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占いという もう一つの眼

高齢社会(2)

2012年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム

年寄りは、体力的に現役世代と同じようには働けないが、退役後、社会的な役割を、仕事として行えば、社会に有用な労働力になる。

年寄りの仕事は、退職で、一端、地位やキャリアを精算する。
その上で、「第二の就職」として、能力に応じて新規雇用を考えてはどうだろう。
過去を捨てて働きたい。悪く言えば、働かざるを得ない状況を作るためにも、個人年金は止めるべきだ。(最終救済手段は用意する)
退職後に働くのが嫌なら、現役時代に蓄財しておけばいい。

女性には少ないが、退職後、地位が忘れられず、世の中になじめず、孤独な老後を送る老人男性は少なくない。こういう人を、強制的に社会に引き出す意味でも、第二の就職を制度化する必要がある。

第二の就職には、勿論、能力に応じて、育成や顧問などもあるが、基本的には、子供の監督、掃除や留守番など、昔の大家族で年寄りが果たしていた役割、いわゆる「お手伝い」を仕事化することだ。

江戸時代の退職は、隠居だが、実際は40代の元気なうちに隠居し、「隠居仕事」として、農家では新田を開拓した。責任のない立場で子孫のために働いたのだが、現代なら、社会のために働く道がある。

子供を可哀相だと言って働かせないことは、成長を妨げることになるし、年寄りを大切にすると言って働かせないことも、活力を奪うことになる。ヒマになれば病人が増える。

「第二の就職」 幼老を活用して世代がつながる社会
学校制度は、先ず将来目的を見つけることを第一義とし、学習や学問はそれに従って行う。子供は塾より、お手伝いや体験就職の社会参加の方が学習意欲につながる。何のために学ぶかが自覚できるからだ。

年寄りの活用を、現役世代の延長と考えると、弊害ばかり起こる。
4~50歳で「人間学習の終了」と考え、早めに引退して、人間力を活かした「第二の就職」をし、現役世代の潤滑油として社会を支える。

昔、年寄りがしていたことは、地域文化の保存、子供の育成、若い世代の相談役、近隣の環境管理・・・などだが、
今、現実に、祭の伝承や、保育、子供の遊び、子育ての悩みや料理の智恵など・・・年寄りを活用すれば良いことを、施設が無い人がいないと、わざわざ新しい問題にしている。

年寄りが参加しない、「人間力」に欠ける子育ての現場では、虐待や陰湿な体罰が起こっている。
養育も教育も「隠居」の参加が必要だ。学校の副担任は第二就職者にすべきだし、政治家も老若のセット立候補とした方がいい。

しかし、これもまた、年寄りが画一的に働けるわけではない。年を取ると、個人的な体力差、能力差は若い時より大きくなるし、どこで倒れるかわからない。機会均等にはアテにしない配慮が前提だ。

当然、第二次就職者の労働時間は現役世代より散漫で、賃金も安くなるが、年寄りには、現役世代ほどお金は必要ない。