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転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



回してくれた方の印象をどうぞ!
『回してくれた方』は、あち様です。
実に博学多識で、美しい方です。言葉に対する感覚が素晴らしいです。
そして感性が豊かで細やかで、とてもとても、心の暖かい方です。

周りから見た自分はどんな子だと思われていますか?
あんまり印象に残らないタイプなのでは(^_^;)?
のんびりキモち良く太ったオバさん、ということではないかと。
知らない人から、道訊かれ・モノ持たされ・用事言いつけられ、
・・・といった傾向があります。

好きな人間性について5つ述べてください。
・人の気持ちや状況に関して、察しが良いこと
・ものごとに対して、とりあえず肯定的であること
・向上心があること
・笑いや遊びがわかること
・・・・頑張ったけど4つしか思い浮かびません(^_^;)。

では嫌いなタイプは?
物言いが、いちいち、とんがっている人。

バトンタッチ名3名!(印象つき)
すみません、こういうのが大変、苦手です。
印象を語るのはいいのですが、指名するのが、駄目です。
ごめんなさい。どなたか拾って下さい。
もし、のちほど、ここから拾って書いて下さったことが判明した方には、
可能な限り、印象を語らせて頂きます。

タイトルに回す人の名前を入れてびっくりさせてください。
上記の理由により、この項目はナシです。ごめんなさい。

宝くじで3億円当たったらどうする?
・カウチソファとローテーブルと、ダイニングテーブルと椅子を買う。
・キャンパ社製遠赤外線ヒーター『フォトン』をあと3つ買う。
・クロアチア版フライデー『GLORIA』の、ポゴレリチ関連の記事を、
 プロの翻訳者に全部和訳して貰う(一件55000円×12記事)。
・主人はパリ&マドリッドに行きたいと言いそうだけど、
 仕事を辞めないと、行く暇が無いか(^_^;)。

どんな告白をされたらグッときますか?
思いつかない~・・・。
ひとりひとり、その人の「ホンモノ」の言葉があると思うので、
そういうものに触れたと感じたらグっと来るでしょう。

こんな人が理想!!
生活者としては、やはり主人が理想です。
我が子としては、やはり娘が理想です。
欠点がないとか他人より優れているとかいう意味ではなく、
「私にとって一番良い」という意味で、です。

異性のどんな仕草にグッときますか?
たかこ(和央ようか)さん演じる男役の仕草にはいろいろとグッと来たけど。
ホンモノの男性だと、どうなんだろう。

自分を褒め称えてください。
私ほど、とことん遊んできた人は、世の中、そう多くないであろう。
遊びの内容が、全く、人並みでないのが恥ずかしいが。

逆に誰かを罵ってください。
ブラウン管を発明したブラウンのせいで、テレビなどというものが
この世に生まれたのかと思うと、限りなく腹立たしいことがある。

人には理解出来ないんじゃないかっていうマニアックな萌えポイントは?
マエストロ・ポゴレリチのスキンヘッドとかですか?

このバトンを回してくれた人を食べ物にたとえると?
香りの良い紅茶かコーヒー。・・・って食べ物じゃなくて飲み物になっちゃう?

最近ハマってる場所は?
うちのマンション。官舎でない普通の家ってこんなに快適なのかと。

今何聞いてる?
何も。強いて言えばパソコンの軽い唸りとキーボードの音。

最近感動した出来事は?
舅の一周忌法要のとき、お寺の若院さんから、
「ご縁を感じます。ありがたいと思っています」
と我が家との出会いについて仰って頂いたこと。

最近怖かった出来事は?
娘に借りて『超・怖い話』を読んだこと。

今行きたい場所は?
結婚して初めて住んだ、福岡市早良区。
娘が生まれた、松江市西川津町(今は地名が違いますね)。

明日の予定は?
普通の火曜日。主人が出勤、娘が登校したあとは掃除洗濯その他。

最近恋してますか?
現実世界においては私は極めて恋少ない女です。若い頃から。

車に乗ってる時窓の外に走る忍者が見えますか?
車にほとんど乗らないので、よくわかりませんが(^_^;)、
バスに乗って土手の脇などを走っているときには、なんとなく
妖怪ジェットばばぁがバスに伴走していそうな気はします。

