goo blog サービス終了のお知らせ 

津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

赤穂義士切腹之図(一)

2013-01-25 08:43:32 | 史料

             大石良雄 - Wikipedia    大石内蔵助義雄切腹之図  クリックすると大きくなります。

 ご存じ、細川家に預けられた赤穂義士の切腹之図である。右は赤星閑意が描いたものだが微妙に違う。その他にもいろいろ伝えられているが
  (参考図 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_01955/chi04_01955.pdf)ベースは同じものであろう。
吉良邸討ち入り以来細川家に留め置かれた17人が、2月4日細川家白銀邸において切腹することと成る。 

白い幕で囲まれた場所には今まさに切腹しようとする大石内蔵助と、介錯役の安場一平の姿がある。
左手の「大書院」入側の屏風に囲まれたところに、上使の荒木十右衛門(下)と久永内記(上)の姿がある。
縁側には幕府の関係者が列座し、庭には同じく幕府関係者と共に、細川家の関係者(上から)右田才助、留守居の勾坂平兵衛・堀内平内、小姓頭・平野九郎右衛門が居並んでいる。大石内蔵助の上部塀越しに見えるのが、新組之組脇の吉弘加右衛門、左手に五人の御番衆が列座、一番右手くぐり門の屋根越しに見えているのが、吉弘と同役の八木市大夫である。この二人は「御預人用聞挨拶」役を務めており、使番の堀内傳右衛門らとともに17名の人々と特に接していたものと思われる。右手上に順番を待つ16名の同志の姿が見える。文字の書き込みがあり「役者之御間」とあるが、実際はこのような間取りではない。実際には間に能舞台があり、相当デフォルメされて描かれている。

昨日ご紹介した白金邸の図面を見ていただくとこの絵図との相違がよく判るだろう。

下の図は「御預人記録」に附されているものである。
これによると幕府上使の上方に見える二人が、右手が坂崎忠左衛門、左手が三宅藤兵衛、その後ろ宮村團之進・鎌田権之允の名前が記されているが、上記絵図においては異同がある。 

                                                            

 これらの絵図はこの場に臨んだ右田才助が書き記したものがベースであるらしい。

2008年東洋大学の名誉教授・大野瑞男氏が、日本歴史(吉川弘文館)12月号で「大石内蔵助ら切腹の図の進出」として一文を懸れている中で、ご自身の所蔵になる右田才助自身の筆となる絵図を公開された。まさに真実はここにあるように思える。
絵図は次回にご紹介する。 

 

 

             

コメント (3)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大久保橙青という人 | トップ | 絶版勢揃い »
最新の画像もっと見る

3 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
鉄の道アスリート (グローバルサムライ )
2025-03-31 11:48:19
最近はChatGPT(LLM)や生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタイン物理学のような理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズム人間の思考を模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、トレードオフ関係の全体最適化に関わる様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな科学哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術とは違った日本らしさとも呼べるような多神教的発想と考えられる。
返信する
荒木十左衛門政羽について (荒木幹雄)
2025-04-21 01:30:21
 「上使の荒木十右衛門」とありますが、正しくは「荒木十左衛門」です。
 荒木村重研究会会報『村重』15号(2017)に私が書いた文章を載せさせて頂きます。

荒木村重の従兄弟の荒木志摩守元清から5代目の子孫の徳川幕府旗本千五百石の荒木十左衛門政羽(まさは)は、赤穂事件に基づく「忠臣蔵」に2回登場する。
 第一回目は幕府目付として赤穂城を大石内蔵助から接収する場面である。「元禄十四年(1701)三月二十八日浅野内匠頭長矩が所領没収せらるるにより、御目付をうけたまはりて播磨国赤穂におもむく。」(『新訂寛政重修諸家譜第13』p365)。
 第二回目は大石内蔵助切腹直前の場面である。元禄十六年(1703)二月四日荒木十左衛門政羽は幕府目付として江戸の細川藩邸の赤穂浪士十七人の切腹に立ち会った。荒木十左衛門政羽は、大石内蔵助良雄に幕府の決定として切腹を申し渡した後に、申し渡しとは別の個人的な話として、本日吉良上野介嫡子義周(よしちか)が改易され、諏訪藩へ御預けと決まった事を伝え、皆には本望であるに違いないと思う、と述べた(亀岡豊二編纂『赤穂義士史料中巻』雄山閣、1931年、「細川家御預始末記」p31-32)。この後大石内蔵助良雄は落涙の体で、有り難き事、と他の赤穂浪士に義周処分を伝え、その後に荒木十左衛門政羽の前で切腹した(『鍋田晶山赤穂義人纂書一』赤穂義士資料大成、矢留的発行、日本シェル出版、1975年、「堀内伝右衛門覚書」p336-340)。
 荒木十左衛門政羽が切腹直前の大石内蔵助良雄に、吉良上野介嫡子義周(よしちか)の改易を「個人的な話」として伝えた事は、私には「武士の情け」の典型的な話と思える。
返信する
Unknown (津々堂)
2025-04-25 10:52:54
ご示教有難うございました。
荒木十左衛門も村重一族とは知りませんでした。
「荒木」姓にであったら、今後は大いに気を付けたいと思います。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。