魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

高齢社会(1)

2012年02月12日 | 日記・エッセイ・コラム

人間の寿命は125才だそうだ。何で読んだか忘れたが、複数の書で見かけた。
実際、生年が定かな近代の記録で125歳を超えた人はいないようだ。とてつもない年齢の老人が暮す秘境には、そもそも暦が無かったりする。
もっとも、暦があっても、死亡届がなければ何百歳でも可能だ。

結婚して会社を辞めることを「寿(ことぶき)退社」と言う。
めでたい意味の「寿」は、元々、「年を重ねる」老人や長生きを表し、長生きはめでたいから、「祝いの言葉」の意味で「ことほぎ=ことぶき」と読まれるようになった、と思われる。

長生きした人を祝ってか、長生きを祈ってか、
「長寿」(ながきをことほぐ)という言葉が生まれたのかも知れない。「寿」の「としをかぞえる」意味から、人名では「カズ」とよむ。
いずれにせよ、「長生き」は、何よりもめでたいことなのだ。

ところが今や、人生80年の高齢社会になり、100歳を超える人もどんどん膨張して、「たいへんなことになった」と、長寿が災難かのような空気まで出てきている。

高齢化と言えば、世の中の人は、困った「問題」としか考えない。そう考えることの方が「問題」なのだと、気づく人は少ない。

長寿を、人生50年時代の発想で考えれば、確かに大問題だ。
「余生を送るだけの厄介老人」が増えれば、どう面倒を見るのか、と心配になる。

無駄な人はいない
大転換時代。あらゆることに、発想の転換が迫られている。
年齢と社会の関係も、ゼロから考え直す必要がある。
生きている限り、何らかの人材活用法は必ず存在する。

寝たきりや、植物人間であっても、生きていることで、周りの人に希望を持たせることもあれば、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」のような効果もある。生きているだけで、組織や周囲の人が、次への時間稼ぎができることもある。
これは極端な例だとしても、「無用の用」ということもあり、全く役に立たない人間など存在しない。

年寄りは、若い人のように、頑丈で精密な機械ではない。だが、新発売の機械には問題が発生することもあるが、長い時間使い続けた機械というものは、ガタピシ言いながらも、使い勝手の良いところがある。

年寄も子供も、想像以上に役に立ち、現役世代を驚かすことがある。幼老は完璧ではなくても無能ではない。使ってやれば、年寄りは息を吹き返し、子供は成長する。

近頃の親は、何かと言えば、「子供にそんなことはさせられない」と言うが、それはむしろ、子供の成長を阻害している。塾に通わせるばかりが教育ではない。