魯生のパクパク

占いという もう一つの眼

疑心暗鬼

2007年11月06日 | 星の流れに

魚座時代もすっかり膏肓に入り、すべてが、前述の表記問題のような
「何を信じて良いのか・・・」わからない時代になってしまった。
空気さえ信じられない。

多くの人は、マスコミや政治家は、すべて嘘を言っていると思うようになり。一方では、信じられないような単純な嘘にハマる。

これは精神病の世界だ。
人間が人間として生きる能力ゆえに起こる、認識の崩壊。
知覚から認識を得るのではなく、認識から認識を得る。人間の高度な知能が、データ矛盾で停止するコンピューターのように狂い、ビス一本で何百億円のロケットが墜落するように、精神が制御不能になる。

前回の「正味期限」でも言ったように、知識で理解するのではなく、まず五感で理解し、知識と融合させることが重要だ。
そう言うと、この虚構の魚座時代では、「人間の知覚ほどアテにならないものはない」ことが一般常識になっているから、
「何を幼稚なことを言ってるんだ」と言うことになるだろう。

それならば問いたい。その知識は何で得ましたかと。
「そう言う説を、自分で実際体験したんだから確かだ」と、言うなら、それでは、その自分の体験もアテにならないではないか・・・
つまり、この時代。我々は筑波山のガマのように、八方を鏡に囲まれた世界に立っている。
何が虚で何が実なのか・・・

人間がだまされるのは真実があると思うからだ。
真実も実体も、逃げ水のようなものだから、追わない方がいい。
じゃあ、何に足をつけて生きればいいのか、

何ごとも、「ほどほど」「適当」を前提に歩めばいい。
下ろす足が必ず地を踏むとは思わず、それでも信頼して踏み下ろす。
世の中に確かなものなど存在しない。
何ごとにも疑いを持ちながらも、「とりあえず」信頼する。
五感に響くものすべてが真ならず、偽ならず。

「嘘から出た誠」は結果的に本当になることをさすが、それとは別に、
嘘から本当を察知することは可能であり、それは自分自身を疑うことで可能になる。
人の話で感情を動かすと、「本当」が見えなくなる。話しのディテールにこだわると全体が見えなくなる。

この人はなぜここにいるのか。この人はなぜこの話をするのか。自分はなぜこの話を聞いているのか。
話しの根拠や論理を離れて、「そもそも」に立ち返る。そうすると鏡の後ろ=話しの後ろが見えてくる。

また、「火のない所に煙は立たない」
どんないい加減なソースでも、役に立たない情報はない。
根拠や証拠は何の役にも立たない。ひたすら自らの洞察力を磨くべし・・・