転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



痛む足をひきずりながら、着いた国立劇場は、
山出しのワタクシの目にはあまりにもきらびやかに映った。
桜井郁子氏の『わが愛のロシア演劇』によると、この公演は、
空席の目立つものだった、ということだが、
そのようなことは全く私の記憶には残っていない。
劇場のすべてが華やかで圧倒的で、
そこで上演された上質の演劇に19歳の私はただただ打たれた。

当時のチラシを今でも私は持っているのだが、
初来日でレニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場が持ってきた演目は、
『ある馬の物語』『検察官』『ワーニャ伯父さん』『小市民』の四つで、
出演者それぞれが何役もこなし、日替わりでこれらが上演される、
本国でのレパートリーシステムさながらの公演内容だった。
ソ連では、一定のレパートリーの中から、毎日違う演目が上演されて、
俳優たちは、自分の出演するものについては、
きょう、どの演目をやると言われても即座に務められる状態で、
常に複数の役を日々同時進行で研究しているのだ、
ということを、私は既に、佐藤先生の講義で習って聴いていた。

このとき学生で貧乏だった私は『ワーニャ伯父さん』だけを観た。
正確には、これを選んだというよりは、むしろ、
二度も三度も見る経済的な余裕がなかったことに加えて、
日程の関係か何か、差し支えがあって、他の日が駄目で、
選択の余地もなく見ることになった演目だった。
チェーホフなんてそれまでマトモに読んだことなどなかったし、
大学の課題でなかったら、選んでまでは観なかっただろう、
と思われる、細やかな心理描写がハイライトとなる芝居だった。

が、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場は、
これを私に、最後まで見せてしまったのだった。
イヤホンの同時通訳という悪条件下だったにも関わらず
(さすがチェーホフなので、日ソ学院でちょっと習ったくらいでは、
ほとんど一言も聞き取れませんでした・爆)、
私は、ワーニャやアーストロフ、ソーニャの語る絶望と、
そこからの出発、矛盾、そして運命の受容、みたいなものを、
あまりにも辛気くさいテーマであるにも関わらず、
とうとう、信じられないことにおしまいまで聞かされてしまった。

ワーニャが(アーストロフだったかな?・殴)、
『冬が来る』という台詞を言ったときに、
私は深いところで何かに打たれたような衝撃を感じた。
単に季節が秋から冬になるという意味ではなくて、
ロシアの農村の冬は一年の半分を閉ざすほど長く、命を脅かす厳しさで、
それに耐えることは心身ともに多大な忍耐を要求されるということや、
これまでの五十年近いワーニャの人生はほとんど無駄なことに費やされ、
以後の彼の余生は長い長い冬に向かうほかないのだ、ということなどが、
『冬』の一言から一瞬で連想させられた。

それは友人のアーストロフも、ワーニャの姪のソーニャも同様だった。
客観的に見たら、彼らには絶望しかなかった。
今で言う「リセットする」方法を探し求めていたのに、
そんなものはどこにもないことが、最後にわかっただけだったのだ。
皆、なんの希望も持てなくても、死ぬことさえも許されず、
その長い『冬』を、命の果てる日まで、生き通して行くしかない、
というのが結末だった。なんという現実直視!なんという不条理!

幕が降りたとき、客席がどういう反応だったか、私は覚えていない。
恐らく大歓声の中でカーテンコールが繰り返されたのではないかと思うが、
私はそんなことより、かつて一度も経験したことのない感覚のほうに、
すっかり捕らわれてしまっていた。
私はゾっとするような、とてつもない深淵を覗いてしまった気がした。
台詞を聴く、ということの奥深さと重さを、初めて体感した一夜だった。
ああ、とんでもないものを観てしまった!こんな世界があったのか!
と私は頭に血がのぼったような気分のまま、
その夜遅くまでかかって、慣れぬ電車をいくつも乗り継いで、
ほとんど立ち通しで、武蔵野の奥の、小平の下宿まで帰った。

だが、その夜の衝撃はこれだけでは終わらなかった。
自分の部屋に帰り着いて、どうも痛いと思ってよく見たら、
私の右足小指が、赤紫色に腫れ上がっていた(爆)。

(続)

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