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元町の夕暮れ ~万年筆店店主のブログ~

Pen and message.店主吉宗史博の日常のこと。思ったことなど。

気分転換

2016-07-17 | 実生活

ダメな時に、ダメな頭で考えても良いアイデアは浮かばない。空調工事による臨時休業はとても良いタイミングで、いい気分転換になりました。

前日、カメラを忘れて帰路についてしまい、垂水駅で降りてすぐに上り電車に乗って引き返して店まで戻るというアクシデントがありましたが、珍しく連休していました。

目的地はどこでもよかった。

車で普段は走らないところをのんびりと走ることができて、その土地について考えることができたら、一番の気分転換になると思っていて、今までずっとそうしてきました。

今回は出石で蕎麦を食べて、城崎でしか売っていない限定本を買いに行きました。

ドライブに目的地はあった方がいいけれど、あまりそれは重要ではないことも分かっていて、蕎麦と本は2時間半のドライブに充分な理由でした。

姫路から播但自動車道を北上して出石、城崎のある豊岡市に向かいました。

平坦な地形が少しずつ起伏が出始め、谷がだんだん深くなっていきます。缶コーヒーのコマーシャルでも有名な竹田城が自動車道からも見えました。

ドリームカムトゥルーの3枚組のベストアルバムが聴き終えることができるほど城崎は遠かったけれど、懐かしい曲を聴きながら、それぞれの年代のことを思い出していました。

前に城崎を訪れた時、息子は小さく仲居さんに女の子と間違われたりしていましたが、今では大学4年生になってしまった。

私も仕事においての立場が全く変わった。当時、今の自分を全く想像することができなかったけれど、ただもがきながら良くしようとしていたあの頃の気持ちを思い出しました。

大変な蒸し暑さで、休んでばかりだったけれど、シーズンオフの温泉街を歩き回ってきました。

兵庫県も瀬戸内海側は賑やかに人が集まっているけれど、北上すると家も減り、潰れた商店が目立つようになります。

新しい道ができて人の流れから外れてしまったり、旅行のしかたが変わり町自体に人が来なくなってしまったり。時間の流れはいつまでも変わらずに在りたいという人の営みを有無を言わさずに立ち行かなくさせてしまう。

時代の変化は、時間の流れがゆっくりだと思いがちなこういう田舎から変えていくということを、思わずにはいられませんでした。

私たちは都会という、多少守られた場所にいるからやっていくことができているのではないかと思いました。

空調工事で店内はとても快適になりました。

何か目に見えるリニューアルではないけれど、何とかしないといけないと思っていたことがひとつ片付き、少しだけ店が進化しました。


コピ・ルアクの味わい

2016-07-10 | 実生活

本当に久しぶりにル・ボナーさんを訪ねました。

毎年恒例になっているオリジナルダイアリーカバーの素材選びと、ル・ボナー松本さんの意向を伺うといった訪問です。

行くと奥様のハミさんも待っていて下さって、ハミさんの元気なお顔も見ることができました。

ル・ボナーさんを訪ねたのも久し振りだったけれど、どこかを商談で訪ねること自体久し振りで、店にじっと閉じこもっていたことに気付きました。

開店するまでも、してからも松本さんにいろいろ面倒を見てもらいました。店が始まってからもずっと、ル・ボナーさんという前を走る目標があって、その背中を追い続けてきました。

何かあった時に、松本さんならどうするか、どう考えるかというふうに考えてきたけれど、その背中は大きくなるどころか、まだまだ小さくしか見えず、これからも追い続けていくのだろうと思っています。

届いたばかりだというかなり貴重で高価なコーヒー豆コピ・ルアクを松本さんが挽いて、淹れてくれて初めて飲みました。

知ったような口をきくと、全ての味が控えめで、注意を向けないと感じることができない、でも感じようとするとバランスのとれた上品な味に思え、良いものとは何かが突出してインパクトがあるのではなく、全てのバランスがとれていてジワジワと良さが伝わってくるものだということをコピ・ルアクの味で思い出しました。

