魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

達観の胆

2013年03月21日 | 日記・エッセイ・コラム

「南海トラフ地震」の被害想定が220兆超の発表で、パニックになっている。ただし、パニックになっているのはマスコミだ。あるいは、それに煽られやすい人達だけだ。

東日本大震災を目の当たりにした日本人は、「そりゃ当然だろう」ぐらいにしか思わないのではなかろうか。賢明な人や組織は、とっくに対策を講じ始めているし、そうで無い人は、どっちみち何もしない。
想定額がどれほどのもので何を意味しているのかも、実際の所、ピンと来ないだろう。

しかし、何はともあれ、最大値を想定することは良いことだ。
と、言っても、この程度では最大値とは言えない。原発や火山は含まれていないし、日本を潰したい隣人達の挙動も、予測に入っていない。
東日本の時、表向きはお見舞いと言いながら、彼らが何をしたか、決して忘れるわけにはいかない。(だからと言って、敵視も得策ではない)

マスコミによると、被害想定が大き過ぎると、対策意欲を失うという意見があるそうだが、それは人間が自然を克服できると考える、西洋式の発想に毒されているからだ。
想定を、克服できる範囲に止めたいとは、本末転倒の意見だ。

確かに、いつかは大災害を克服できるかも知れないが、100年や200年はできそうもない。つまり、当面、不可能だ。
この問題は医療にも同じことが言える。

災害を克服できるという前提は、不老不死と同じ前提だ。
大災害に遭わないようにすることばかり考えることは、死なないことばかりを考える医療と同じだ。先ずは、人は必ず死ぬという哲学があるべきで、近年、ようやくその考え方が行き渡り始めた。

「死と災害からは逃れられない」の大前提あってこその、災害対策だ。
絶対に火事を起こさないではなく、火事が起こったらどうするかの話なのだ。 「あってはならない」などと、不可能を言ってはならない。

日本は大事故や大災害が起こると、責任論ばかりで、対策論が始まらない。だから、責任を取らないためにどうするか、ばかりを考える。
たとえ、責任者が腹を切ったところで、次の災害は起きる。

死や災害の現実を受け入れる覚悟があってこそ、初めて対処することができる。「どうしようもないもの」に立ち向かうのは、防潮堤でも特効薬でもない、心がけ、胆力と達観だ。
居直り、身を捨ててこそ浮かぶ瀬も、絶望の中から・・・と、覚悟してこそ、真に正しい方策が見えてくる。
先ずは、どうしようもないものであることを、認めることだ。

ところで、人間は必ず死ぬとは言うが、iPS細胞の出現で、どうもそうとは言えなくなってきたようだ。再生医療が発達すれば、肉体のリフレッシュを繰り返して、1000年も2000年も生きるかも知れない。
脳のリフレッシュはムリのように思えるが、それとて、記憶、思考の脳構造をそのままコピーして保管し、新細胞にコピーし直すとか、あの手この手が生まれるかも知れない。
そうなると、それを人類と呼ぶのかどうか解らないが、人類はどんな哲学に生きることになるのだろう。