今どんな気分?
そろそろ寝なくては。

今一番ほしい物は?
家族みんなが、およそ平均寿命まで普通に活動できるくらいの、
我々全員の健康と命。

異性の「ここだけは許せない」ってポイントは?
人の迷惑に関して鈍感なこと、かな・・・・。

ここ最近の身の回り出来事などを漢字一文字で表すと?
「実」

*************
以上です。
凝らずに、サクサク答えました。

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合同法要があったので、本願寺広島別院に主人と出かけた。
合同だから、うちの舅ひとりのためのものではないし、
正直なところ一周忌法要のように気合いは入っていなかったが、
私は広島別院が初めてだったので、行ってみた。
私は、つまり、抹香臭いことがかなり好きなのです(^_^;)。

出席者は、この一年に家族の誰かを亡くした方々で、
全体に年齢層が高めだった。
私の後ろは女性ばかり四人が横一列に並んで着席していて、
全員が、それぞれ未亡人のようだった。

未亡人A「知らない人の間にいたほうが気が紛れますよ」
未亡人B「そうでしょうね」
未亡人A「主人が亡くなって三ヶ月、私は毎日、外出してましたよ」
未亡人B「そうですか。私はまだ、どこにも出る気になれなくて」
未亡人A「私は年齢的に少し早かったですけど、私のまわりでも、
 このくらいになると、旦那さんを亡くす人も増えてきましたよ。
 でも皆さんね、どうしたらいいかわからないのは最初だけで、
 じきに遠出したり、遊びに行ったり。晩ご飯の心配しなくていいし。
 気楽で最高って、三年も経ったら、ハツラツとしてらっしゃいますよ」

ハツラツ、かい!

主人と私が、ごく小声で同時にツっこんでいた(^_^;)。
死に後れた妻が、何年でも、気も狂わんばかりに泣き暮らしていたら、
夫だって浮かばれまいが、かと言って、溌剌とされてもな。
私は自分の健康にも生命力にもあんまり自信がないので、
まずは主人よりきちんと長生きできるのかどうかが不安なのだが、
だが待てよ、シオらしくこんなことを言っている人間に限って、
後家さんになってから、アラスカにオーロラ見に行ったり、
ケニアへサファリ満喫旅行に出かけたりするのかな。

ともあれ、法要そのものは、時間通りに始まり、滞りなく、
読経があって焼香があって、法話があって、
と、ごく普通の段取りだった。
輪番様ご法話は、身近な例をいくつか引用したうえで、
『人間の力では煩悩を断ち切ることは、まず、できないから、
あれがしたい、これが欲しいという現世利益の願いはあるのが当然。
その、迷い多き力弱き我々にも、ただ、無心にお念仏を唱えることで、
浄土への道が開かれる、と説かれたのが親鸞様であり、
そのような御仏の救いに思いを至らせ、感謝をもって暮らすこと』
等々と、わかりやすく語られていたのだが、
私の左後ろの未亡人Cさんが、途中から寝入ってしまわれ、
しかもどんどんイビキの音が高くなるので、困ってしまった(^_^;)。

まあ、阿弥陀様の御前で、ご法話を聞きながら、
ありがた~くなって眠りに入る、というのは理想ではあるか(爆)。

さて、ご法話のあと、焼香をして出てきたら、
ちょうど娘が、模試が終わったというメールを送ってきた。
どの科目も60点くらいしか取れてないと思う、
とかなんとかいう内容だった。

サイアクやんけ!!
・・・・・(--#)(--#)(--#)。

な~むあ~み だ~~んぶ、
と百回唱える必要のあるワタクシだった。

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実は数日前から、私の右耳の内部で、
何かが、ぱきぱきと変な音を立てていた。
虫が入ったとかではなくて、首を動かすとパキ!と言ったり、
耳かきで掃除するとペキペキペキ・・・と音がしたりして、
耳垢か何かが鼓膜にでも触れているのか?という感じだった。

それで主人に電灯の下で調べて貰ったのだが、
どう見ても、特に目立ったものは無い、という返事だった。
余談だがこのヒトは、家族の耳の穴を覗くのが好きで、
頼まなくても、娘や姑や私は、よく彼に耳掃除されている。

