83年9月の、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場初来日で、
一番の人気を呼んだ演目は、桜井郁子氏によれば『ある馬の物語』だったそうだが、
私がこれを最初に観たのは、84年の確か3月頃、NHKの録画によってだった。
それがあまりにも素晴らしくて、私は芝居を観て打ちのめされるという
初めての経験をしてしまい、それからはこの作品と役者達の虜になった。
だから、88年に彼らが再来日したときには、もう矢も盾もたまらず、
東京グローブ座まで、この作品を見に行ったのだった。
原作はレフ・トルストイの短編小説だが、決して有名ではなく、
日本人でこの原作を読んだことのある人のほうが少数だろうと思う。
ロシア文学の知識など無いに等しかった私は、
こんな作品があったことすら、当時は全く知らなかった。
脚色はM.ロゾーフスキイ、演出はG.トフストノーゴフで、
ホルストメールを演じたE.レーベジェフは、
80年代には既に、60歳代後半にさしかかっていたベテラン俳優だった
(この人は『ワーニャ伯父さん』のほうでは、
ワーニャの妹の夫で俗物の、セレブリャーコフ教授を演じていた)。
馬を演じる俳優たちの衣装は、古びた薄い色のズボンと上衣、
それに馬勒(ばろく)をイメージさせる革製のバンドを、
額や上半身につけていた。
そして、彼らは片手に、馬の尻尾を表す毛束を持っていて、
これを始終振り上げたり、下肢に打ち付けたりすることで、
馬の雰囲気を演出すると同時に、感情表現もしていた。
全体は二幕構成で、まずジプシーの楽団による短い序曲から始まった。
最初の場では、舞台脇に粗末な身なりの馬丁が居眠りをしていて、
中央に馬群と、老いたホルストメールがいた。
物語は、この年寄りの、まだらの去勢馬が、自分の若き日を振り返り、
ほかの馬たちに話して聞かせるかたちで進行するのだが、
馬群の動きはしばしば郡舞になり、ホルストメールの独白には
彼らのコーラスが呼応し、楽団員の楽器のソロがそれに交じった。
レーベジェフ自身、オペラ歌手のような良い声で語り、歌った。
一幕目で語られるのは、ホルストメールの誕生から、子供時代、
初恋の不幸な結末、公爵との出会い、公爵家での晴れがましい生活、
二幕目では、競馬での優勝から、一転して公爵家での生活の破綻、
以降、各地を点々として最後にもといた将軍家に戻り、そこで死ぬまで、
それらが、息をもつかせぬほどの展開で一気に演じられた。
レーベジェフの演技は圧巻だった。
馬を表現する言い方として我々は、しばしば、「目が優しい」
ということを言うけれども、レーベジェフのホルストメールは、
まさにそのような、おとなしく優しい目をしていた。
ホルストメールは馬であったがゆえに、
常に運命を受容する生き方しか知らなかった。
目を掛けてくれた公爵には精一杯の愛情を持って応え、
彼を踏みにじった仲間の馬たちに抗議することもなく、
自分を害する人間たちに対してさえ、恨むという発想が全くなかった。
何を所有する欲望も持たず、去勢馬だったために肉欲とも無縁で、
病んだときも、人間なら自殺を考えるような状況下におかれたときも、
期待もせず絶望もせず、彼は、ただ、淡々と生きた。
このホルストメールと、彼の飼い主となったセルプホフスコーイ公爵
(演じたのはO.バシラシヴィリ。『ワーニャ伯父さん』の主演者)以外は、
ほぼ全員が複数の役柄を演じる構成になっていて、
そのすべてに、演出者の綿密な計算が貫かれていた。
例えば、ホルストメールの初恋の雌馬ビャゾプーリハを演じる女優が、
公爵の愛人マチエの役をも演じることになっていたし、
ホルストメールからそのビャゾプーリハを奪った白馬のミールイ役と、
公爵からマチエを寝取った情夫役は、やはり同じ俳優によって演じられた。
そのことによって、ホルストメールと公爵の、それぞれの生涯が、
一対の、パラレルなものであり、互いを映す鏡のようなものであることが
非常に明確に表現されていたわけだ。
これがどんな舞台だったかについて、どう描写するのが適切なのか、
私はここまで書いた今でも、正直言ってわからない。
それほどに、多重構造の、巨大で濃密な舞台だったと思う。
セットそのものは簡素で、役者のパントマイムが主体だった。
ほとんどの役者は変幻自在に馬の役も人間の役もやり、
更に歌も踊りも組み込まれていた。
また、音楽は、舞台上にジプシーの楽団員に扮した音楽家たちがいて、
話の登場人物としてもBGMとしても、全編、生演奏のかたちで参加していた。
それらのすべてが、実に見事に融合し調和を保っていて、
舞台は「ストレート・プレイ」とか「ミュージカル」とかいう分類とは、
完全な異次元にあったと思う。
(続)
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