同じショッピングセンター内で、開島当初からあるのはル・ボナーさんだけになってしまい、空き手店舗もあるという六甲アイランドの静かな夜。

松本さんも、この昼間とはうって変わって寂しくなる夜の風景を不安な気持ちで見ることはあるのだろうか。

当店のある元町西口の夜も静かだけど、六甲アイランドはもっと人通りが少なく、イルミネーションだけがキラキラと輝いていました。


自立する

2016-07-05 | 実生活

世界の情勢が変わろうとしていることは、ニュースで報じられる様々な動きから感じることができます。

それらは何か明確な目標や向かう方向があって、変わろうとしているというよりも、今までやってきたことへの徒労感がそうさせているのではないかと勝手に思っています。

店にずっと居る仕事で他所に出掛けることが少ないこともあり、世間で起こっていることに関心を持っていたいと最近特に思うようになりました。

 

自分が日本国民として知っておかなければならないことを教えてくれる人の一人である青山繁晴氏の「壊れた地球儀の直し方」という本が新書になりましたので読みました。

自分に関係ないから知らなくてもいいと思うのは、本当に愚かなことだ。世の中で何が起こっているのかを知って、自分の国が、自分の身の回りがどのように変わって、自分はどうするのかを考えておかなければいけない。

安全だと思っている日本にも脅威は常にあるし、それは自分の身の回りも同様だと思っています。

自分の暮らしは自分で守らなければいけないという意識が多くの日本人には薄く、それが外交にも表れてしまっている。

この本を読んでいくうちに、中東で何が起こっていて、なぜ今のような状態になったのか知っておかなければならないと、ネットで引っ張ってノートにまとめただけですが知ることができました。

西側世界とイスラム世界の宗教的な戦いだと思っていましたが、それは欧米の欲とその支配から逃れようとする中東諸国の戦いがひたすら繰り返されたものだったと、恥ずかしながら今頃知りました。

そして今は欧米が利用したはずの反政府テロ組織が暴走して、誰にも止められない状態になっている。

争いをコーディネートしてそれを治めて世界の警察と自称していた国も、国民の多くはその役から降りてくれと思い始めている。

混乱し、疲れ果てている世界の中で日本はどんな役回りをすることができるか、自分は日常の中でどんなことを心掛けなければならないのかを考えさせてくれる本だった思いました。

 


書くための道具

2016-07-03 | 実生活

文章を書く仕事ではないけれど、仕事と書くことを結び付けて書くことを仕事の一部にしています。

私が書かないと店の仕事は成り立たないし、少数だとはいえ私が書いたものを読んで共感してくれる方もおられて、大変有り難いことだと励まされています。

どんなに下手だと言われても、私は書くことを止めないと思うし、それは話していることと同じようなものだと思っています。

話す時、言ってしまってからでは取り返しがつかないので、なるべく考えてから話したいと思っていますが、私にとって話すために考える時間は短すぎる。

将棋の対局のように十分考えてから次の言葉を発したい。

望むのであれば相手にも十分考える時間を与えてもいい。その間私はその次の何を言おうか考えておこうと思います。

腹を割って話すとか、思っていることを何でも話すというのは仕事においては良いのかもしれないけれど、日常生活においてはそれが良いのか、悪いのか分からない。

私の場合、言わなくてよかったと思うことはあっても、言ってよかったと思うことはあまりありませんでしたので、発言こそ慎重にしたいと思います。そして自然と口は重くなります。

話す言葉と違って書くことは考えてから発言できますので、私にはものすごく有り難い。

書くことでよく考えているのは、下書きをノートにしようか、手帳に書こうか、あるいは原稿用紙にして保存しておこうかなどということです。

しかし本当はどれを使おうが大した違いではなく、道具によって書けるものが変わるわけではない。それについて考えるのが楽しいのと、書くことがより楽しくなるだけだということも分かっています。

