魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

兄弟関係

2006年12月13日 | 兄弟関係

「兄弟は他人の始まり」という。親は保護者だが、兄弟はむき出しの欲望がぶつかる競争関係であり、初めての社会関係だ。したがって性格形成には大いに影響するようだ。三つ子の魂はどんな立派な人にも生きている。
子供は様々な環境の中で生まれるから、もちろん同じではないが、傾向としてはおもしろい。長年の対話の中で見えてきた兄弟関係の図をあげてみたい。ただ、人格は多様な要因の複合体で、無限のバリエーションがあることは言うまでもない。兄弟関係だけでも、性別、年齢差、人数など多様な要因がある。ここではかなり漠然とした基本形だけをあげる。
兄弟関係による人格は、様々な状況に現れる。親子でも末っ子の親が長子の我が子を頼りにしたり、中間児の上司が部下の長子の気勢をそいだりということが起きる。うまくいかない相手を理解する上で、生い立ちの兄弟関係を知れば何かの役に立つかも知れない。

第一子
長子はまず、一人っ子として生まれる。逆に長子以外は皆、末っ子として生まれる。互いに相手の立場を知らない。
長子=一人っ子+α 中間児=末っ子+α )

一人っ子     (森のプーさん)
一人っ子が生まれると周りは大人ばかりだ。大人は子供には思いやりがあり、無茶な攻撃を仕掛けないし、静かにお願いすれば、大抵のことは聞いてくれる。それでも大人が聞いてくれないことは、きっと良くないことなのだろうと納得し自制できるようになる。時間と空間にゆとりがあり、大人は辛抱強く説得もしてくれるからだ。何かわらないことが起きれば先ず大人に聞くが、やがて何ごとも自分で考えるようになる。考えを実行して、大人が止めず、実際に問題が起こらなければそれ以上、人間関係などは考えない。もし、初めてのことに遭遇し、それが理解できないなら立ち止まり、考え、対応に時間的余裕がなければ退く。
つまり、何事も自分なりに理解しようとする。また、大人が示す思いやりを見習い、自分も他人に対して思いやりで接しようとする。
人間を信頼し、意見の違いがあれば「話せばわかる」と考える。そして、自分の頑固さには気づかず、気長に説得しようとする。とかく、大人に好かれる良い子になろうとする。自分の間違いを過剰に認めるのも、いい人、ものわかりのいい人になりたいからだ。攻撃的になるより自分の中に修正点を探そうとする。
話し合いもなく問答無用で強制されても、方向転換できない。現実的に臨機応変とはいかず、協調性に欠ける。自分の考えがまとまらなければまず譲るので、いじめられやすい。
冷静を保とうとし、人付き合い、競争は苦手だが、孤独には強い。自分の世界でいつまでも一人遊びができる。何事もよく観察し、考え想像し、掘り下げていく。思慮深く独創的な発想を持っている。やさしいオタク型

長 子   (トムソーヤ 雄弁は銀)
一人っ子に弟妹ができると長子となる。年子のように近い場合と、幼稚園以上の社会生活経験のある場合とでは相当違ってくる。社会性を持った年で弟妹ができると、自分も弟妹に対して大人になる努力をするし、家族以外の人間関係があるから弟妹に対して躍起にならない。競争する気もない。理屈の解らない弟妹達との面倒くさい関係からは逃れ、無視しようとする。反面、親から長子の責任を託されることもあって、大人意識から、自分の都合次第、気分次第で弟妹に対して積極的に面倒を見ようとする。面倒を見てやろうという気持ちが、自分の方法の押しつけになり、うるさいことを言う。そうかと思うと、自分の不満をぶつける憂さ晴らしの相手にする場合もある。一人っ子は憂さ晴らしの相手がいないが、長子には弟妹という弱者がいるので独善性が強くなる。ただし、年子で弟妹が生まれると、一人っ子的要素より末っ子的闘争性が加わる。
成長して、弟妹と衝突するようになると、自分の社会生活に逃避する。この場合、弟妹との経験から、外では一人っ子より用心深く、様子を見るために構えるので沈黙がちになり、自分の主張の場を探る。いったん意見を言い出したら、相手の意見を認めても自分の意見を放棄することはない。頑固だが鷹揚だ。

