魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

高齢社会(2)

2012年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

年寄りは、体力的に現役世代と同じようには働けないが、退役後、社会的な役割を、仕事として行えば、社会に有用な労働力になる。

年寄りの仕事は、退職で、一端、地位やキャリアを精算する。
その上で、「第二の就職」として、能力に応じて新規雇用を考えてはどうだろう。
過去を捨てて働きたい。悪く言えば、働かざるを得ない状況を作るためにも、個人年金は止めるべきだ。(最終救済手段は用意する)
退職後に働くのが嫌なら、現役時代に蓄財しておけばいい。

女性には少ないが、退職後、地位が忘れられず、世の中になじめず、孤独な老後を送る老人男性は少なくない。こういう人を、強制的に社会に引き出す意味でも、第二の就職を制度化する必要がある。

第二の就職には、勿論、能力に応じて、育成や顧問などもあるが、基本的には、子供の監督、掃除や留守番など、昔の大家族で年寄りが果たしていた役割、いわゆる「お手伝い」を仕事化することだ。

江戸時代の退職は、隠居だが、実際は40代の元気なうちに隠居し、「隠居仕事」として、農家では新田を開拓した。責任のない立場で子孫のために働いたのだが、現代なら、社会のために働く道がある。

子供を可哀相だと言って働かせないことは、成長を妨げることになるし、年寄りを大切にすると言って働かせないことも、活力を奪うことになる。ヒマになれば病人が増える。

「第二の就職」 幼老を活用して世代がつながる社会
学校制度は、先ず将来目的を見つけることを第一義とし、学習や学問はそれに従って行う。子供は塾より、お手伝いや体験就職の社会参加の方が学習意欲につながる。何のために学ぶかが自覚できるからだ。

年寄りの活用を、現役世代の延長と考えると、弊害ばかり起こる。
4~50歳で「人間学習の終了」と考え、早めに引退して、人間力を活かした「第二の就職」をし、現役世代の潤滑油として社会を支える。

昔、年寄りがしていたことは、地域文化の保存、子供の育成、若い世代の相談役、近隣の環境管理・・・などだが、
今、現実に、祭の伝承や、保育、子供の遊び、子育ての悩みや料理の智恵など・・・年寄りを活用すれば良いことを、施設が無い人がいないと、わざわざ新しい問題にしている。

年寄りが参加しない、「人間力」に欠ける子育ての現場では、虐待や陰湿な体罰が起こっている。
養育も教育も「隠居」の参加が必要だ。学校の副担任は第二就職者にすべきだし、政治家も老若のセット立候補とした方がいい。

しかし、これもまた、年寄りが画一的に働けるわけではない。年を取ると、個人的な体力差、能力差は若い時より大きくなるし、どこで倒れるかわからない。機会均等にはアテにしない配慮が前提だ。

当然、第二次就職者の労働時間は現役世代より散漫で、賃金も安くなるが、年寄りには、現役世代ほどお金は必要ない。


高齢社会(1)

2012年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム

人間の寿命は125才だそうだ。何で読んだか忘れたが、複数の書で見かけた。
実際、生年が定かな近代の記録で125歳を超えた人はいないようだ。とてつもない年齢の老人が暮す秘境には、そもそも暦が無かったりする。
もっとも、暦があっても、死亡届がなければ何百歳でも可能だ。

結婚して会社を辞めることを「寿(ことぶき)退社」と言う。
めでたい意味の「寿」は、元々、「年を重ねる」老人や長生きを表し、長生きはめでたいから、「祝いの言葉」の意味で「ことほぎ=ことぶき」と読まれるようになった、と思われる。

長生きした人を祝ってか、長生きを祈ってか、
「長寿」(ながきをことほぐ)という言葉が生まれたのかも知れない。「寿」の「としをかぞえる」意味から、人名では「カズ」とよむ。
いずれにせよ、「長生き」は、何よりもめでたいことなのだ。