文章を書く時に、何に書こうかと考えている時と、どういうものを書こうかと頭の中で考えている時が一番楽しい。

時間の経過、空間の移動を忘れるくらい没頭できたら一番楽しいけれど、そこまで集中力が高まることはそうそうあることではありません。


日常の風景

2016-06-26 | 実生活

毎日の通勤途上の風景や近所の何でもない道を撮って写真にできる人が本当に写真の上手い人だと思います。

私も毎日見ている何でもない風景を写真にしたいと思って、はじめの頃カメラを提げて通勤していたけれど、そういう写真は撮れなかった。

写真を撮るためにどこかに出掛けて行かないとシャッターを押すことができないのは未熟だからだけど、いつかそういう写真を撮りたいと思っています。

「珈琲挽き」(小沼丹著)という随筆集を読みました。

このブログなど、自分で書いているものは随筆と呼べる代物ではないけれど、良い随筆を読むことは勉強になるし、随筆を読むこと自体が好きだからなるべく読みたいと思っています。

タイトルに惹かれて読み始めたけれど、「珈琲挽き」は80数篇収められている中のひとつで、全編コーヒーの話というわけではありません

毎日の作者の家の庭での四季の移ろい、学校時代の先生の思い出など、誰にでもある話を静かで少しユーモラスな文体で、短い随筆にまとめられていて、読んでいて気付いたら2篇、3篇と読み進んでいる。

非日常的な貴重な体験をエッセイにまとめたものはよくあって、すごいなとは思いますが、著者と一緒にその風景を味わうような感覚を持つことはできません。

誰もすごいなという体験を書くよりも、本当に普通の、誰にでもある日常を読みやすく面白く書くことの方が難しいのではないかと思います。

私もこのブログで、何でもない日常をおもしろく書くことができるようになれたらといつも思っているけれど、まだまだ修行が足りないようです。


峠越えの入り口

2016-06-21 | 実生活

ブルーの小さな車がウチの車。2人で乗るには十分で大変気に入っている。

 

 

現代になっても、昔からのその土地の雰囲気というのは変わらないのではないかとよく思います。

例えば、今はどちらも神戸市ですが、須磨一の谷から東は摂津の国、西は播磨の国というように昔は違う国でしたが、その名残は今も感じます。

須磨まではそれより東の京阪神の雰囲気がありますが、塩屋から西は岡山、広島などの山陽地方と共通するものを感じます。

昔の国割りが地形に沿った部分が大きかったからその名残を今も感じるのか分からないけれど、そういった昔の国、道の雰囲気はいたるところに残っています。

街道沿いにあって、峠越えの最後の宿場町だったようなところは独特の雰囲気を持っています。

神戸なら有馬街道の平野や三木街道の板宿、宝塚にもそんな雰囲気があります。

開けた平地が終わって、そこから山と山の間を通る寂し気な峠道に入っていく最後の宿場町。

先日美山町に行った時に通った川西市にもそんな雰囲気が感じられる場所がありました。

開けていた地形から少しずつ山が迫ってきて、谷川沿いの道になっていく。

車で走るとこれからどんなふうに風景が変わっていくのかとワクワクするけれど、昔の人はきっと決死の想いで、覚悟を持ってその道に入っていったのではないかと想像します。

交通網が発達して、人の住む場所がどんどん大きくなって、町が大きくなっていっても何か感じることができる土地の雰囲気。

それを感じることが旅の大きな楽しみだと思っています。

 

 


丹波路

2016-06-19 | 実生活

書道教室が休みの休日、妻を助手席に乗せて、園部の生身天満宮へ息子の教員採用試験の合格祈願に行き、足を伸ばして美山町に行きました。

美山町のかやぶき屋根の集落を何かの写真で見たことがあって、行ってみたいと思っていました。

地図で見ると非常に遠いように思えましたが、新しいトンネルがいくつもできていて、思ったより早く、川西から1時間半、家から2時間半ほどで着きました。あの山深さなら、兵庫県内の道なら、これの1.5倍くらいはかかったかもしれません。

かやぶき集落は、由良川沿いを走る府道を曲がると突然姿を現し、まるで映画のセットのようでそこにあるのが不思議な感じがしましたが、それだけ現代の建物と違っているということなのだと思います。

離れて見ると、この田舎の中であっても現代の風景から浮いた存在に見えましたが、集落内を歩くと日本人のDNAに書き込まれている情報からか、懐かしい心の中にある原風景に思えます。

