魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

話を聞く(2)

2013年03月30日 | 日記・エッセイ・コラム

人に教えると言うことは、自分が学ぶことだという。
同じように、
人の相談に乗ると言うことは、自分が学ばせてもらうことだ。

人の悩みは、その人の世界に発生する。
相談に乗ろうとすることは、先ず、その人の世界を知ろうとすることだから、とにかく話を聞く。それにより、自分の認識とは全く違う景色、実体のとらえ方が有ることに驚くことになる。

人の話を聞くのは、相談の時だけではない。人と話をすれば、大方は自分にとつて不都合な話を聞かされるものだ。しかし、だからこそ、先ずは聞かなければならない。この時、聞くのは「言い分」ではなく、その人の世界の姿だ。

「言い分」を聞くとは、自分の価値観に照らして理解することだが、人の世界というものは、自分の世界とは全く別の、価値観や感性で構成されている。先ずはその世界から、「実体」はどう見えるのかを知ることから始まる。

そして、自分の視点と、相手の視点の違いを比べて、自分でも気づかなかった実態を把握する。
製図の正投影図では、自分の位置からは三角に見えるものが、相手の位置からは四角く見えるのは当然のことであり、どちらも間違ってはいない。

この物体の姿を正しく把握できるのは、相手の視点をよく聞いた方だ。つまり、不本意なことを言う相手の話こそ、先ず、よく聞かなければならない。これこそが、相手から学ぶことだ。

非常識で敵対的、不可解で異常なことを言って、困らせてくる相手こそ、願ってもない「我が師」なのだ。
このことは、苦労や不幸という状況にも言える。願わぬ事、嫌なことは何故に存在するのか。例えば、死は他の生のために必要だと気づく。

知ってどうする
相手の視点や、問題の実体が見えたとしても、それで相手を説得できるものでもない。相手は自分の世界を堅く信じ込んでいる。
相談を持ちかけて来る人なら、話を聞いてもらえるかも知れないが、実際はそうではない。

相談をする人の多くは、自分の信じ込んでいる世界の確認と証明のために話を聞いてもらいたい人だ。違う視点の話をすると、とんでもないことを言われたと、拒絶されたり、時には、逆上されることもある。
ましてや、交渉相手や、敵対してくる相手には、何の手立てにもならない。

しかし、少なくとも、自分が先に気づけば、相手や状況によって、対処の方法が広がる。
賢明な人には、間接的なたとえ話で気づいてもらい、理解力の無い人には、言い方や雰囲気を工夫して答えだけ告げる。
また、敵対的で初めから聞く気のない人には、解ってもらうより対処法を考えるのが良いだろう。