ところが今や、人生80年の高齢社会になり、100歳を超える人もどんどん膨張して、「たいへんなことになった」と、長寿が災難かのような空気まで出てきている。

高齢化と言えば、世の中の人は、困った「問題」としか考えない。そう考えることの方が「問題」なのだと、気づく人は少ない。

長寿を、人生50年時代の発想で考えれば、確かに大問題だ。
「余生を送るだけの厄介老人」が増えれば、どう面倒を見るのか、と心配になる。

無駄な人はいない
大転換時代。あらゆることに、発想の転換が迫られている。
年齢と社会の関係も、ゼロから考え直す必要がある。
生きている限り、何らかの人材活用法は必ず存在する。

寝たきりや、植物人間であっても、生きていることで、周りの人に希望を持たせることもあれば、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」のような効果もある。生きているだけで、組織や周囲の人が、次への時間稼ぎができることもある。
これは極端な例だとしても、「無用の用」ということもあり、全く役に立たない人間など存在しない。

年寄りは、若い人のように、頑丈で精密な機械ではない。だが、新発売の機械には問題が発生することもあるが、長い時間使い続けた機械というものは、ガタピシ言いながらも、使い勝手の良いところがある。

年寄も子供も、想像以上に役に立ち、現役世代を驚かすことがある。幼老は完璧ではなくても無能ではない。使ってやれば、年寄りは息を吹き返し、子供は成長する。

近頃の親は、何かと言えば、「子供にそんなことはさせられない」と言うが、それはむしろ、子供の成長を阻害している。塾に通わせるばかりが教育ではない。


遙かなる

2012年02月11日 | 占いばなし

中国やエジプトが、4000年、5000年の歴史と言うのは、誰でも納得する。しかし、朝鮮半島が5000年の歴史と言えば、誰もの目が点になるだろう。

日本は歴史の古い国だと言われている。しかし、実際に記録され始めてからは、せいぜい1500年だ。海外の文献を入れても2000年にはならない。
縄文からの歴史を言うなら、確かに10000年に及ぶかも知れないが、それならアフリカのエジプトはどうなるかという話で、有史とはやはり、文字に記録されてからを言うのではなかろうか。

日本が「日本」と自称し始めてからは、1500年ぐらいであることは、現代の知識人なら、誰でも認めるところだろう。

縄文人の住む日本列島に、何百年にもわたり、渡来人が幾重にも押し寄せて来て、今日の日本人になった。
スペインを恨む南米インディオのほとんどが、スペイン系のDNAを持っているように、どう言おうと、日本人は「日本列島から湧いた」ものではない。

日本の各地に見られる、「土地の顔」も、海外のあちこちに見られる顔が、寄り集まっている。
日本に来る渡来人が途絶え、この島に寄り集まった者同士が文明文化を形成して1500年になる。これだけでも充分、誇れることだ。

そんな話をしていたら、80代の戦中派の人が、「じゃあ、皇紀2670年はどうなんだ」と言われ、「あれは辛酉革命と言われています」と答えた。
※辛酉革命は、辛酉の年に世が改まるという中国の説に則り、推古朝の辛酉年から、六十干支が21回遡った年を、「神武天皇が即位して世が改まった年」とした、と考えられている。

その話をすると、納得しながらもガッカリされた風だった。かなり教養のある人なのだが、戦前教育を受けた人にとっては、考古学がどうであろうと、皇紀を無かったことにするのはしのびないのだろう。
皇紀を認めれば、隋の文帝に笑われた「天皇は太陽の子」を認めることになるが、それとは関係なく、「気持ち」があるのだろう。

皇紀を認め、伊勢神宮を崇めるなら、薩長政府による東京招魂社(後の靖国神社)とは矛盾すると思うのだが、何かこの辺りの感情がゴチャゴチャになっているような気がする。
北朝鮮や、中韓の反日教育の恐ろしさを見るにつけ、戦前教育の根強さも、その裏返しの戦後の教育も、教育とは恐ろしいものだと思う。

一度受けた教育を、自ら思い直して改めるのは容易なことではない。
まず、思い込みに反する事実を直視することは極めて辛いし、例え、事実を理解しても、染みこんだ感情を克服することは、なお難しい。