集落内を写真を撮りながら歩きました。
それはのんびりした気分になれる、とても楽しい時間で、写真を撮り歩くことが、自分は本当に好きなのだと思います。上手くはならないけれど、レンズやカメラのおかげできれいに撮れたとか、あのレンズがあればもっと良く撮れるのにと言っていられるレベルに居るのが一番楽しい取り組み方なのだと思います。

私だけ写真を撮るのだと何となく、落ち着いて撮れないけれど、妻も自分なりの写真を撮って楽しんでくれているので、気兼ねなく遊んでいられる。

自分の日常から遠く離れたこういった風景の中を車を走らせていると、いつも心がざわつくような、悲しみに近い感情になります。

こういうところで生計を立てて暮らしている人達がいるということに、ここでの暮らしについて思いを馳せたりして、こういう田舎に住む人の我慢強さ、粘り強さのようなものに胸を打たれます。

たまに廃屋があったり、つぶれてしまったレストランが荒れるに任せて放置されているのを見ると、ここで自分の仕事について夢を見て、それが破れてしまった人の想いについて考えます。

はじめはお客さんが来てくれたかもしれないけれど、客足が遠のいていく店の中で店主はどのような気持ちでいたのだろうか。
小さい店にとって景気は関係ないと思っているけれど、不景気はこういう所から蝕んでいくのだと思います。

私はきっと何を見ても、自分の都合で日常と重ね合わせて想像してしまい、自分の肩に乗っている責任の重さをいつも感じているのだと思います。

でも、日常の見慣れた風景の中にいるよりも、日頃全く目にすることのない景色を見て、こういうことを考える時間が私には必要で、この時間があるから自分の仕事についていろいろ考えることができるし、これが私なりのリフレッシュの仕方なのだと分かっています。

ほとんど下道ですが、気持ち良く走ることができる道がずっと続いていて、久し振りにドライブもすることができました。

 


書き続ける話

2016-06-05 | 実生活

たまに居合わせた数人のお客様方を巻き込んで面白い話になって、議論することがあり、これが店での仕事の醍醐味だと思っています。

昨日はどうしたら継続して手帳に書くことができるのかという話をしました。

手帳やノートにモノを書くことが日常的な行為で、お風呂に入ったり、顔を洗ったりすることと同じようなものになっている私にとって、書かない日はきっとないと思うけれど、世の中には書こうと思わないと継続して手帳を書き続けられない人もいて、その人たちは手帳を書いている人が一体何を書いているのか不思議だと言う。

若い頃は手帳を書かなくても仕事としては同じで、何か書くことが楽しくて、手帳を書くことが自分の趣味だからと思っていましたが、最近は仕事と手帳を書くということは切り離せないものになっていて、自分が書いた手帳を元に仕事をしているようなところがあります。

学校の頃はあまりしなかったけれど、翌日の予習をしておくと次の日物事が円滑に運び、漏れや忘れが少なくなります。

もちろんその方がいいに決まっているけれど、想定外にお客様が多く来られてできなかった作業は明日に持ち越すというToDoの管理と何時に何があった、取引先と何を決めたというドキュメントを私は手帳に書いている。

私は手帳に一切感情を書かないけれど、そういうことも日記風に書いている人もいて、それぞれなのだと思います。

忙しい店、職場などはお客様が販売員を動かしてくれて、その流れで動いていれば仕事したことになるけれど、受動的に動くだけではなく、1日1つでも自分主体で動くことを作るために役に立つのが手帳だと思います。

そしてそれがはじめはわずかかもしれないけれど、長い年月を経ると他の人と大きな差になっているのかもしれないと思います。


お習字

2016-05-29 | 実生活

週1回書道教室に通っています。お稽古は10時~11時半くらいで今は太筆のお習字をしている。

宿題では万年筆で書くペン習字の課題が出ていて、少し前から小筆の課題も出るようになっているし、最近では篆刻の勉強も勧められていて、1週間なかなか忙しく、暇さえあれば、暇がなくても筆を握っている。

