元町の夕暮れ ~万年筆店店主のブログ~

Pen and message.店主吉宗史博の日常のこと。思ったことなど。

40年前

2024-02-06 | 実生活

世間は狭いとよく思います。
当店によく来て下さるお母様と息子さんがおられます。
もう何年も前から存じ上げているけれど、お母様とたまたま出身地の話になって、大阪のはずれの方の出身だと言われてもしかして と思ったら、私と同じ高槻の出身でした。

もっと聞いたら、同級生で、しかも幼稚園が同じで、隣の校区の小学校に通っていたとのことでした。
高槻にそのままいたら私は十中に行くことになっていたけれど、その方は十中に行かれた。

そんな話をして大いに盛り上がって、世間は狭いですねと言い合いました。

小学校6年生の終わりまで過ごした懐かしい団地の街の話をしたりしたので、43年前の記憶と気持ちを一気に思い出しました。

小学生は子供なのかもしれないけれど、感受性は大人よりも強いかもしれない。
当時の私は感傷的でロマンチストなところがあって、1年前からすでに引っ越すことが決まっていたので、これから起こることや、この街のこと、そして親友や大好きで仲良くしていた女の子のことを全て覚えておきたいし、後悔のないようにしたいと思って1年間過ごしました。
そう思って過ごした1年間は、毎日が特別な本当に素晴らしい時間だったと思います。

ひとつひとつのことは覚えていないけれど、その時の気持ちはよく覚えています。

何もかも終わってしまったと思って神戸に引っ越してきて、しばらくは高槻にいる友達や女の子のことが恋しくて引きずっていた。
皆があの後どうなったか何も分からないし、知る術もない。

先日、同じ幼稚園で同級生の方が桜台幼稚園と十中の卒業アルバムを持って来て下さった。

幼稚園の時、私は病弱でよく休む子供だった。影の薄い、ぼんやりした写真があった。
でも他の子の写真を見て、覚えている子が多いのに自分でも驚きました。
その後同じ桜台小学校に行った子も多く、6年の間に何らかの交流があったからなのだと思います。

十中の卒業アルバムは、自分が卒業した学校でもないのに、懐かしいアルバムを見るように、いくらでも見ていられました。
皆が小学校を卒業した後どうなったか気になっていたけれど、そのアルバムで3年後はどんな子になっていたか見ることができました。
男の子はその年頃らしい意地の張り方で、暗い顔で写真に写っている子も多かったけれど、皆キャラクターは変わっていなかった。
仲良くしていた子は笑顔いっぱいで写っていて嬉しかった。

ただそこに自分が写っていないけれど、知っている子ばかりで懐かしい自分の卒業アルバムを見るようでした。

もうこれも40年前になるのかと思うと、自分が生きてきた年月に気が遠くなるけれど、あっという間だった。
大切なものをお持ち下さって見せて下さった同級生の方にお礼申し上げます。

 


伊集院静氏の訃報

2023-11-26 | 実生活

私が恵まれていると思うのは先生と呼べる人が何人もいて、その人たちのアドバイスをヒントに今までやってくることができたことです。

でも自分も齢をとるのと同じように先生方も齢をとっていって、昨年生き方の師としていた狂言師の安東伸元先生が亡くなってしまった。
とても先生に追いつけないけれど、その背中を追って生きてきた私は追うべき背中を見失ってしまった。

でも先生の言葉は私の中で生きていて、自分を見失わない指針になっているような気がする。

伊集院静氏の言葉は、親戚のおじさんが目を真っ直ぐに見て偉ぶらずに優しく話してくれる言葉のように素直に聞ける気がした。
カッコつけずに、飾らない言葉で語られる言葉は人の心に届くのだと実感した。

伊集院氏を知ってから、それまで夢中になって読んでいた生き方を語る人たちの言葉が薄っぺらいものに感じられて読まなくなった。
その代わり伊集院氏の本を新刊が出たら無条件に買うようになりました。

伊集院氏のようにダンディズムを持って美しく生きたいと思う人が増えたら、日本はとてもいい国になれるだろう。
私もなかなか上手くいかないけれど、伊集院氏のように生きたいと思いました。
伊集院氏の言葉の根底にあるものは、他者への優しさだと思っています。
何か道ならぬことをした人にも何か事情があったのだと酌む心の広さのようなものがあった。
今の時代はそういう人を寄ってたかって攻撃して、自分の正しさをアピールしたい人が多いけれど、そんなことをしても仕方ない。
それよりも皆が攻撃する人の事情を理解してあげて、思いやってあげる優しさを示す姿を親は子に見せるべきだと思う。

大衆心理とは逆のことを言っていた人だけど、多くの人の心を掴んで共感された。
かっこつけない言葉と優しさ。私たちの世代はまた先生と呼べる人を失ってしまった。


優勝パレード

2023-11-24 | 実生活

阪神とオリックスの優勝パレードが神戸と大阪であってニュースで観た人も多いと思います。

新しいビルが建ち並び整った御堂筋の景色に対して、神戸の建物はどれも古く不揃いな感じで、震災から、あるいは80年代からその景色は変わっていないように見えます。

だから良いとか悪いというわけではなく、懐かしい想いにさせる風景が神戸にはあってホッとすることもあります。
でもたまに大阪に出て行くと、街はきれいになっていて、焦りのようなものを感じないわけでもない。
それが神戸の人の今の感覚だと思います。