今、我々が理解している「国」と、平安時代、江戸時代の人が考えていた「国」とは、同じものだろうか。

今日は、神武天皇が橿原宮で即位してから2672年。紀元節だ。
そして、何よりも、東日本大震災から11ヶ月目だ。


揃い踏み

2012年02月09日 | 大転換

嫌な感じ」でも言ったように、海王星の影響は顕著ではない。
海王星がに本格入宮した影響と考えられる現象は、国連安保理での「シリア制裁否決」だろう。一見、いつものことのような風景に見えるが、海王星の影響だとすれば、意外と大きな歴史的意味を持つ。

今から、米中露の大国はそろって第十室に凶星を迎え、評判を落とす。

の海王星は、のアメリカにとって90゜の第十室。
第四室のにいる火星は家庭事情の厳しさも表し、その焦りから、アメリカの威光が通用しなくなっていることを露呈した。
言うまでもないが、アメリカの家庭事情とは、大統領選と経済逼迫に加え、イスラエルとの関係だ。

逆に、の中国にとっては、の海王星は吉角であり、アメリカに恥をかかせることができた。しかし、冥王星は相変わらずにいる。土星がにいる3年間は中国の思いのままだが、天王星が既に第十室のにいるので、やはりアメリカ同様、決して評判が上がることはない。

一方、のロシアにとっても、の土星が、やはり第十室にあたる。第十室に土星が来れば、個人なら失業で、国なら悪評だ。

つまり、海王星がに入って、三悪大国のそろい踏みが成立した。
その前に、イギリス、フランスは、EUの主導権争いで、既に悪態合戦をしている。
国連常任理事国が、「白波五人男」そろい踏みをしたわけだ。

今の状況は、幕末と似ているが、勿論、影響は世界的に働く。
世界秩序が変わる時でもある。
ドル体制の崩壊もさることながら、国連安保理常任理事国の仕組みも、当然、変わらざるを得ない。

三大国が、交互に拒否権行使を繰り返していることの不合理が、とみに高まってきている。台頭し始めた中国が、バランスを崩している。

海王星や冥王星の影響が、ググッと出ている観があるが、これがそれという、誰にも解るような事件はない。

海底トンネル事故なども海王星と火星の影響だが、この事故の意味は、むしろ後に、石油精製やトンネル工法、あるいは海底トンネルに大きな影響を与えるだろう。
石油は言うまでもなくだが、トンネルもであることを強く印象づけた。

とは、ある世界から別の世界に橋渡しをするものだ。
「トンネルを抜けると雪国であった」


硬直社会

2012年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

「白黒映画」を上げて、寝て起きて見たら、シリア戦をイラン戦と書いていた。こういう勘違いに、一々、訂正線を引いて訂正する人がいるし、自分でも訂正コメントを入れたい衝動に駆られるが、読む側からすれば、目障りで読み辛い。

本の場合は校正があるが、ブログは書きながら校正するしかない。
あえて、コメントせずに、修正して置いた。

昔から、新聞の誤字脱字を探して訂正することを趣味?にする人がいた。テレビ時代になって、リアルタイムに電話を入れる人が増えて、アナウンサーがこわばった顔で訂正を始めると、その顔を見るのが快感なのか、益々増えたようだ。

有名人のブログなどでは、ちょっとした気の迷いで「書いてしまった」ことを、5分後に取り消しても、炎上したり、「5分後に取り消した」と、取り消したこと、そのことが悪いかのように、また炎上する。
ここまでくると、もう、「クレーマー症候群」で、社会的「病」だ。

新聞の時代なら、新聞代を払っていたのだから、抗議する権利はあったかも知れない。テレビ時代になって、NHKに抗議するのも解らないではない。しかし、民放でも抗議は絶えない。
親切心で教えてあげる人もいるだろうが、ほとんどは「抗議」だ。

これを抗議する側の理屈で考えると、公共の電波を使い、公に情報を流布する者の責任として、正確な情報を流す責任がある・・・ことになるのだろう。

イチャモン社会
報道される当事者が正確な情報を要求するのは当然だが、情報を受ける側が、ニュースの補足として付け加えたテロップの、漢字の人偏と言偏が間違っていたようなことを一々指摘する感覚は、相手の弱みにつけ込むイジメ快楽でしかない。