下手なりに一生懸命書いていると時間はあっと言う間に経っていて、自分がこれほど書道に(私のレベルではお習字)打ち込めるとは思っていなかった。

当然道具にはこだわっていて、一緒に習いに行っている妻とともに理想を追い求めているのが筆です。

特に外れが多い小筆は、良いものに出会いたいと思っていて、それほど高級なものを買う度胸はなかなか持てないけれど、ちょっと高いボトルインクくらいの値段で買うことができるので出掛けて筆が売っていると何か見つけて買いたくなります。

理想の筆は、適度な硬さがあってコントロールしやすく、自分の運筆したい方向に追従してくるしなやかさもあって、毛先が常に整っているものだと今は思っています。

習い始めた時から使っている太筆が羊毛で、柔らかかったため、コントロールしやすいように半分くらいしかおろしていなかった。最初は凧糸で縛っていました。

最近特にそうだけど、先がきれいに揃わなくなって大変書きにくいと思っていて、根元までおろしていないからそうなることに思い当たりました。

確かに上の方までおろすようにすると毛先が揃い出して、急に書きやすくなりました。

それでも8割くらいしかおろせていませんでしたので、全部おろしたいと思って「やめとき」と言う妻の忠告も聞かず、お稽古中に墨を馴染ませながら筆を墨でギュウギュウと押していると「ボキッ」と柄が折れて、毛の部分が外れてしまいました。

その日のお稽古は折れた柄に毛先をねじ込んで筆圧をなるべくかけないように書いてしのぎました。なかなか想定外のことでしたが、筆には可哀想なことをしたと反省しています。

先日は通勤途中、篆刻のデザインについてメモ帳にあれやこれやと書きながら考えていて、目の前に止まったはずの電車に気づかなかった。しばらくしてそういえば電車まだかなと時計を見たら時間が経っていて、後から考えると目の前を通ったものがあったような気がするということがありました。

始めたばかりで、こうやってブログで言うのも恥ずかしいくらいのレベルだけど、楽しんで打ち込める趣味ができた。そしてそれは仕事にも無関係ではないものだと思っています。

 


値段によるモノの違い

2016-05-15 | 実生活

しばらく靴を買っていなかったので、そろそろ買いたくなってきた。

さすがに革靴なら何でも興味があって、一足でも多く欲しいという段階は過ぎ去って、本当に気に入ったものを7足揃えてローテーションで履きたいと思っている。

本当に気に入ったもの、今一番欲しいと思っているものを時間がかかってもいいから、靴資金を貯めて買いたい。
たくさんのものが欲しいわけではないので、時間がかかってもいい。

革靴だったら何にでも興味があった時は、安くて良いものがあるのではないかと思って、いろいろ本を見たりしていました。

でもある程度分かってくると安くて良いものなどないということが分かってきます。

靴の場合は値段によって製法も違ってくるので、それが外観にも履き心地にも影響を及ぼします。

モノには値段による違いというものが厳然と存在していて、高くなればまた違う世界を見せてくれるものだと思っています。

自分が買える範囲のものばかり集めていても見える世界は変わらない。靴について語りたければ、血のにじむような努力をしてお金を貯めて上の世界を知らなければならない。

血のにじむようなというのは、言い過ぎだけど一瞬の欲に流されずに目標としたものが買えるまで私はカスミを食って生きていたいと思っている。

服が代表的だけど、昔では考えられないくらい安い値段でモノが買えるようになりました。安いものは努力なしにたくさん買うことができ、揃えることができる。

しかし、それで買えるのモノは同じ用途で同じ形だけど何か違う。

でもそれを助長したのは皮肉にも真逆の立場にあるブランドたちではないかと思っている。

イメージを吊り上げることでモノの価値よりも高い値段をつけることと、あらゆるコストダウンをして考えられないくらい安い値段でモノを作ることは、厳然と存在していた値段によるモノの違いを狂わせたという意味では同じだと思っている。


価格破壊の反動は来ていると思っていて、安い値段で売られている、ものすごくたくさん同じものが存在するモノや、品質の割にものすごく高いモノはかなり苦戦しているような気がします。

価格と品質のバランスを無視しては商売は続けられない。今はきっと安い値段でも隣の人と服はカブってほしくないし、イメージを上げることは値段を上げるツールではなく維持するツールなのだと思います。

靴が欲しいと思っている話から、かなり脱線してしまったけれど。