ということで、きょうの夕方、観念して耳鼻科に行った。

医「どうですか」
私「きょうは、いつもの鼻炎じゃなくて、耳なんです。
 ここ何日か、頭を動かすと、右の耳の中で、ぱきぱき音がして」
医「ほほう」

先生が、パソコンで管理なさっているカルテに、
『みぎのみみのなかでぱきぱきおとが・・・』
と入力なさっているのが、見えた(^_^;)。
で、診察が始まった。

医「ふむふむ。反対側も診ますよ。・・・はいはい」

先生は、私の両方の耳の中をそれぞれ診察なさってから、
おもむろに、細いピンセットみたいなものを右耳に入れられた。
その途端、いつにもまして大きな、
ぺきぱきっっ!!
という音が、頭の中に響き渡った。

医「今の、大きな音がしましたね?これですね?」
私「はいっっ!!」
医「これだったんですね~~」

先生が見せて下さったモノは、短い、髪の毛だった。
長さ1~2センチで、切れ毛か何かのような感じだった。

医「結構、音が大きかったでしょうね」
私「はいっ!!ありがとうございました!!」
医「これでラクになったでしょう(^o^)」
私「はいっ!!助かりました、ありがとうございました!」

看護師さん達も一斉に、『良かったですね~(^o^)!!』
と喜んで(^_^;)下さった。
ありがとうございます~~、と診察室を出て行く私の背後で、
良かった良かった~~みたいな会話が、まだ、聞こえていた。


・・・という顛末を、家に帰ってきてから自慢気に語ったら、主人が、
「『んま~!どうしてあんな髪の毛なんかが耳に入るかいね!』
『ほんまにおかしげなヒトよね!』って皆が後ろで言いよったんじゃろ」
と笑った(--#)。

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某A中学オープンスクールに継いで、
きょうはB中学のオープンスクール&入試説明会に行った
(アルファベットは単に『行った順』なので悪しからず)。

同じキリスト教系でもA中学のほうはプロテスタントなのだが、
こっちは、カトリックの、厳格な女子校だ。
質素を旨とし、愛と奉仕の精神を忘れず、
ひとりひとり神から与えられた役割を果たすよう、日々努力する、
というのがこの学校の生徒の生活の仕方であるようだった。
宝は天に積みなさい、との聖書の言葉を実践するような、
生徒の地道なボランティア活動の数々がDVDで紹介されていた。

制服があり、規定はことこまかく定められており、
当然のことだが茶髪・ピアス・化粧などは御法度だ。
服装検査が定期的にあり、スカート丈まで厳密にチェックされる。
「『服装くらい、ちょっとは自由にしても、いいじゃない』
『そんなの厳しすぎる』
とお感じになる生徒さん・ご家庭でしたら本校には向きません」、
と生活指導教諭から、説明会でばっさり言われていた。

私は、元来、集団生活に関しては、
「厳格で窮屈」みたいなことが、そう嫌いではない。
家では皆、野放図に自分を許して暮らしているのだから、
集団に入ったら逆に、自己をおさえ規律を尊重して行動する、
というメリハリを持つことが好ましいと思っている。
なので、この学校の厳しさは、私は気に入った。

今年度は、『礼儀正しいことは、親切なことである』
という言葉を掲げ、日々の行動を律して指導なさっているそうだ。
例えば、お客様が来られたら起立して出迎える、とか、
重い荷物を持っていらっしゃる方を手伝って差し上げる、とか、
教室内でクラスメートが間違っても、笑ったりしない、等々、
他人に礼を尽くすことは、相手に対して親切にすることに等しい、
というのが指導内容だとのことだった。

ただ、こういう厳格さと表裏一体にある「閉塞感」が、
果たして、うちの娘に合うのかどうかは、やや疑問だった(^_^;)。
娘は多分、規則には従順に従うとは思うが、
彼女は気の良いヤツで、他人が何をしているかが気にならず、
良く言えば大らかに、悪く言えば鈍感に暮らしているので、
キビキビと常に気働きをしつつ、緊張感を持って人様に尽くす、
などという生活は、かなり苦痛と劣等感を伴うのではないか、
という気が、私は、した。
いや、本当に私自身は、こういうのが趣味だし、
できれば娘にも、同じ価値観を持って欲しいのだけれどね(^^ゞ。

