魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

儚きもの

2013年03月10日 | 日記・エッセイ・コラム

夜8時頃のガラガラの電車。
見るからにアメリカ人のネエチャンが、興奮気味で乗ってきた。
ドアが閉まると、ドアのガラスを鏡にして、髪やスタイルをチェックし始めた。ぴちぴちのジーンズでキメて、寸分スキが無い。周囲のことは全く眼中にない。

走って飛び乗ってきた勢いで興奮していたのではない。二駅目で降りる頃には、鼻息も荒かった。
迫力に圧倒されながら、どこかで待ち合わせでもしているのだろうと思うと、むしょうに、心根が可愛らしく、
見送りながら、『ガンバレよ!』と、心の中で声を掛けていた。

態度や表現は違うが、日本の女の子も、やっぱり態度で、それと分かる。近頃は、むしろ、男の子の方が、「気合い」に欠けているような気がする。

恋せよ乙女
CMで、また、「♪命短し恋せよ乙女」が使われている。
この「ゴンドラの唄」は、黒澤明の「生きる」で、志村喬が歌うシーンが有名だ。
子供の頃から、聞いていたフレーズだが、この歌の深さが解ったのは中年を過ぎてからだった。

人生は短いと、誰でも知ってはいるが、本当に実感できるのは、身近な人が死んだ時だろう。
昔の人は、常に周りで人が死んでいたから、死を覚悟した人生を送っていた。現代のように、めったに、「死」に遭遇しないような時代では、意味も無く命を可愛がり、その逆に、命を粗末にする。

「かけがえのない命」とは言うが、それが如何に、あっけなく儚いものかの実感が無いから、命を懸けて「生きる」ということが解らない。
ただ、ただ、死を恐れ、また、歌やドラマの「死」に過剰に反応する。
かと思えば、些細な怒りや悲しみで、命を捨てる。

命の儚なさを知れば、死だけを売り物にするようなドラマには感動できない。怒りさえ覚えるだろう。
死は人生の最大事ではない。死に値する生を描いてこそ感動がある。
あるいは、その人が、何時どのように死んだかさえ忘れるような「生き方」を観てこそ感動する。

「死ぬぞ、死んだぞ、さあ死ぬぞ、死ぬかも知れない、死んでもいいのか」・・・こんなドラマや歌のせりふ、医療番組にはウンザリする。
人間は遅かれ早かれ、みな死ぬのだ。

戦後経済が強かったのも、日本人誰もが「死の当然」を心に抱いていたからだろう。心の病が激減し、生きることに専念していた。
世界の人は、もっと、死にサラされているが、総じて平穏な歴史に生きてきた日本人にとっては、戦争は大きなインパクトだった。

若年の死が激減し、「生きてる意味」が解らなくなり、恋も結婚も嫌になるような時代だからこそ、改めて言いたい。
「♪ 命短し恋せよ乙女」 男子よ、お前もだ。


変な外人

2013年03月05日 | 新鎖国論

欧米人の仏教僧やお茶の師匠に驚く人や、違和感を持つ人は多い。
民族国家の人は、自国の文化が外国人に解るはずがないと思う。
異国の人間が、自国の言語や仕来りを巧みにこなすのを、こころよく思わない.。
(この場合の民族国家とは同一言語で、千年以上も過ごしたような国)

日本も典型的な国の一つだが、中国や韓国の記事には、「外国人が下手な言葉で喋った」と、わざわざ書く。
日本では近年、教養として、「青い目の」とか言わなくなったが、欧米人から見ると、相変わらず、強烈に疎外されている感じがするそうだ。

BBSで、アメリカ人が、日本では、「納豆が好きと言わない方がいい」と言っていた。期待外れで。あまりこころよくは思われないそうだ。
都会では、かなり減ったが、欧米人を「外人」、よそ者、異種として扱う傾向は未だに根強い。

昭和30年代の「社長シリーズ」では、日本に詳しい外国人を奇異な目で描き、日本の仕来りを知らない外国人を笑いの対象としていた。
「変な外人」という言葉が流行ったのもこの頃だ。
今でも、祭のニュースなどでは、参加した欧米人を好んで映す。