末っ子   (牛に乗ったねずみ)
長子以外は誰でも末っ子経験者だ。末っ子が生まれてみると、大人とは別の兄姉という者がいる。大人はどうも、兄姉と同等に扱っているらしいが、必ず差をつける。兄姉には与えられる物が、なぜか自分には与えられない。同じ「子供」なのに「お兄ちゃんばっかり」「お姉ちゃんばっかり」に初めての物が与えられる。ものごころ付いた時からすべてがそうだ。そういう思いが、親兄姉に対する不満となる。
成長段階が異なれば与えられるものが違うという理屈は、まったく理解できないまま、この被害者意識は焼き付いてしまう。
そこで、赤ん坊の時には不満を泣き叫ぶ。すると、親は不憫に思い、同じものは与えられなくても、何か代わりに満足させるものを提供しようとする。時にはムダ覚悟で同じものを与えることもあるが、大抵は長子が同じ年にはもらえなかったお菓子や玩具になる。ここで、「叩けよさらば開かれん」ということを憶える。そして、長子が感じることのなかった「不足に目覚める」わけだ。(長子が一人っ子の時には、自分とは別な存在の大人のものは求めず、他の家の大きな子供の物には情報を持たず、興味も感じなかった)
何かを与えられても、兄姉と同じものをもらったわけではないから、ごまかされたという悪感情の方が残り、もらったものに対する感謝や満足はない。その結果、何もしてもらってないと思い込む(実は余録にありついていても)。長子と年が離れている場合、多くは尊敬や思慕になるが、年が近いと仲間意識と共に競争心や敵意になる。
長子が何をするにも自分で考え判断しようとし、自省的であるのにたいし、末っ子は無謀で攻撃的だ。たとえ、自分で考えようとしてもそれを実行させてもらえない。兄姉の都合で壊されてしまうからだ。加えて、自分で試行錯誤するより、兄姉と同じ事をした方が参加できるし、兄姉の検証済みで失敗がない。お古というすぐ使える道具もある。(長子は求めなければ何も無いし、必ず買ってもらえるとは限らない)
また、仮に親に叱られるようなことがあっても兄姉のせいにできる。普通、親は兄姉に監督責任を問うからだ。
末っ子が身につける特性は、とりあえず主張する。人の様子を観察する。手本になる行動や考えを求め、同時にライバルを必要とする。長子が対人関係を煩わしがるのに対し、むしろ積極的に人との絡みをつくろうとする。そこで人を喜ばせる術やチャレンジ精神を体得する。ただし、一旦、自分の役に立たないとなると、あっさり切り捨てる。
長子が、原理や方法論にこだわるのに対し、外見的な「・・・らしさ」を追求する。長子が「他人は他人」と考えるのに対し、目立つ他人は常に自分の比較や尊敬の対象になり、お近づきになりたいと思ったり敵意を燃やしたりする。(関係ないはずの人にでも)
では、物まねはどちらがうまいかと言えば、長子の方がうまい。なぜなら、対象の本質を理解してまねようとするからだが、末っ子の場合、対象の面白さ「らしさ」に着眼する。面白さでは末っ子の方がうける。絵の初心者がデッサンをしても、長子は正確だが、末っ子は雰囲気をつかむ。
コツとトレーニングがものを言うスポーツの世界では、迷いのない末っ子の方が上達する。特に、サッカーのような、関係の中で状況に対応するゲームに強い。また、野球のような持ち場が決まっているスポーツでも、指導者や監督に恵まれると末っ子は上達する。スポーツ界、特に野球で姉さん女房が多いのは、常に指導者を必要とするからだろう。