テレビに対しては何を言っても反撃されない気楽さが、取材する当のテレビ側にまで広まり、事件の被害者に「説明責任があります」などとマイクを突きつけることが、当たり前になってしまった。

新聞テレビに突っ込んだり、抗議をしていたのは、メディアからの一方通行に対し、個人の意見発信の手段が限られていたからだ。

ネット以後、個人の情報発信は自由になった。同時に、情報発信者に直接突っ込む手段を持ったことで、旧メディアに対すると同じように突っ込むから、「炎上」といった現象が起こる。
突っ込むために、情報ミスを探してネットをうろつくハンターも溢れている。

本来、言論の自由とは、言論に攻撃をする自由ではなく、自分独自の考えを述べる自由のことだ。情報発信時のミスは、「発信者の恥」ではあっても、受ける側に攻撃の権利が生まれるわけではない。
異論があるなら、自分の考えを打ち上げれば良いだろう。人の揚げ足取りは単なるイチャモンだ。

何時の頃からか、陰湿なイジメが常態化し、自分の意見を言うことより、他人の粗探しをすることしかできない社会になった。
江戸幕府の監視抑圧の時代に、出る釘を打つ足の引っ張り合いが染みこんだ日本人は、少し安定すれば、直ちに互いの牽制を始める。

言葉狩りや自粛が横行し、組織や社会の中で画期的な意見が出なくなった。今日の日本の停滞は、戦後70年の安定がもたらした老化「硬直社会」だ。


白黒映画

2012年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム

サッカー、シリア戦に負けて、そのまま「愛染かつら」のラストを観た。
昭和13年の白黒映画だが、田中絹代と上原謙の、伝説とも言える映画を、ラスト部分だけではあったが、初めて観た。いや、観たかも知れない。

戦前の恋愛映画は、むしろアメリカ映画の方が馴染みがあって、日本映画は案外、見る機会が少ない。
本来、ミーハー映画なのだが、当時の日本人の、美しい言葉づかいや立ち居振る舞いの世界に、思わず引き込まれる。

田中絹代という人は、戦後の感覚では「どこが?」と、理解できないのだが、当時は大和撫子の代表として絶大な人気だった。
小学校の頃、友達のお父さんが、うちの母をタイプだと言っていると友達から聞いて、不思議だったが、そう言えば田中絹代系かなと、今ごろ納得した。

「愛染かつら」の映画は観たことはなかったが、母が歌っていた「旅の夜風」は身体に染みこんでいたし、「悲しき子守唄」もよく聞いた。

昭和13年の映画は日中戦争中とは言え、平和で、楽しさ一杯だが、これから、わずか3年後に太平洋戦争に突入したと思うと、時の流れの恐ろしさを感じる。

今この時にも、経済大崩壊、日本デフォルト、はては核戦争などと言うことも、無いとは言えないのだ。

古典を見る目
新撰組や坂本龍馬、白い巨塔など、リメイク版で、最近のドラマを見た人には、オリジナル映画を観ていられない人が少なくない。
今回の「新日本風土記」は、確かに素晴らしい映像だと思うが、昔の「新日本紀行」は、それはそれで素晴らしかった。

時代による、技術や表現方法の違いを超えて、作品を鑑賞する楽しみは、古典を読む面白さと同じだ。
作家の心と共鳴することで、時代空間を越えて、生を共有する喜びがある。

白黒映画を面白く観られる人は、年齢に関係なく、本質を解る人だ。
逆に、リメイク版の良さを理解できない人も、白黒映画を嫌う人と何ら変わりない。


老人釣り

2012年02月05日 | 日記・エッセイ・コラム

団塊世代の還暦をターゲットにした商戦が失敗したのに、団塊が65才を迎える今年こそはと、各企業は再び「シニア市場」を狙っているそうだ。

はっきり言って「また失敗する」
こういう発想自体が、海外売り込み競争「負け続け」の原因だ。

見える魚は釣れない
魚釣りをする時、見えている魚の前に釣り糸を垂れて、飛びついてくるような魚は、食べられないような雑魚だ。
大物を狙う時は、見えない相手の存在を推理し、相手の気持ちになって、さりげなく仕掛ける。

