魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

ゴミの山(1)

2012年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

近頃、若い娘が部屋を片付けられなくなっている話をよく聞く。
昔のような大家族で、住まいのスペースを共有している時代は、片づけずには暮らせないから、誰でも、毎日、片づけをしていた。
年末には大掃除があり、衣替えや虫干しも「年中行事」としてあった。

しかし、行事も消え、子供の時から自分の部屋を与えられるようになって、自分さえ気にしなければ、散らかることが問題でなくなると、片づけることを知らないで育つようになってしまった。

また、この逆に、マンションなど狭い空間で育った場合にも「片づけられない」場合がある。すべて、母親の掃除で事足りていて、大人になって突然、一人暮らしした場合も、片づけ方を知らない。

こうした、生い立ちや環境、躾の問題も確かにあるだろう。しかし、これにはもっと大きな問題が関わっているような気がする。

時代が変わった半世紀
ほんの少し前の、半世紀前には、衣類にせよ食事にせよ「物は自分が作る」ものだった。
ところが、大量生産社会になって、身の回りの一切の物を、買ってくるだけになった。佐藤春夫が「苦いかしょっぱいか」と噛み締めたサンマさえ、スーパーで焼いて売っている。

近頃、夕飯時に町を歩いても、夕食のニオイがしなくなった。
もしかしたら、「三丁目の夕陽」を製作した人達も、町に様々なニオイが溢れていたことなど知らないかも知れないし、観る人も想像していないだろう。

食事はすべて家で作り、日常の衣服も、大方は自家製で、リホームなどは当たり前のことだった。娘のために縫いながら歌った、ロシア民謡の「赤いサラファン」の世界は、日本にも確実にあった。

こういう時代は、当然、物を大切にした。一つの物を作り直し、手を加えて使っていたから、家に使わない物など無かった。
ところが、大量生産大量消費の中で、作り直すより、新品を買う方が簡単になった。日々成長し、生活を変えていく若者にとっては、成長のたび、心境の変化のたびに物が増えていき、始末がつかなくなる。

食べ物にしても、仕出し品、テイクアウトはもとより、スナック菓子に到るまで、それぞれに包装や梱包材が発生し、しかもゴミを出すには厳密に仕分けしなければならない。

年寄りとの生活を知らず、使い回しの発想がなく、掃除の仕方を知らない若い人の中には、ゴミの山に埋もれていく人がいてもおかしくない。それも、安価な女物が溢れているから、何でも追加する女子の方が多くなる。

昔は生理用品も自分で作っていた。以前、タンポンを二つ入れて忘れていた人の話を聞いて、昔なら、あり得ない話ではないかと思った。


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