ポゴレリチblogのほうに、22日のヴァージニア州ジョージ・メイソン大学での
演奏会の批評記事を凄い勢いで和訳してUPした。
早いことに意義がある、という感じで、訳の内容はザツだ。
・・・・すみません<m(__)m>。
書いたのはワシントン・ポストの音楽評論家であるティム・ペイジで
(私にとってペイジといえばジミー・ペイジに決まってるが)、
テッテー的な酷評をして下さっていた。
Yahoo!のポゴレリチGroupのほうでは、メンバー諸氏により、
このような批評をされるポゴレリチの現状が嘆かわしいという意見と、
ペイジ評などを鵜呑みにするわけにはいかないという意見との、
両方が書かれていた。
また、楽器の演奏ができない批評家に何がわかるか、という否定論と、
実績のある批評家なのだから彼の言うことは傾聴すべきだ、
という反論も、それぞれ投稿されていた。
中には、ペイジ評を読んで、自分は予定していた演奏会に行くのを
もうやめようかと思う、という投げやりな(^_^;)カキコまであった。
これらの点について、私は少々、言いたいことが、あるのだが(^^ゞ。
よく、ポゴレリチ本人も、演奏家でない・専門家でない批評家に、
あれこれとわかったふうなことを言って貰いたくない、
などと発言しているようなのだが、
私は、そういう考え方はいかがなものか、と常々思っている。
自分は一切、楽器の演奏ができなくても、
この世には、他人のしていることを見たり聞いたりして、
そのことについて、解説したり分析したり意見を書いたりして、
それにより、人々に何かを投げかけることのできる人種がいるのだ。
演奏することではなく、喋ったり書いたりすることのほうのプロ、
それが批評家だと私は思っている。
勿論、批評するためには、楽器を聴く耳を持っていることは重要だし、
更に、感覚だけでは駄目で、専門的な知識も前提とされるけれども、
現実に楽器の演奏そのものは、できなくても構わないと思う。
「自分が弾けないくせに、俺の演奏に関して、つべこべ言うな」
というのは、演奏家の陥りやすい「考え違い」だと私は思う。
演奏家は確かに、楽器を弾くことについては専門家であるし、
他人の演奏についても専門性の高い見地から分析できるだろう。
しかし、一旦、演奏家となってしまった以上は、
純粋に「聴く側」だけに身を置くことは難しいだろうし、
また自分の聴いたものを評論という形態にして提供することに関しては、
彼らは必ずしもプロではない。
演奏家以上に、・・・もしかしたら演奏家本人が気づかなかったことさえも、
指摘し分析し、一般の読者にそれを問いかけることこそが、
プロの批評家の仕事であり存在意義だと私は思っている。
ろくに楽器を弾けない者がステージにあがるのは認めない、
というのは当然だが、批評という独立した分野のプロが書くものを、
「楽器ができないくせに」で否定するのは、違うだろうと私は思う。
批評家の多くは、確かに『弾き手』としてはプロではない。
しかし彼らは『聴き手』としてのプロなのだ。
ということで、私は、ピアノを弾けない評論家が、
ポゴレリチのピアノをケナしていても、全然問題はないと思っている。
だからと言って、彼らの言うことや書いたものが全部妥当で、
一般読者はそれをすべて受け入れて従うべきだ、とは考えていない。
お金を払って聴くのは、我々ひとりひとりなのだから、
実際に自分の耳で聞いていないものについては、
自分の感想や判断など、あり得ようはずもない。
批評がひどかったから、自分では聞きに行かずに、ただ落胆している、
というのは愚の骨頂だと私なら思う。
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