魚は自分のペースで、自分が探した餌だと思ってゆっくり食いついてくる・・・と言っても、魚釣りの趣味はない。
子供の頃は釣りに熱中して、池や川にブユに咬まれながら毎日のように通ったが、大人のようには釣れなかった。以来、釣りはしていないが、大人になって初めて、なぜ釣れなかったのかが解ってきた。

人も魚も同じだ。人が一杯いるから一人ぐらい買ってくれるだろう、とか、うちの弁当は美味いから誰でも欲しがるはずだ、といった安易な商売は必ず失敗する。これは相手の立場で考えていないからだ。

人の心を捉えるのは、テストの答えを書くのとは違う。当たり前の約束された答えを探すのではない。
相手の心を手探りで知り、その人の気持ちに合わせて寄り添う。
こういう能力は学力優等生には身につかないが、ナンパ師は見事にマスターしている。実践を通し自分でノウハウを身につけるからだ。

ナンパや営業能力は教室では身につかない。たった一つ必要なものは「勇気」だ。
旧日本陸軍の、抜刀して敵陣に飛び込む精神は、機関銃の前には無力だったが、戦後の高度成長期の、海外売り込みには役立った。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ
答えがわかるまで売り込みに動かない日本企業は、偏差値教育の害毒が組織の隅々まで回っている。3Dも、有機ELも、後手後手になった。

戦後、起業した企業も、30年もすれば、成績優秀な新入社員ばかりになり、保身術だけが出世の能力になった。その結果が今日の日本企業や、日本の政治になった。過去30年は、戦後の遺産の食いつぶしに過ぎない。

ところで、シニア層から金を絞り出したいなら、ゆとり金を狙うのではなく、老後の不安を取り除くことだ。
そういう意味では、保険のかけ直しや、介護付きマンションも良いかも知れないが・・・ あ、この先は、言わんとこ 


ズルズル

2012年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム

子供の頃、何かと言えば、日本人は世界一器用だという話を聞いた。
何でも世界一とか言いたがる井の中の蛙は、後進国の特長だ。

器用さを別けるほど、どれほどDNAが他の国の人々と違うのか知らないし、器用さのDNAがあるかどうかも判らない。
また、実際に日本の精巧な工芸品が世界で評価されていても、器用だからと言うことにはならないだろう。手先の器用さより、気長に緻密に作り上げていく、文化背景によるものかも知れないからだ。

しかし、それにしても、世界一かどうかは別にしても、確かに、日本人は器用だと思う。
今日のように、精密な工作機器ができれば、器用さや文化背景がなくても、誰でも緻密なハイテク機器が作れるが、その工作機器そのものを作るには、やはり器用さは必要だ。

日本人の器用さが、どこから生まれたのか考えてみると、第一条件として、箸を使う東洋文化圏があるだろう。しかし、中国の工芸品と比べても、日本のそれは遥かに緻密な気がする。故宮博物館の品々は確かに念入りに作られてはいるが、器用と言うより費やした時間を感じさせる。

節分で、イワシを食べながら、ふと思った。日本人の器用さは、魚を食べることで培われたのでは無かろうか。
鯵やイワシの小魚は、身が少ない割に、骨が多い。箸を使わずに手で食べるとしても、そう簡単ではない。箸が入ってからは、さらに困難になっただろう。

日本人の器用さの、第二の重要な要因として、小骨を選り分けながら、箸で魚を食べてきたことがある。これは魚を唐揚げで食べる内陸中国には無い習慣では無かろうか。

しかし、だとすれば、魚を食べる東南アジアやインドネシアの人々も、日本人と同じことになるが、箸はあまり使われない。
すると、魚をよく食べて箸を使う国は、日本と広東語圏の中国、朝鮮と言うことになるが、日本ほど徹底的に箸で食べる国はおそらく他に無いだろう。

器用さ世界一の証明
日本のマナーで、世界にほとんど無い習慣は、麺を音を立てて食べる習慣だが、これは、汁物を食べるスプーンが発達しなかったことと関係ありそうだ。
器から直接飲む時は音がしないが、麺は汁と一緒に「食べる」。そこで音を発するのは当然という例外扱いになり、それが、おいしさの証明としてエスカレートしたのでは無かろうか。

