忠利夫人千代姫の入輿にあたって、小笠原家から付人として細川家に入り家臣となったのが岩間六兵衛である。武田信玄の孫であるとされる。この人については、三つの説があって私の頭を悩ましている。
(一)武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、今度(千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公より一通り六兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也 (綿考輯録・巻二十八)
(二)源正成・武田六兵衛、岩間と改 武田晴信入道玄孫義信子 武田勝頼臣岩間大蔵左衛門正頼養子、武田家没落後小笠原兵部大輔に仕、慶長十九年保寿院入輿の時付人、忠利より三百石拝領 正保四年正月二十五日江戸歿 妻梅津江州伴城主伴周防孫
(花岡氏監修 肥後藩・主要系図より)
(三)細川家臣。六兵衛。武田信清男。武田氏滅亡の後、塩谷監物の養子となる。監物は小笠原秀政に召抱えられ、正成は秀政男忠真に附属せらる。そののち、秀政女千代姫が徳川秀忠養女として細川忠利に嫁ぐに際して、これに附属せられ、細川家臣となり、岩間六兵衛と改称す。元和九年頃、江戸詰衆、二百石、外に合力米百石。
(大日本近世史料・細川家史料・・人名一覧より)
1、父親は誰か。
2、養子先は岩間氏か、塩谷氏か
三者三様の説であって交わる事を知らない。(三)についても承知していたのだが、東大史料編纂所がこの説を採っておられるのが驚きだった。綿孝輯録と明らかな違いがある。
(一)武田信玄嫡孫之由、甲州没落之時幼年にて母つれて立隠れ、兼て小笠原殿御懇意故育置れ候由、武田六兵衛と申候、今度(千代姫入輿)御附被仰付候事御断候得は、秀忠公より一通り六兵衛を御旗本並に被召直、其上ニ而御輿入の御供可仕旨御諚二而御請申上候、此節より岩間と改候と也 (綿考輯録・巻二十八)
(二)源正成・武田六兵衛、岩間と改 武田晴信入道玄孫義信子 武田勝頼臣岩間大蔵左衛門正頼養子、武田家没落後小笠原兵部大輔に仕、慶長十九年保寿院入輿の時付人、忠利より三百石拝領 正保四年正月二十五日江戸歿 妻梅津江州伴城主伴周防孫
(花岡氏監修 肥後藩・主要系図より)
(三)細川家臣。六兵衛。武田信清男。武田氏滅亡の後、塩谷監物の養子となる。監物は小笠原秀政に召抱えられ、正成は秀政男忠真に附属せらる。そののち、秀政女千代姫が徳川秀忠養女として細川忠利に嫁ぐに際して、これに附属せられ、細川家臣となり、岩間六兵衛と改称す。元和九年頃、江戸詰衆、二百石、外に合力米百石。
(大日本近世史料・細川家史料・・人名一覧より)
1、父親は誰か。
2、養子先は岩間氏か、塩谷氏か
三者三様の説であって交わる事を知らない。(三)についても承知していたのだが、東大史料編纂所がこの説を採っておられるのが驚きだった。綿孝輯録と明らかな違いがある。
屋号は、岩間六衛門といい、代々跡継ぎはこの名前を引き継いできました。
甲斐「岩間寺?」に行けば、先祖の事が分かると伝え聞いておりましたが、未だ確認に至っておりません。
先祖代々伝わる書物や、鎧兜など、存在したようですが、跡継ぎがいない事で断絶し、一部現存しております。
参考まで
情報有難う御座いました。
私は岩間性で、祖父母・父は熊本人です。
戦後に仕事の都合で佐賀県・鳥栖市に引越してきたそうです。
(私は、就職して25年前から北九州在住
です)
小学生の時に行ったきりですが、熊本市内に
30~40坪ぐらいの立派な墓所もあります。
子供心に、お墓の広さにびっくりした記憶が
あります。
岩間姓は祖母方の姓で祖父は養子でした。
祖母は明治生まれで、数えの100歳で
亡くなりましたが、生前は、「小十郎さん」
の話をたまにしてましたね。
武田勝頼の末裔だという話も、聞いたことが
あります。
まあ、祖母も伝え聞きだったでしょうがね。
引越し以来、熊本の親戚とは疎遠で
親も詳細はよくわからないようです(^_^)
でも、ちょっと自分のルーツを再発見した
ような気になりました。
田子町にゆかりの者です。
経堂興味深いですね。
田子の関という場所に先祖がたどり着いたようですが、関所にいたようです。
隣の家の人が真田性だったようです。
この地に来る時、真田家も一緒に来たようですね。
真田太古といって、西郷隆盛に呼応し北から出兵するはずが、鎮圧されたという事件も明治時代にあったようです。
そんな田子町と同じ姓が存在する経堂に、今度行ってみたいです
私のご先祖さんは岩間家ではありませんが、信玄公の重鎮であった板垣信方公の弟につながるようです。
同じく重鎮であった諸角豊後守に子がおらず、信方公の弟が養子に入りました。
伝え聞くところによると、この養子のご子息のうち、改易された長男の直系に当たるようです。