転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



今夜、主人は帰宅して夕食が終わった途端に、
電話で職場から呼び出され、
「んもうっ(--#)」
と言いながら服を着直して出て行き、
さきほど、ようやく本当に帰ってきた。

一風呂あびて出てきた主人に柿をむいて出し、
私は台所を片づけて、コーヒーを淹れにかかったが、
私自身は主人の最初の帰宅前に夕食を済ませていたので、
それから既に5時間近く経って、
なんとなく小腹が空いて来たのを感じていた。

私「なんか、食べたいな~」
夫「・・・・・・」
私「この前の法要のお供えだった、蜜饅頭、食べよっかな~」
夫「やめんさいや!」

主人は、とたんに眉をあげて言った。
言語道断だ、と言わんばかりの口調だった。

夫「夜に甘いもの食うたら、太るよ!!」

そう言ってる主人は、まさにそのとき、
柿を平らげたあとだというのに、さらにアイスクリームの
パ○ップ『赤ぶどう&白ぶどう』を食べ始めたところだった。

開いた口が、ふさがらなかった(--#)。

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一度には語りきれないので、まずは私の、
ロシア演劇との出会いの話から書いてみたいと思う。

ことの起こりは大学1年のときだった。
必修科目以外は、自分で便覧を見て受講科目を決める形式だったので、
私は、最初は実に軽い気持ちで『ソビエト演劇』を取った。
西欧と違い、ソ連は、日本人にとってメジャーな国とは言い難かったので、
かえって面白そうだと思って選んだのは間違いなかったが、
実のところ、当時の私にとっては、ソ連と言えば、
ブレジネフとかグロムイコ、クレムリンとかマトリョーシカ(爆)。
そして、パルナス、パルナス、モスクワの味♪(爆×2)。
・・・そんな程度だった。

担当の佐藤恭子先生は、東京外語ロシア科ご出身で、
モスクワのルナチャールスキー演劇大学を卒業なさった方で、
漆黒のボブヘアに濃い眼鏡、薔薇色のマニキュアにスカラベの指輪、
そして常に黒を基調とした装い、という大変に洗練されて美しい方だった。
しかも佐藤先生の、低い、まろやかな声は素晴らしかった。
さすがにソビエト仕込みの演劇人は、発声の基礎からして違ったのだ。

さて、私は履修届を出すときに友人がいるかどうかは考えていなかったが、
このクラスには、行ってみたら、偶然、あのN子ちゃんが、いた。
フランス語に引き続き、こんなところでも出会ってしまったのだ。
ほかに1年生の知り合いは見当たらなかったし、
我々は当然のように協力しあうことになった。

確か、あれはスタニスラフスキー・システムがどのように
確立されて行ったか、の話題のときだったと思うのだが、
佐藤先生が、その社会的背景の概要を説明なさったことがあった。

私「今、先生が四月ナントカって仰ったのは、何?」
N子「レーニンの演説みたいやね」
私「四月、・・・なに?」
N子「四月ていぜ、って聞こえた」
私「ていぜ、って何?」
N子「わからん(^_^;)」

テーゼもアンチテーゼも知らなかった私たちであった(爆)。

(1917年4月の、レーニンによる四月テーゼについて
概要をお知りになりたいかたは、こちら→ロシア革命

また、ロシア革命について佐藤先生は、
アメリカ人ジョン・リードの書いたルポルタージュは最低限読むべきだ、
と仰って、そのタイトルを『世界をシンカンさせた十日間』
と、口頭で紹介をなさった。
私はシンカンという言葉が最初、何なのかわからず、
下宿に帰って辞書を引いてこれが『震撼』であることをつきとめ、
世界を震撼・・・世界を震撼・・・、と大学図書館でさんざん探し、
挙げ句の果てに正式な邦題は『世界を揺るがした十日間』だと知った、
という出来事もあった。佐藤先生のお陰で日本語の語彙までひとつ増えた(爆)。

だがそれは、私なりの次元で、向学心に燃えていた日々でもあった。
私は、今までの自分に全く接点の無かった、この「ソビエト演劇」が、
次第次第に、当初の予想よりずっと面白くなり始めていた。
そういう、なにか高尚そうな分野にハマった自分、というものに
酔いしれていた面があったのも確かだが、とにもかくにも、
凝り性の私は、やがて季節が初夏に近づく頃には、
日ソ学院(当時)に申し込んでロシア語初級講座を受講することになり、
併せて、在日ソ連大使館広報部(当時)に問い合わせ、
グラフ誌『今日のソ連邦』を定期購読するようになった
(この雑誌には、当時まだ日本では無名だったブーニンが、
ロン=ティボー音楽コンクールで優勝した、などという記事が、
写真入りで載っていたりしたものだった)。

そしていよいよ前期が終わりにさしかかった、ある日。
佐藤先生は、この講義の前期課題として、
レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の来日公演を観ること、
と我々受講生に対して申し渡された。
これは素晴らしい、最高の舞台芸術だから、何をおいても観るように、
ということで、チケットも佐藤先生が手配して下さり、
我々は、なおいっそう、猫にコンバンワ状態だったが、とにかく、
先生が全身全霊を捧げるようにして研究していらっしゃる、
ホンモノのロシア演劇が観られる、ということで、
わけもわからず興奮した。

場所は、国立劇場。私の選んだ演目は『ワーニャ伯父さん』。
私「国立劇場、ってどこにあんの?」
N子「知らんけど、劇場に電話したら、わかるやろと思う」
私「そうか。そうやね」
N子「Nちゃんが調べとくわ。わかったら、あとで電話したげる」
私「ありがとう!」

東京に出てきて数ヶ月、まだ、東京の地下鉄には
一度も乗ったことがなかった頃だった。
私は、小平の奥のほうで下宿と大学だけを往復する生活で、
せいぜい、吉祥寺くらいまでしか出たことがなかったのだ。

結局、N子ちゃんが調べてくれたルートを頼りに、
ぴあmapを携帯して、私は9月のある夜、初めての国立劇場に向かった。
出かける前に、N子ちゃんからの電話に出ようとして、
下宿のドアに右足を思い切りぶつけてキュウとうずくまる事件があり、、
足の小指が内出血してヨタヨタしながらの、国立劇場観劇だった。

(続)

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レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の、
83年の初来日と、88年の再来日とを私は観ているのだが、
演目として二度とも含まれていた、トルストイの『ある馬の物語』は、
私が観たすべての舞台芸術の中でも文句なしの最高峰だった。

という話について、いつかは書いておきたいとずっと思いながら、
私にとっての、この舞台の意義があまりにも大きすぎて、
なかなかカタチにできないでいる。

だが先日、その『ある馬の物語』の訳者でいらっしゃる桜井郁子氏の、
わが愛のロシア演劇』を、書店で偶然に見かけて買ったことで、
なんとか、自分の観たものを、たとえ断片だけでもいいから、
ここに記録しておきたいという気持ちに、改めて、なった。

さて、どこから書こう。と悩みつつ、とりあえず、写真だけUP。

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