- 若貴ギャップ -
さて近年、長子と末っ子の関係が最も顕著に出た話題は若貴兄弟だ。若乃花が横綱らしからぬ個人に生きたのに対し、貴乃花は横綱「らしさ」に徹した。スポーツで成功したのは弟の貴乃花だったが、指導者として頼ってきた父親が死んだとたん、弟はどうして良いか解らなくなった。
末っ子は指針や心の支えを失うと、暴走する場合がある。糸の切れたタコではなく、新しい指針を求めるために当たりをつける行動だ。迷路に放り込まれたマウスは先ずウロウロする。自動制御ロボットはスイッチを入れると情報収集のためにしばらく不規則な動きをする。とりあえず大騒ぎをしているうちに、歩ける道と歩けない道が見えてくる。
貴乃花がワケのわからない言動をしているとき、誰か「エライ」人がバシッと叱ってやれば良かったのだが、本人がすでにエライ人になってしまっているので、全くの「裸の王様」になってしまった。
明らかな「エライ」人がいない場合、末っ子は攻撃的な力試しをする。つまり、障害と限界を探っているのだ。長子のように立ち止まって、沈思黙考し自分なりの答えを求める習性は身に付いていない。親兄姉という障害と、どうやって折り合いをつけるかというコツと技を磨いて成長したからだ。
貴乃花は大人の言葉で話してはいたが、すっかり子供の末っ子になっていた。末っ子はどうして良いか解らない時、なりふり構わない。「なりふり」は、他人に対する自意識だが、末っ子にとっては、他人にどう思われるかより、相手が自分にどう出るかの方が重要な問題だ。周囲の反応によって自分のポジション、態度を決める。
一方、長子の若乃花には客観性がある。子供の頃から、適当なところで無視する習慣は付いていただろうが、公の場となると少しでも事態を拡げたくない。取りあえば限界まで争ってくることが解っているので、耐えて沈黙に徹した。
成長段階が進んでいる長子は、理屈の通じない幼い弟妹には、なるべく関わらないように心がける。何か言うと必ず食らいついてくる存在を、避けるコツが身についている。問題解決には、大人である親と話す方が早いことも知っている。

中間児   (アリババ 沈黙は金)
末っ子に弟妹ができると中間児になる。攻撃的に文句を言っていれば、余録にありつけた末っ子の立場は奪われる。親は幼い弟妹に忙しく、長子のようには一目おいてくれない。親兄姉の圧力は相変わらずある上に、新しく、まとわりつく存在の弟妹がいる。何とも悲しい立場である。
だが、ここで、中間児は極めて複雑な「超サバイバル能力」を身につける。形勢を見極め、ウザイやつを避ける能力だ。(ただし、弟妹と10歳以上も離れている場合は末っ子のまま)
まず、甘えもワメキも通じないから、自分で何とかする。姿を消して油揚げを狙うステルス・トンビになる。兄弟姉妹のスキを徹底的に窺い、黙ってサッと手に入れる。兄弟姉妹の失敗は見逃さずチェックし、自分が責任追及された時の反論材料にする。
長子が自論を唱え、末っ子が叫びたてるのに対し、中間児は沈黙する。
長子の沈黙は思案中だが、中間児の沈黙は観察中だ。筋道論の長子が議論の末、考えを変えたり謝ったりするのに対し、末っ子はワメいて通じなければコロリと主張を捨て忘れてしまう。しかし、中間児はどちらでもない。
始めから負ける喧嘩はしない。全体の論調や流れの中で、一番有利なところに立場を定め、「始めからそう主張していた」ことにする。
能力の劣る幼い弟妹にはアメとムチを使い分け、適当に親しくしながら利用する。自分も末っ子経験者だからツボはよく解る。
長子の道義や主張より「実利と生き残り」を追求するわけだ。得られるものだけを狙い、無駄なことは言わない。責任は上下にかぶせる。非難ではなく、自分は正しい側だったことをさりげなくアピールする。主張するより逃げ腰なのだ。もし自分が責められると、必死に反論し責任を認めない。なすり付ける相手がいなければ第三者のせいにする。
積極的に主張する場合は、記録のない過去を根拠にしたり、死者や幼児などの代弁者として、証拠がないものを根拠に意見を言うこともある。
ニコやかで周囲からは「いい人」と思われる「沈黙は金」を体得している。実際、自分の立場が守られている時は争いを好まず、誰にでも優しい。
しかし、誰かが弱気で素直な時には、すかさず立場を押さえる。「こんなの知らなかった!」と誰かが感動していると、「そんなの、誰でも知ってるよ」等と、自分も初めて聞いたことでも、相手の弱みをとりあえず叩いておく。主張はしないが、相手の力を用いて少し上になっておき、弱みは見せない。
冷や飯を食った生い立ちから、脳天気なやつには腹が立つ。管理と防衛の習性から、無意識のうちに排斥の根回しをする。末っ子はたきつけやすい。ニコニコと物静かだが辣腕の猛獣使いで、特に軽挙盲動する末っ子の扱いは抜群だ。
家族の関心が薄いということは自由であるということで、得意の世渡り術で外部に人間関係をつくり、独自の努力を黙々と重ね、家族とは別の生き方をする。また、逆に、だまって後継者となることもある。