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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

武田信玄の孫、岩間六兵衛なる人--1

2008-02-07 14:45:25 | 歴史
 忠利夫人千代姫の入輿にあたって、小笠原家から付人として細川家に入り家臣となったのが岩間六兵衛である。武田信玄の孫であるとされる。この人については、三つの説があって私の頭を悩ましている。

(一)武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、今度(千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公より一通り六兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也 (綿考輯録・巻二十八)

(二)源正成・武田六兵衛、岩間と改 武田晴信入道玄孫義信子 武田勝頼臣岩間大蔵左衛門正頼養子、武田家没落後小笠原兵部大輔に仕、慶長十九年保寿院入輿の時付人、忠利より三百石拝領 正保四年正月二十五日江戸歿 妻梅津江州伴城主伴周防孫
           (花岡氏監修 肥後藩・主要系図より)

(三)細川家臣。六兵衛。武田信清男。武田氏滅亡の後、塩谷監物の養子となる。監物は小笠原秀政に召抱えられ、正成は秀政男忠真に附属せらる。そののち、秀政女千代姫が徳川秀忠養女として細川忠利に嫁ぐに際して、これに附属せられ、細川家臣となり、岩間六兵衛と改称す。元和九年頃、江戸詰衆、二百石、外に合力米百石。
           (大日本近世史料・細川家史料・・人名一覧より)

   1、父親は誰か。
   2、養子先は岩間氏か、塩谷氏か 
 三者三様の説であって交わる事を知らない。(三)についても承知していたのだが、東大史料編纂所がこの説を採っておられるのが驚きだった。綿孝輯録と明らかな違いがある。

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15 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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伝え聞いています (岩間六衛門子孫)
2009-11-26 20:35:54
私の祖母の実家が青森県田子町にあり、武田信玄の子孫と伝え聞いております。
屋号は、岩間六衛門といい、代々跡継ぎはこの名前を引き継いできました。
甲斐「岩間寺?」に行けば、先祖の事が分かると伝え聞いておりましたが、未だ確認に至っておりません。
先祖代々伝わる書物や、鎧兜など、存在したようですが、跡継ぎがいない事で断絶し、一部現存しております。
参考まで
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信玄公長男の直系 (津々堂)
2009-11-27 14:18:19
細川家家臣の岩間氏は、信玄公長男の直系で小笠原氏に仕え、細川忠利に小笠原氏女千代姫(徳川秀忠養女)が輿入れの際お供をして家臣となりました。加藤清正の菩提寺・本妙寺の脇にある大きな墓苑に30坪ほどの大きな歴代のお墓があります。ご子孫は佐賀にお住まいのようです。
情報有難う御座いました。
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岩間家について (井上)
2009-11-27 17:18:10
小生の父の従弟に戦艦大和に乗船していた板垣四郎海軍軍医少将がおりますが。この板垣は岩間家の分家です。(ニ)の説が正しいと思います。信玄の長男の家系です。
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養子先 (井上一志)
2009-11-27 17:23:31
岩間六兵衛が正しいと思います。現在旧子爵の武田氏は同じ経堂に住んでいますよ。
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岩間家・板垣家 (井上)
2009-11-28 11:01:09
なぜかここ経堂は武田家血縁及び家臣の子孫の方が多く住んでいます。旧真田伯爵家の子孫など。旧武田子爵(次男、元出家して僧)も長男の義信の子(岩間)は婦人が三条家出身です。本来なら長男の家系が子爵家を継ぐのが妥当でしょうが、明治期に申請されなかったようです。


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Unknown (あきw8504)
2010-09-23 02:47:41
ネットでたまたま「岩間家」を検索していたらここに辿りつきました。
私は岩間性で、祖父母・父は熊本人です。
戦後に仕事の都合で佐賀県・鳥栖市に引越してきたそうです。
(私は、就職して25年前から北九州在住
 です)
小学生の時に行ったきりですが、熊本市内に
30~40坪ぐらいの立派な墓所もあります。
子供心に、お墓の広さにびっくりした記憶が
あります。
岩間姓は祖母方の姓で祖父は養子でした。
祖母は明治生まれで、数えの100歳で
亡くなりましたが、生前は、「小十郎さん」
の話をたまにしてましたね。
武田勝頼の末裔だという話も、聞いたことが
あります。
まあ、祖母も伝え聞きだったでしょうがね。
引越し以来、熊本の親戚とは疎遠で
親も詳細はよくわからないようです(^_^)
でも、ちょっと自分のルーツを再発見した
ような気になりました。


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花園霊園 (津々堂)
2010-09-23 18:24:30
立派なお墓が熊本市花園霊園にあり、私も何度か訪ねたことがあります。二三年前修復されて見違えるようになりました。管理事務所でご子孫のことを訊ねましたら、佐賀にお住まいだとお聞きしました。御家のことでしょうか。
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経堂 (岩間六衛門子孫)
2011-08-09 17:07:21
数年前書きました。
田子町にゆかりの者です。
経堂興味深いですね。
田子の関という場所に先祖がたどり着いたようですが、関所にいたようです。
隣の家の人が真田性だったようです。
この地に来る時、真田家も一緒に来たようですね。


真田太古といって、西郷隆盛に呼応し北から出兵するはずが、鎮圧されたという事件も明治時代にあったようです。

そんな田子町と同じ姓が存在する経堂に、今度行ってみたいです
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岩間の輪 (岩間'S)
2013-02-09 09:20:32
私も「岩間家」を検索していたらここに辿りつきました。実は我が家も「武田の出である」と父から聞いておりました。副城代をしていたそうです。曾祖父は陳直、大伯父は九州大学などの教授をしていた巌、この大伯父には子供がいなかったので次男の長男=私の父の所に清子大伯母(書家)から家系図が届く筈でした。所が何故かこの家系図が紛失。届くのを楽しみにしていた父も亡くなりました。父は教師でしたので歴史的意味でも興味を持っていたと思うと残念です。ただ、一度大伯母に見せてもらった時に何故か私や兄と同じ名前がつけられた子供たちがいると父が言っていたのが気味が悪く心に残っております。それにしても武田~岩間繋がりで全国にご縁があると思うと嬉しいですね。それから陳直は北海道で副知事をしていたらしいです。
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岩間家ではありませんが・・・ (曽ヶ端)
2013-02-15 15:01:59
武田信玄公を検索しているうちに、貴サイトに辿り着きました。
私のご先祖さんは岩間家ではありませんが、信玄公の重鎮であった板垣信方公の弟につながるようです。

同じく重鎮であった諸角豊後守に子がおらず、信方公の弟が養子に入りました。

伝え聞くところによると、この養子のご子息のうち、改易された長男の直系に当たるようです。
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