昔、カナダの英語の先生が、生徒のルーマニア人の医師に、ルーマニアの詩人「ミハイ・エミネスクの詩は素晴らしいですね」と言うと、
「英語で読みましたか。あれはルーマニア語でなければ良さは解りません」と答えたので、先生は二の句が継げずに、沈黙してしまった。

自分の文化は、自分達だけのものであり、他者が逆立ちしても解るはずがない・・・と思うのは、他者蔑視の自尊心で、偏狭な驕りであり、自分こそが、井の中の蛙であることに気づかない「田舎者」なのだ。

田舎者とは、「てやんでぃ江戸っ子でぃ」と、ただ江戸に生まれただけで、相手より勝っていると思いたいような、他に何も自慢するものの無い心の貧しい人のことで、田舎に生まれた人のことではない。

インドで生まれた仏教を、極東の日本人は、それなりに理解し、心のよりどころとして暮らしている。
敬虔なキリスト教徒の欧米人が、仏教を日本人以上に理解するのは、少しも不思議なことではない。

先頃、帰化したドナルド・キーンは、日本人以上に日本文学を理解し愛しているし、今日につながる、欧米のジャポネスクは、欧米人がその価値を発見したからだ。
ゴミとして捨てられた包み紙の浮世絵や、廃仏毀釈で見捨てられていた仏像や寺院の価値を見いだしたのは欧米人であって、日本人が宣伝したからではない。

にもかかわらず、「どうだ、日本って凄いだろう」みたいな、クールジャパン宣伝は、イヤミでこそあれ、ジャパン・フェロモンにはなり得ない。魅力とは惹きつけるもので、押しつけるものではない。

金儲け目的ではなく、心から惚れ込んで、日本の文化に近づく外国人は大いに歓迎し、どんどん受け入れたい。自分は修行も勉強もしないで、「変な外人に解るわけがねえ」などと拒絶する、偏狭な田舎者にはなりたくねえ。


京の住所

2013年03月03日 | 京都&ケンミン文化

京都の住所は古代の人の名前のように(景行天皇=おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)だらだらと長く、そのまんま説明だが、漢字の地名にも古代人の言語感覚がそのまま残っているようだ。
地名とは、「位置を表す記号」だと思っている現代人は、混乱する。

京都府京都市上京区烏丸丸太町・・・など、「丸丸」分からない。
初めて京都に来た人が、バスで、「次は~河原町丸太町です」のアナウンスに、『エッ?、ここはどこ???河原町なの?丸太町なの?』と、慌てていた。

京都の地名は、大路、小路、通りや筋の交差点で表す。この東西南北の通りを、東に入り、西に入り、北に上がり、南に下がる。
「河原町丸太町」は、河原町通りと丸太町通りの交差点界隈を意味する。

さらに、この古来からの地名に、現代の位置認識である地名が加わり、番地が付く。
長い住所は特に、京都でも古い地域の上京区に多く、例えば
・京都府京都市上京区寺町通今出川下ル1筋目西入真如堂突抜町(番地)と続く。
現代人の感覚で言えば、せいぜい
・京都府京都市上京区真如堂突抜町(番地)
で充分だと思うのだが、そうはいかないのが京都だ。

京都の子が、他府県の古い土地に住む子と結婚しようとしたところ、住所を聞いたお母さんが、
「おかしいこんな住所など有るわけがない。これは偽の番地か、人の住む地名ではない」
と言い張って、結婚に反対したそうだ。

まあ、こういう地名の仕組みもさることながら、長い歴史の中で、色々な経緯が生まれ、それがまた地名として、今もそのまま使われているから、「車折」など、何とも奇妙な地名も少なくない。

京都の中心、京都御所の横には、平安女学院があるが、北側は「下立売通」に面し、その突き当たりを上がると、幕末史に名高い「蛤御門」がある。「シモダチ売&ハマグリ御門」は、何とも由緒ある気恥ずかしい名前だ。
子供の時から聞いている京都の人は、まったく不思議に思わない。
下立売通りがあるからには、当然、中立売、上立売もあるが、朝立売は無い。

下立売通りはさらに、京都府庁、京都府警に面しているが、どういうワケか、府警は同居する警察署を「下立売署」とは呼ばず、わざわざ「中立売署」と呼んでいた。近年その署も廃止された。
ちなみにその府警の住所は、下立売通りを挟んで、各々
・京都府京都市上京区新町通下長者町角藪之内町
・京都府京都市上京区下立売通座東入之内町(これも何だか)

