魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

変な外人

2013年03月05日 | 新鎖国論

欧米人の仏教僧やお茶の師匠に驚く人や、違和感を持つ人は多い。
民族国家の人は、自国の文化が外国人に解るはずがないと思う。
異国の人間が、自国の言語や仕来りを巧みにこなすのを、こころよく思わない.。
(この場合の民族国家とは同一言語で、千年以上も過ごしたような国)

日本も典型的な国の一つだが、中国や韓国の記事には、「外国人が下手な言葉で喋った」と、わざわざ書く。
日本では近年、教養として、「青い目の」とか言わなくなったが、欧米人から見ると、相変わらず、強烈に疎外されている感じがするそうだ。

BBSで、アメリカ人が、日本では、「納豆が好きと言わない方がいい」と言っていた。期待外れで。あまりこころよくは思われないそうだ。
都会では、かなり減ったが、欧米人を「外人」、よそ者、異種として扱う傾向は未だに根強い。

昭和30年代の「社長シリーズ」では、日本に詳しい外国人を奇異な目で描き、日本の仕来りを知らない外国人を笑いの対象としていた。
「変な外人」という言葉が流行ったのもこの頃だ。
今でも、祭のニュースなどでは、参加した欧米人を好んで映す。

昔、カナダの英語の先生が、生徒のルーマニア人の医師に、ルーマニアの詩人「ミハイ・エミネスクの詩は素晴らしいですね」と言うと、
「英語で読みましたか。あれはルーマニア語でなければ良さは解りません」と答えたので、先生は二の句が継げずに、沈黙してしまった。

自分の文化は、自分達だけのものであり、他者が逆立ちしても解るはずがない・・・と思うのは、他者蔑視の自尊心で、偏狭な驕りであり、自分こそが、井の中の蛙であることに気づかない「田舎者」なのだ。

田舎者とは、「てやんでぃ江戸っ子でぃ」と、ただ江戸に生まれただけで、相手より勝っていると思いたいような、他に何も自慢するものの無い心の貧しい人のことで、田舎に生まれた人のことではない。

インドで生まれた仏教を、極東の日本人は、それなりに理解し、心のよりどころとして暮らしている。
敬虔なキリスト教徒の欧米人が、仏教を日本人以上に理解するのは、少しも不思議なことではない。

先頃、帰化したドナルド・キーンは、日本人以上に日本文学を理解し愛しているし、今日につながる、欧米のジャポネスクは、欧米人がその価値を発見したからだ。
ゴミとして捨てられた包み紙の浮世絵や、廃仏毀釈で見捨てられていた仏像や寺院の価値を見いだしたのは欧米人であって、日本人が宣伝したからではない。

にもかかわらず、「どうだ、日本って凄いだろう」みたいな、クールジャパン宣伝は、イヤミでこそあれ、ジャパン・フェロモンにはなり得ない。魅力とは惹きつけるもので、押しつけるものではない。

金儲け目的ではなく、心から惚れ込んで、日本の文化に近づく外国人は大いに歓迎し、どんどん受け入れたい。自分は修行も勉強もしないで、「変な外人に解るわけがねえ」などと拒絶する、偏狭な田舎者にはなりたくねえ。