保護者が体育館で入試説明会を聞いている間、
娘たちはグループ分けされて、体験授業を受けてきた。
出てきた娘は、「算数だった、面白かった」と上機嫌だった。
尤も、このヒトは、物事に大抵、肯定的なので、
最初から「嫌っ!!」というのは、まず、無いのだが(^_^;)。

ともあれ、ここを受けるかどうかはまだわからないし、ほかにも、
引き続き、いろいろと入試説明会に行ってみるつもりだ。
明後日はC中学の文化祭だし、
来月は主人の出身校である某男子校も覗きに行く予定だ。

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娘は、歴史が得意だと自分で言うのだが、
私には、到底、そうは思われない。
まあ、私のほうこそ、社会科全般、得意なものは無かったから、
大きなことは言えないのだが、それにしても、
二学期のこの時期になって、そんなんでいいのか(T.T)、
と私が泣けて来るようなことを、娘はしょっちゅう、しでかしている。

昨日も、塾の問題集をやりながら娘は、
「ねえ、源氏物語の作者って、清少納言だっけ?」
と私に尋ねた。

私「ちゃう」
娘「あ、じゃあ・・・」
私「キミの覚えているのは、逆だ、逆」
娘「わかった!枕草子が清少納言で、源氏物語は紫式部だねっ」
私「そうだ」

娘は、喜んでノートに答えを書いた。見たら、

武部 orz

人よんで『むらさきぶぶ』とはオマエのことだ(--#)。

娘の解答を見たら、これの続きもワロスで、
最澄が真言宗、空海が天台宗、をそれぞれ開いた、と書いていた。
だから逆だってば、逆!

私に指摘されて、娘は慌ててノートをなおした。
「紫部」は「紫部」に、
仏教のほうも「最澄-天台宗」「空海-真言宗」の正しいペアに。

・・・と思ったら、娘は、
「最ちゅう-天台宗」と書いていた。
最ちゅう、最中と書けば「もなか」だが、それはともかく。

それはキミの書き間違いか、それとも、まさかと思うが、
ずっとそのように発音していたということか?

たき沢ばこんの悪夢ふたたび。

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結局、この年、私は『ソビエト演劇』の授業については
ほぼ皆勤だったと思う。
年度末試験はなく、レポートだったので、
私は『ワーニャ伯父さん』について書いて書いて書きまくった。
特に、「冬が来る」の一言について感じたことを執拗に書いた。
そして、一年次が終わった春期休暇中に、NHKで、
レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の録画が放映され、
そこで私は、『ある馬の物語』に出会ったのだった。

この演目については、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の、
88年の再来日における公演と、
90年(多分)に見た日本の若手劇団による上演との、
二度の生舞台の出会いを、このあと経験することになるので、
詳細はそちらに譲りたいと思うが、
とにかく、このときにテレビで観た『ある馬の物語』は、
夏に生観劇した『ワーニャ伯父さん』をも凌駕する物凄い衝撃だった。
このビデオは私の生涯の宝物だと今でも思っている。

さて、この出会いの感動と、もうひとつ、音楽面でのミーハー心とで、
次年度、私は第二外国語を正式にロシア語として登録しなおした。
フランス語はせっかく四単位取ったが、この時点で断念することにした。
ロシア語も、有り難いことにまた佐藤恭子先生の授業だった。

余談だが佐藤先生のロシア語の授業はとても怖かった。
私はもともと、甘くされると際限なくさぼる人間なので、
習い事は、ビシビシと厳しいタイプの指導者と相性がいいのだが、
佐藤先生はその最たるものだった(爆)。
ロシア語選択者の人数は少なくて、たった一クラスしかなく、
そのクラスも十数人しかいなかったのではないかと思うのだが、
毎回毎回、何巡でも当てられて、出来なかったら容赦なく叱られた。
泣きそうな一年生もよくいた。

しかしお陰でこれが、全員とても仲良くなったのだから不思議だった。
過年度生は私だけでなく、第三外国語として履修していた三年生や、
中国史研究との関連で聴講しに来た大学院博士課程の上級生などもいて、
専攻も、語学に国際関係学に数学にと、入り乱れていて面白かった。
一年目の後期に入る頃にはロシア語のクラスでコンパまでやった。
勿論、佐藤先生もお招きしてのことだ。