京都の人は何とも思っていないと言えば、
今は無くなったが、京都の東、山科から一号線で京都に下りて行く道の正面のビルに、「ようこそ京都へ」と言わんばかりに、
巨大な字で、<おまん>と書いてあり、東京から来る人が、ドッと沸くポイントだった。
当時、京都の人には、沸くワケが全く解らなかった。
とにかく近頃は、テレビやネットで、文化が均質化してしまったようで、京都の人でも近頃は、「おまんじゅう」と言うようになった。さみしいことである。


冷たい人

2013年03月02日 | 日記・エッセイ・コラム

いよいよと言うか、とうとうと言うか、3月に入った。
年明けの3ヶ月は短く感じる。確かに2月は短いが、1、3月は31日だから、他の四半期と、そう変わりはないのだが、何故か早い。
行事の多さや、年度末の慌ただしさに加え、陽気の変化も激しくて、あれよあれよという間に、桜が咲いてしまう。

葬儀にまつわる煩雑さが、悲しみを忘れさせるように、行事の多さは、冬の寒さに耐える智恵なのかも知れない。

3月1日、韓国の朴新大統領は、「3・1独立運動」の記念式典で「歴史問題は千年経っても変わらない」と言った。
千年の歴史を持ちだしたら、これはお互い様の歴史になる。元寇の主力は朝鮮半島だった。(これも被害者だと言うのだろうが)

同じ日。JAの萬歳会長は、TPPに反対の抗議をした。
「3・1独立運動」は「独立万歳」と叫んだので「万歳事件」とも言う。
日本政府は同じ日に、両脇から「万歳」を突きつけられたわけだ。
両脇から万歳では、もう、バンザイするしかない。

何でも水に流す日本人は、心すべきだろう。「千年経っても許されない」のだと。良い子になろうとして、詫びてもムダなのだと。
千年の歴史を持ちだして、日本から盗んだ仏像を返さないという理屈を、国民が当然だと考える国なのだと。
これこそまさに、お手上げだ。バンザイするしかない。

人づきあいの大原則
個人の付き合いもそうだが、近しいからと言って、わかり合えると思ってはいけない。
人間は元々わかり合えるはずのないものだ。すべての人間は違う体験をして育っている。例え双子でも、体験の受け止め方は違うのであり、人はそれぞれ違う感性、違う価値観を持っている。

しかし、それでも人間は群れを成して共存して生きている。同じでない者が共存するのが人間であり、相手が自分と違うからと言って付き合えないわけではない。

人と付き合う上で最も重要な心得は、「自分と相手とは同じではない」という認識だろう。そして、なおかつ、相手はその認識を持っていないかも知れないと心得ておくことだ。

妙に好意を持ってくれたり、急に「冷たい」と怒り出すのは、自他の違いの解らない人であり、相手が自分と同じと考える、自己中の感情人間だ。そして、世の中はこういう人の方が多数派だ。

「親しき仲にも礼儀あり」「兄弟は他人の始まり」
近いから、親しいからと言って、「これぐらいは解ってくれるだろう」と甘えるわけにはいかない。

日本が、中韓と上手く行かない理由は、互いに、黄色人種、同文化圏のはずだという甘えがあるからだ。勝手な期待をして、当てが外れると怒り出す。この勘違いは日本にもある。

遠くの他人は皆良い人に見えるが、いつも近くで見ていれば、不満が増える。意識して疎遠にしていても付き合わなければならないのが、家族、身内、ご近所であり、冷たいと言われても、危うきに近づかない。
ニコニコと声を掛けて来られても、決して期待しないことだ。
「隣は何をする人ぞ」ぐらいが、ちょうど良い。


これ幾ら

2013年03月01日 | 日記・エッセイ・コラム

最近、新型が出たある商品だが、既に生産終了している旧型が店頭にあった。
その展示品が、破格値で売られている。
驚いて、ネットの価格を調べると、
既に限られたショップしか在庫が無く、どこも旧型の新品は、99,800円だった。

この値札を見て、
「これは店頭展示処分の掘り出し物だ」と思って、ムリにでも買うことにした

えーっと、幾らになるんだっけ???

9980022








店員に確認すると、
「99,800円に、ポイント998です

こんな表記って、許されるのかなあ  ???