転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



履修不足:10県65校、生徒数は1万2000人に(毎日新聞)

『富山県立高岡南高校で発覚した履修単位不足問題で、新たに青森、岩手、山形、福島、石川、福井、愛媛、広島、栃木の各県の公私立高校でも必修科目を履修せず同様の単位不足になっていることが分かった。単位不足はこれで10県65校、生徒数は約1万2000人に上った。中には、履修を装った報告書を教育委員会に提出する「架空履修」もあった。各県教委や学校は単位不足の3年生が卒業できなくなるおそれもあるとして、3年生への補習授業を検討するなど対応に追われ、文部科学省も全国調査を行う』

なんで今さら、これが話題になるのか、私は不思議だ。
だって、私が高校生だった頃から、こういうことはもう、
あちこちで見聞きしたことがあったからだ。
いや、だから何も問題がない、などと言うのではなくて、
ニュースになるタイミングに関して、純粋に疑問に思っているのだ。
本当に、今まで誰もこの実態を知らなかったとは、到底思われない。
今になって急に話題にし始めたことのほうに、何か意味があるのか、
と勘ぐりたくなるくらいだ。

私が高校生だった頃、・・・と言うとつまり四半世紀前だが、
私の学校では、三年生になって初めて文理選択が決まるまでは、
社会は地理B(高1)・世界史(高2~3)・倫理社会(高2)、
日本史(高3)・政治経済(高3)(「現代社会」の無かった頃だ)、
と進路に関係なく全員が履修させられたし、
理科だって生物Ⅰ(高1)・地学Ⅰ(高1)、物理Ⅰ(高2)・化学Ⅰ(高2)
と、これまた文理関係なく、もちろん進学だろうが就職だろうが
進路希望には全く配慮なしに、全員が等しく履修させられた。
文系でも、理科のどれかひとつは高3になってⅡが必修だった。
お陰で、受験科目だけから言えば、私などは、
英語・現代国語・日本史、以外のすべての科目は必要ないもので、
単に、学校のカリキュラムに「つきあっているだけ」という気分だった。
授業はちゃんとあったのに、よく内職してました。ごめんなさい(逃)。

だが、他校の知人や、あるいは大学進学後に知り合った他県の友人は、
「地理なんてやったことがない」
「地学?共通一次で取る人がいないから、そんな科目、学校で無かった」
「文系は物理の授業なんてないでしょ」
等々と、実にテキトーな人がとてもたくさんいた。
物理が十段階評価の「3」だったり、
化学で学年ビリになったりした経験を持つ私にとっては、
あの苦しみは、もしかして必要のないものだったのか?
と考えると羨ましい限りだった。

だから私は、世の中、そんなもんかとずっと思っていた。
私立には、「英会話」とか「宗教」、場合によっては「仏語」などの
私には全然、経験のない珍しい科目がいろいろとあるようだし、
公立高校だって文理選択が二年生からという学校もあるようだから、
どの科目をやってどれをやらないということは、かなり自由なんだろう、
と自分なりに勝手に解釈していたのだ。

だが、このごろのニュースを見ていると、
どうも、ああいうのは、イケナイことだったのではないかと思われる。
地理がなかった・物理なんて知らない等々と
ヘーキで言っていた彼らは大丈夫だったのだろうか。
この話を突き詰めていくと、実は高校を卒業したことになっていない、
という大人が、今の日本には物凄くたくさんいるのではないか、
と、このところの連日のニュースを見ていて、思った(^_^;)。
それとも、私が高校生だった時代の学習指導要領は今とは全く異なり、
必修科目はずっと少なく、あるいは選択の幅が広く、
それが近年になって急激に厳密なものになった、ということなのか?

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ポゴレリチblogのほうに、22日のヴァージニア州ジョージ・メイソン大学での
演奏会の批評記事を凄い勢いで和訳してUPした。
早いことに意義がある、という感じで、訳の内容はザツだ。
・・・・すみません<m(__)m>。
書いたのはワシントン・ポストの音楽評論家であるティム・ペイジで
(私にとってペイジといえばジミー・ペイジに決まってるが)、
テッテー的な酷評をして下さっていた。

Yahoo!のポゴレリチGroupのほうでは、メンバー諸氏により、
このような批評をされるポゴレリチの現状が嘆かわしいという意見と、
ペイジ評などを鵜呑みにするわけにはいかないという意見との、
両方が書かれていた。
また、楽器の演奏ができない批評家に何がわかるか、という否定論と、
実績のある批評家なのだから彼の言うことは傾聴すべきだ、
という反論も、それぞれ投稿されていた。
中には、ペイジ評を読んで、自分は予定していた演奏会に行くのを
もうやめようかと思う、という投げやりな(^_^;)カキコまであった。

これらの点について、私は少々、言いたいことが、あるのだが(^^ゞ。
よく、ポゴレリチ本人も、演奏家でない・専門家でない批評家に、
あれこれとわかったふうなことを言って貰いたくない、
などと発言しているようなのだが、
私は、そういう考え方はいかがなものか、と常々思っている。

自分は一切、楽器の演奏ができなくても、
この世には、他人のしていることを見たり聞いたりして、
そのことについて、解説したり分析したり意見を書いたりして、
それにより、人々に何かを投げかけることのできる人種がいるのだ。
演奏することではなく、喋ったり書いたりすることのほうのプロ、
それが批評家だと私は思っている。
勿論、批評するためには、楽器を聴く耳を持っていることは重要だし、
更に、感覚だけでは駄目で、専門的な知識も前提とされるけれども、
現実に楽器の演奏そのものは、できなくても構わないと思う。

「自分が弾けないくせに、俺の演奏に関して、つべこべ言うな」
というのは、演奏家の陥りやすい「考え違い」だと私は思う。
演奏家は確かに、楽器を弾くことについては専門家であるし、
他人の演奏についても専門性の高い見地から分析できるだろう。
しかし、一旦、演奏家となってしまった以上は、
純粋に「聴く側」だけに身を置くことは難しいだろうし、
また自分の聴いたものを評論という形態にして提供することに関しては、
彼らは必ずしもプロではない。
演奏家以上に、・・・もしかしたら演奏家本人が気づかなかったことさえも、
指摘し分析し、一般の読者にそれを問いかけることこそが、
プロの批評家の仕事であり存在意義だと私は思っている。

ろくに楽器を弾けない者がステージにあがるのは認めない、
というのは当然だが、批評という独立した分野のプロが書くものを、
「楽器ができないくせに」で否定するのは、違うだろうと私は思う。
批評家の多くは、確かに『弾き手』としてはプロではない。
しかし彼らは『聴き手』としてのプロなのだ。


ということで、私は、ピアノを弾けない評論家が、
ポゴレリチのピアノをケナしていても、全然問題はないと思っている。
だからと言って、彼らの言うことや書いたものが全部妥当で、
一般読者はそれをすべて受け入れて従うべきだ、とは考えていない。
お金を払って聴くのは、我々ひとりひとりなのだから、
実際に自分の耳で聞いていないものについては、
自分の感想や判断など、あり得ようはずもない。
批評がひどかったから、自分では聞きに行かずに、ただ落胆している、
というのは愚の骨頂だと私なら思う。

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