私はその後、ロシア語の1年生に「経済学」の代返をして貰ったり、
後期試験前には「キリスト教史」のノートを貸して貰ったりしたし、
また、時事英語のクラスでマルコス政権の記事が課題になったときには、
ロシア語仲間の3年生の先輩でフィリピン政治が専門の人がいたので、
頼って全部和訳して貰い、ついでに背景の解説までして貰った。
それで私から何か返せるものがあったのかというと、全然なかった。
N子ちゃんのときもそうだったが、私のやっていることは結局、
「助け合い」よりも「助けられ」のみだった(^_^;)。

私の、ロシア語に関する唯一にして最大の後悔は、佐藤先生に、
自分のロシア語受講の動機を、お話する機会が、ついぞ得られなかったことだ。
私は、前年の佐藤先生の『ソビエト演劇』の授業を取り、そのお陰で、
レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の公演を観ることができ、
ロシア文化の片鱗に触れ、それだけで虜になり、
とうとうロシア語をちゃんと勉強したいと思うようにまでなったのだ。
私は、この世界に誘(いざな)って下さった先生に、
どれほどお礼を申し上げても足りない筈だった。
だのに、結局最後まで、そのことをお話せずに終わってしまった。
1年次「ソビエト演劇」、2年次「ロシア語1」、3年次「ロシア語2」、
と在学中に専攻科目でもないのに3年間連続でお世話になり、
大学内ではいつでもお目にかかれると思っていて、
そんな状況に甘えているうちに、卒業の日が来てしまったのだ。

(続)

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痛む足をひきずりながら、着いた国立劇場は、
山出しのワタクシの目にはあまりにもきらびやかに映った。
桜井郁子氏の『わが愛のロシア演劇』によると、この公演は、
空席の目立つものだった、ということだが、
そのようなことは全く私の記憶には残っていない。
劇場のすべてが華やかで圧倒的で、
そこで上演された上質の演劇に19歳の私はただただ打たれた。

当時のチラシを今でも私は持っているのだが、
初来日でレニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場が持ってきた演目は、
『ある馬の物語』『検察官』『ワーニャ伯父さん』『小市民』の四つで、
出演者それぞれが何役もこなし、日替わりでこれらが上演される、
本国でのレパートリーシステムさながらの公演内容だった。
ソ連では、一定のレパートリーの中から、毎日違う演目が上演されて、
俳優たちは、自分の出演するものについては、
きょう、どの演目をやると言われても即座に務められる状態で、
常に複数の役を日々同時進行で研究しているのだ、
ということを、私は既に、佐藤先生の講義で習って聴いていた。

このとき学生で貧乏だった私は『ワーニャ伯父さん』だけを観た。
正確には、これを選んだというよりは、むしろ、
二度も三度も見る経済的な余裕がなかったことに加えて、
日程の関係か何か、差し支えがあって、他の日が駄目で、
選択の余地もなく見ることになった演目だった。
チェーホフなんてそれまでマトモに読んだことなどなかったし、
大学の課題でなかったら、選んでまでは観なかっただろう、
と思われる、細やかな心理描写がハイライトとなる芝居だった。

が、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場は、
これを私に、最後まで見せてしまったのだった。
イヤホンの同時通訳という悪条件下だったにも関わらず
(さすがチェーホフなので、日ソ学院でちょっと習ったくらいでは、
ほとんど一言も聞き取れませんでした・爆)、
私は、ワーニャやアーストロフ、ソーニャの語る絶望と、
そこからの出発、矛盾、そして運命の受容、みたいなものを、
あまりにも辛気くさいテーマであるにも関わらず、
とうとう、信じられないことにおしまいまで聞かされてしまった。

ワーニャが(アーストロフだったかな?・殴)、
『冬が来る』という台詞を言ったときに、
私は深いところで何かに打たれたような衝撃を感じた。
単に季節が秋から冬になるという意味ではなくて、
ロシアの農村の冬は一年の半分を閉ざすほど長く、命を脅かす厳しさで、
それに耐えることは心身ともに多大な忍耐を要求されるということや、
これまでの五十年近いワーニャの人生はほとんど無駄なことに費やされ、
以後の彼の余生は長い長い冬に向かうほかないのだ、ということなどが、
『冬』の一言から一瞬で連想させられた。

それは友人のアーストロフも、ワーニャの姪のソーニャも同様だった。
客観的に見たら、彼らには絶望しかなかった。
今で言う「リセットする」方法を探し求めていたのに、
そんなものはどこにもないことが、最後にわかっただけだったのだ。
皆、なんの希望も持てなくても、死ぬことさえも許されず、
その長い『冬』を、命の果てる日まで、生き通して行くしかない、
というのが結末だった。なんという現実直視!なんという不条理!