汁をスプーンで飲む習慣があれば、固形物は箸で、汁物はスプーンに別けられ、お粥のようなものは汁物扱いで、麺も汁物として考えられたから、静かに食べるのが当然の基本になった。

スプーンの無い日本だからこそ、麺をズルズル食べる。
そのことが、日本人の器用さを証明している・・・
つまり、そういうことなのだ。


急に出た

2012年02月03日 | 日記・エッセイ・コラム

先日、86才の男性が、自転車で電柱にぶつかって、いかに驚いたか、説明してくれた。
「久しぶりに自転車で買い物に出かけたら、急に電柱が出てきて、避ける間がなかった・・・」

笑い話とは言え、遠慮を知らない悪いクセで、怪我人を前に大声で笑ってしまった。
確かに、せっかく良いお天気に出かけたこの人にとっては、急に電柱が大魔神のように立ちはだかったのだろう。
大魔神だって動き出すのだから、電柱が動かないわけはない

5年前にも書いたが(老害かッ)、年を取ると、自覚、無自覚にかかわらず、身体能力が衰えていく。しかし、遭遇する現象を、自分の衰えだと認識するのは難しい。
衰えているはずだと解っていても、これがその衰えによるものだ、と認めるには勇気がいる。

衰えたことを認めないために、自分はまだできるとガンバル人。人のせいだ道具のせいだと、違う理由を探す人。あいつよりまだできるぞと、人と比べて安心する人。それを知り、ついに来たかと落ち込む人。
どんな受け止めかたをしようと、衰えるものは衰える。

大魔神電柱の話をしたら、60代の多くの人が、様々な体験談をしてくれた。前を行く自転車は怖くないが、正面から来る自転車は「突然、現れる」から怖い。
同じ方向に行く自転車は怖くなくて、向かってくる自転車が怖いのは当たり前だが、その理由が「突然、現れる」からというところが、老化の世界を表している。

60代を過ぎれば、もう争えない。しかし、40代、50代は微妙なところだ。ちなみに、20代30代が、「もう年だ」と言う資格はないのだが、老いを知らない心の余裕で、口にしたがる。

視力で言えば、4~50代は、「ガンバル」人がいる。見えて無いのにメガネを掛けない。かと思うと、近視がむしろよく見えるようになったことで自慢する人がいる。
こういうことを続けていると、ある日突然、どうしようもない事実を突きつけられて、不必要に落ち込んでしまう。

落ち込んでしまう人は、まだ大丈夫だ。何があっても認めない人は、毎日起こる「不幸」を、すべて他人のせいにして怒りまくる。
すると、周りの人は、その人を遠ざけるようになり、孤独な晩年を生きることになる。
若い時、年寄りをバカにしていた人、あるいは不必要に年寄りに親切(つまりバカ)にしていたような人ほど、自分の老いを認めたがらない。

「老若男女の差は人格の差ではない」と言うことが解らない人ほど、若さに囚われる。老若男女による能力差は当然のことであり、何かが出来なくても、人間として劣るわけではない。

若い人は、身体能力の衰えた老人の世界を知って、トラブルを避けるために、考慮する必要があるが、過剰に思いやる必要は無い。
年寄りは、身体能力の衰えを積極的に認めて、それでも自分が必要とされることは何なのかを考え、死ぬまで自分を高めていく心がけが必要だ。

まあ、言うのは簡単なのだが・・・


嫌な感じ

2012年02月02日 | 星の流れに

海王星が2月4日に再入宮するが、これが直接、目立った事件を起こすことはない。冥王星や海王星の影響は漠然としている。
むしろ、7日に29゜≒で逆行を始める土星の影響の方が大きいかも知れない。日本から去りかけた不幸の土星がまた帰ってくる。(土星

今現在、の雲行きはかなり怪しい。しかし、土星が海王星と120゜の吉角になっているので、希望的観測でかなり隠れている。
岩崎宏美が父親(土星)と係争中が明るみに出たり、キムタクのドラマが今イチだったりする一方、由紀さおりのブレークもある。
朝鮮半島なども一見静かに見える。

