とにかく話が難しくてついていけない。

 

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■古文書の終活-2「花畑邸大掃除に関する文書」

2025-02-18 17:02:32 | 展覧会
 
■二月十八日付け、花畑邸大掃除の号令

    寛永九年十二月に肥後に入国した忠利は、地震におびえている。城内の居住区の周辺には空き地がなく、地震屋を立てる空間もないと嘆いている。そんな中、老中稲葉正勝の居城・小田......
 

 私にとっては大金をはたいてヤフオクで入手したのがこの文書である。
この文書が現物と思われるから、多分永青文庫には「案文」は残っているかもしれないが、そういう意味では貴重な史料だと思っている。
これは、一度永青文庫にお尋ねをしてお納め先を確認しようと準備をしている。
つまるところ、熊本大学図書館が落ち着き先になるのだろう。

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■眉・耳・鼻のあれ?

2025-02-18 08:48:48 | 徒然

 大河「べらぼう」に出てくる、石坂浩二氏演じる老中・松平武元の育ちすぎの眉毛には驚かされるが、立派な眉毛の元総理の村山富市氏もこれでは勝負にはならないだろう。
                                                      

 私も時折鏡をのぞいて、眉毛の伸びに驚かされている。
先日散髪に行った折、「何で年を取ると眉毛・耳毛・鼻毛が伸びるんだろうね」というような話をしたら、「若いころは一定のサイクルで抜け落ちるものが、歳をとるとそのサイクルが長くなってしまうらしい」という話を聞いた。
なるほどと合点したが何ともさびしい話ではないか。

ただ、眉毛が白髪状態になると、精々眉毛くらいは白髪なしにしたいと思って、眉毛専用の白髪染めはないかとググってみた。
いわゆる「マスカラ」というやつだが、私同様悩み多い人のために結構な商品がある。奥方に内緒で近所のドラッグストアをのぞいてみようと思っている。
一方私の頭の方は、司馬遼太郎なみのほぼ100%に近い白髪なのだが、これは奥方の反対で染めることはまかりならない。
四か月入院していた奥方が、退院する頃には髪は延びすっかり白髪状態で驚いてしまったが、退院すると早々染めてしまった。
最近私は散髪に出かけるのも億劫で本当に司馬遼太郎風にしようかと思うのだが、私の髪は癖が悪く、外に跳ねまくってしまって何とも具合が悪い。
月一、史談会の例会前に髪を整えることになる。
数年前「爪を切り、鼻毛・耳毛・眉毛にも気を付けなきゃ駄目ですよ」とは、散髪屋さんの若い女性スタッフの言である。御尤もなご指摘で肝に銘じている。


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