幕が降りたとき、客席がどういう反応だったか、私は覚えていない。
恐らく大歓声の中でカーテンコールが繰り返されたのではないかと思うが、
私はそんなことより、かつて一度も経験したことのない感覚のほうに、
すっかり捕らわれてしまっていた。
私はゾっとするような、とてつもない深淵を覗いてしまった気がした。
台詞を聴く、ということの奥深さと重さを、初めて体感した一夜だった。
ああ、とんでもないものを観てしまった!こんな世界があったのか!
と私は頭に血がのぼったような気分のまま、
その夜遅くまでかかって、慣れぬ電車をいくつも乗り継いで、
ほとんど立ち通しで、武蔵野の奥の、小平の下宿まで帰った。

だが、その夜の衝撃はこれだけでは終わらなかった。
自分の部屋に帰り着いて、どうも痛いと思ってよく見たら、
私の右足小指が、赤紫色に腫れ上がっていた(爆)。

(続)

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今夜、主人は帰宅して夕食が終わった途端に、
電話で職場から呼び出され、
「んもうっ(--#)」
と言いながら服を着直して出て行き、
さきほど、ようやく本当に帰ってきた。

一風呂あびて出てきた主人に柿をむいて出し、
私は台所を片づけて、コーヒーを淹れにかかったが、
私自身は主人の最初の帰宅前に夕食を済ませていたので、
それから既に5時間近く経って、
なんとなく小腹が空いて来たのを感じていた。

私「なんか、食べたいな~」
夫「・・・・・・」
私「この前の法要のお供えだった、蜜饅頭、食べよっかな~」
夫「やめんさいや!」

主人は、とたんに眉をあげて言った。
言語道断だ、と言わんばかりの口調だった。

夫「夜に甘いもの食うたら、太るよ!!」

そう言ってる主人は、まさにそのとき、
柿を平らげたあとだというのに、さらにアイスクリームの
パ○ップ『赤ぶどう&白ぶどう』を食べ始めたところだった。

開いた口が、ふさがらなかった(--#)。

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一度には語りきれないので、まずは私の、
ロシア演劇との出会いの話から書いてみたいと思う。

ことの起こりは大学1年のときだった。
必修科目以外は、自分で便覧を見て受講科目を決める形式だったので、
私は、最初は実に軽い気持ちで『ソビエト演劇』を取った。
西欧と違い、ソ連は、日本人にとってメジャーな国とは言い難かったので、
かえって面白そうだと思って選んだのは間違いなかったが、
実のところ、当時の私にとっては、ソ連と言えば、
ブレジネフとかグロムイコ、クレムリンとかマトリョーシカ(爆)。
そして、パルナス、パルナス、モスクワの味♪(爆×2)。
・・・そんな程度だった。

担当の佐藤恭子先生は、東京外語ロシア科ご出身で、
モスクワのルナチャールスキー演劇大学を卒業なさった方で、
漆黒のボブヘアに濃い眼鏡、薔薇色のマニキュアにスカラベの指輪、
そして常に黒を基調とした装い、という大変に洗練されて美しい方だった。
しかも佐藤先生の、低い、まろやかな声は素晴らしかった。
さすがにソビエト仕込みの演劇人は、発声の基礎からして違ったのだ。

さて、私は履修届を出すときに友人がいるかどうかは考えていなかったが、
このクラスには、行ってみたら、偶然、あのN子ちゃんが、いた。
フランス語に引き続き、こんなところでも出会ってしまったのだ。
ほかに1年生の知り合いは見当たらなかったし、
我々は当然のように協力しあうことになった。

確か、あれはスタニスラフスキー・システムがどのように
確立されて行ったか、の話題のときだったと思うのだが、
佐藤先生が、その社会的背景の概要を説明なさったことがあった。