変容宮()にとっては、昨年の11月以来、火星がにいて、しかも、今年の7月まで8ヶ月も居座っているから、かなり、ストレスがかかる。そこに海王星の入宮だから、大混乱だ。

具体的には、為替、格付けなどの世界的混乱が最大事だが、芸能、医療、農業、観光や通信等の混乱が起こる。
ピンクレディーのパブリシティー権の敗訴確定なども、海王星と火星の話題だ。(ミイケイ、写真

海王星の影響については、豪華客船の転覆事故や、石油やガスの問題、あるいは島嶼問題、コンピュータ、携帯トラブルなども目立っている。これからもっと起こるが、強烈なインパクトはなく、「なんとなく」そういうことが多いなといった印象だ。

2日の、東京証券所のコンピュータートラブルも変容宮の話題だ。東京はで、の金融とは相性が良いが、のコンピューターとは相性が悪い。しかも名前が「アローヘッド」ときては、もろにの名前だ。富士通や東証は、そんなことまで気にしないだろうが、もし、命名を頼まれたら、もう少し相性の良い名前を考えただろう。

しかし、この名前になったのは、時代ならではの必然性がある。
アローがなら、ヘッドはだ。天王星時代にコスモやユニバースの宇宙に関するの名が流行ったようなもので、無意識のうちにの「頭」が浮かんでしまうのだろう。

の東京と言えば、今は火星の影響の方がインパクトがある。
火星は1月24日に停止逆行を始めたが、それから3~4日、東京()周辺でM5クラスの地震が続いたうえ、東京直下地震の話題も出た。
今度、火星が逆行から停止順行を始めるのは4月半ばだ。

何はともあれ、一難去ってまた一難。このところ、本当に嫌な星の配置が続いている。


ワッセ!

2012年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム

何度でも繰り返し言うが、年金は止めるべきだ。
何処に行っても、年寄りが集まると「年金をいくら貰えるか」と話している。
誰でも、貰えるものを要らないという人はいないし、貰うなら少しでも多く貰いたい。

しかし、これから先は、若い世代の過剰な負担以外に、年金維持の道はない。そこにつけ込み、官僚が政治家を操り、税金の話に転嫁する。

とにかく、現行の年金制度、その背景となる社会福祉の考え方そのものが、根本的に行き詰まっている。
今の制度は、人生が60年で、人口は増え続け、経済が発展し続ける事が前提になっている。そういう時代は終わったのだ。

これから先は、人口が減少する中で、少なくとも80才までは働き、経済成長のない社会であっても、誰もが充実して生きられることを考える時代だ。

医療に頼る健康より、健全健康な社会生活を考える方が合理的だ。
健康、収入、育児に行き詰まったら、個々にお金を配るのではなく、施設で保護し、復帰を目指す、「最終保証」を用意する。
教育も、画一的な、学校から就職への道ではなく、先ず就職、必要に応じて、随時の学習環境を整え、学術研究への道もどこからでも目指せるようにする。「学校は就職教習所」の考えを改める時だ。

明治以降整えてきた制度は、大量生産・大量消費のためのシステムであり、その方式が行き詰まっている。
この先250年のパラダイムを見据えて、どういう考え方で、何を整えねばならないのか、それを考えなければならない時なのだ。

年金は何歳から支給とか、秋入学にするとか、福祉に金がいくら要るとか、そういう枝葉末節の議論をしている暇は、もはや無い。

事故があって初めて目覚めた、原発政策と同じだ。
早くから、現状廃棄を前提に、未来志向のエネルギー政策を考えていれば、今日のようなことはなかった。

スリーマイル島以来、原発は止めるべきだと思い、そう主張してきたが、世の中は、ワッセワッセと進んで行った。

20年ほど前に、夫婦で毎月50万以上年金が入りますと、喜んでいた人の話を聞いて、『何かおかしい』と思った。
現役収入の多かった人ほど、蓄財も多いはずだ・・・

それ以来、年金そのものに疑問を持つようになったが、今、正に崩壊している。原発のように、日夜、放射能に悩まされていないだけだ。

年金だけではない、福祉の考え方から根本的に改める時が来ているが、世の中は、相変わらず、ワッセワッセと進んでいる。