私「今、先生が四月ナントカって仰ったのは、何?」
N子「レーニンの演説みたいやね」
私「四月、・・・なに?」
N子「四月ていぜ、って聞こえた」
私「ていぜ、って何?」
N子「わからん(^_^;)」

テーゼもアンチテーゼも知らなかった私たちであった(爆)。

(1917年4月の、レーニンによる四月テーゼについて
概要をお知りになりたいかたは、こちら→ロシア革命

また、ロシア革命について佐藤先生は、
アメリカ人ジョン・リードの書いたルポルタージュは最低限読むべきだ、
と仰って、そのタイトルを『世界をシンカンさせた十日間』
と、口頭で紹介をなさった。
私はシンカンという言葉が最初、何なのかわからず、
下宿に帰って辞書を引いてこれが『震撼』であることをつきとめ、
世界を震撼・・・世界を震撼・・・、と大学図書館でさんざん探し、
挙げ句の果てに正式な邦題は『世界を揺るがした十日間』だと知った、
という出来事もあった。佐藤先生のお陰で日本語の語彙までひとつ増えた(爆)。

だがそれは、私なりの次元で、向学心に燃えていた日々でもあった。
私は、今までの自分に全く接点の無かった、この「ソビエト演劇」が、
次第次第に、当初の予想よりずっと面白くなり始めていた。
そういう、なにか高尚そうな分野にハマった自分、というものに
酔いしれていた面があったのも確かだが、とにもかくにも、
凝り性の私は、やがて季節が初夏に近づく頃には、
日ソ学院(当時)に申し込んでロシア語初級講座を受講することになり、
併せて、在日ソ連大使館広報部(当時)に問い合わせ、
グラフ誌『今日のソ連邦』を定期購読するようになった
(この雑誌には、当時まだ日本では無名だったブーニンが、
ロン=ティボー音楽コンクールで優勝した、などという記事が、
写真入りで載っていたりしたものだった)。

そしていよいよ前期が終わりにさしかかった、ある日。
佐藤先生は、この講義の前期課題として、
レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の来日公演を観ること、
と我々受講生に対して申し渡された。
これは素晴らしい、最高の舞台芸術だから、何をおいても観るように、
ということで、チケットも佐藤先生が手配して下さり、
我々は、なおいっそう、猫にコンバンワ状態だったが、とにかく、
先生が全身全霊を捧げるようにして研究していらっしゃる、
ホンモノのロシア演劇が観られる、ということで、
わけもわからず興奮した。

場所は、国立劇場。私の選んだ演目は『ワーニャ伯父さん』。
私「国立劇場、ってどこにあんの?」
N子「知らんけど、劇場に電話したら、わかるやろと思う」
私「そうか。そうやね」
N子「Nちゃんが調べとくわ。わかったら、あとで電話したげる」
私「ありがとう!」

東京に出てきて数ヶ月、まだ、東京の地下鉄には
一度も乗ったことがなかった頃だった。
私は、小平の奥のほうで下宿と大学だけを往復する生活で、
せいぜい、吉祥寺くらいまでしか出たことがなかったのだ。

結局、N子ちゃんが調べてくれたルートを頼りに、
ぴあmapを携帯して、私は9月のある夜、初めての国立劇場に向かった。
出かける前に、N子ちゃんからの電話に出ようとして、
下宿のドアに右足を思い切りぶつけてキュウとうずくまる事件があり、、
足の小指が内出血してヨタヨタしながらの、国立劇場観劇だった。

(続)

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レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の、
83年の初来日と、88年の再来日とを私は観ているのだが、
演目として二度とも含まれていた、トルストイの『ある馬の物語』は、
私が観たすべての舞台芸術の中でも文句なしの最高峰だった。

という話について、いつかは書いておきたいとずっと思いながら、
私にとっての、この舞台の意義があまりにも大きすぎて、
なかなかカタチにできないでいる。

だが先日、その『ある馬の物語』の訳者でいらっしゃる桜井郁子氏の、
わが愛のロシア演劇』を、書店で偶然に見かけて買ったことで、
なんとか、自分の観たものを、たとえ断片だけでもいいから、
ここに記録しておきたいという気持ちに、改めて、なった。

さて、どこから書こう。と悩みつつ、とりあえず、写真だけUP。

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