話をパレードに戻すと阪神が前に日本一になったのは38年前で、選手で日本一を経験していた岡田監督は悲願だっただろう。

Fさんは新卒で会社に入った年で、結局定年まで日本一にならなかったと言っていました。
私は高校2年生で、その夏長野の母の実家のレタス畑のアルバイトをしていました。
信濃毎日新聞のスポーツ欄で阪神の神がかり的な強さを確認するのが楽しみでした。
今自分がこうしていることは想像できなかった。

38年というのはあまりにも長くて、それぞれの人生が詰まった時間でもあります。

 


民藝展

2023-09-16 | 実生活

 

若い頃に柳宗悦氏の本を何冊も読んで、モノの良さを伝える言葉の力を知りました。

民藝というと今は何か土産物のような陳腐なイメージのある言葉になっているけれど、そのイメージが間違っている。
日本古来からその土地に根付いたモノ作りで、その土地ならではの素材を使った丹念な職人仕事によって生み出されたモノです。

その中でも用の美を持ったものを柳宗悦氏をはじめとする民藝運動の提唱者たちが見出して、後世に伝えようとしたことは日本の工芸において大きな役割を果たしたと言われています。

今モノについて書くことを柱にした仕事のやり方をしているのも、柳宗悦氏の文章を読んだからだ言うと申し訳ないけれど、私もその影響を受けている。

中之島美術館で民藝展をしていると教えてもらったので休日に妻と行ってきました。

こういう仕事をしているのでモノの在り方についてよく考えます。
良いモノというものにはいろんな在り方があって、作家さんが自己表現のために作るアートに近いものもあり、これは作品と言うのかもしれません。

それに対して民藝展で紹介されているものの多くは、無名の職人が農閑期の仕事として時間と手間をかけて作った暮しの道具であり、そこに作家の自己主張は存在しない。あるのは丹念な仕事によって生み出されたしっかりとしたモノです。

柳宗悦たちはそれを用の美と言い、美を意識せずに作られた職人仕事のモノたちに美を見出したのでした。
丹念な仕事によるモノのしっかりとした美しさは、仕事の正確さ、手間を惜しまない仕事の細やかさによって結果的に見えるものなのでしょう。

それはもしかしたらモノ作りに携わる日本人の良心のようなものが生み出すのかもしれません。
作り出すものは違っても、そういう仕事をする職人さんは現代にも確かにいる。

私たちはそういう仕事ができる人たちのモノを見出して、お客様に紹介する責任があるのではないか。
そのためには本物の用の美を見出す目を養っておかないといけないと、気持ちが引き締まる思いで民藝展を観てきました。


金沢旅行

2023-05-13 | 実生活


サンダーバードの車窓から見える白山。5月中旬の金沢市内からでも雪を頂いた山が見られました。

今回能登でとても大きな地震があり、金沢は被災地に近いということで申し訳ない気持ちを抱きながら行ってきました。
私たちがいる間にも地震があって、断続的に揺れていました。
被災された方の生活が一日でも早く日常を取り戻すことを願っています。

 

金沢は何年かに一度は訪れるお気に入りの街です。
大阪から特急で2時間半という距離もちょうどよく、旅に来た気分を大いに味わえます。
いろんなお店があるのに、都会すぎないところも気に入っています。ゆっくりしたいと思った時に訪ねたくなる街です。

外国人の観光客も多いし、修学旅行の学生もたくさんいて、街中が賑わっていました。皆さんが幸せそうにしているのを見ると嬉しくなります。

金沢の楽しみは街歩きだと思っています。
目星を付けた面白そうなお店やカフェを巡って、妻と散歩するように歩き回ってきました。

前に来たのは5年前の同じくらいの時期でした。
3回目になるので、あまり定番の観光地には行きませんでしたが、国立工芸館はぜひ行きたいと思い訪ねました。
私のような仕事をしている者にとって、良いモノを見るということは何よりの勉強になりますし、楽しいことなのです。

金沢に来た時に毎回訪ねるお店がいくつかあって、新竪町商店街の一番奥にある「benlly’s and Job」さんもそのうちのひとつです。
店主さんの美意識に合ったモノをいろいろと揃えた雑貨店で、それらが実用的で、適度にパリッとしていなくて、私の好みに合っていました。

今回訪れるとそのお店が様変わりしていました。
仕入れた雑貨中心の品揃えから、その店の工房で作られた革製品の店になっていました。
聞いてみると昨年春頃からその形態で営業を始めたそうで、ずっとこういうふうにしてみたかったとのことでした。

その話を聞いて小さな店を営むことについて少し考えました。
作り手さんが作った仕入商品は他所のお店にも並ぶ可能性があって、自分の店だけに置いているものではありません。
以前は仕入商品であっても、こだわりを持って置いていればそれなりに売れていました。
しかし、ある時から店での販売とネット販売の比率が逆転しました。
ネットではもともと当店にしかないものしか売れませんので、ネット販売の比率が上がるということは、よりオリジナルのものが求められるということになります。
当店も作家さんが作ったものではあるけれど、オリジナル仕様のものだったり、メーカー品だけどペン先調整を施すことで万年筆を買ってもらっていて、それらが売り上げの大半を占めています。
きっとこの傾向はさらに強くなっていき、地方の小さなお店は先鋭化していくのだと思います。

お店というのはある程度流行のものを追いかけないといけないこともあります。しかし、経験を積んで年齢を重ねるうちにこだわりが強くなって、流行を追うことがしんどくなってくるのではないかとも思います。
店をやっている者は世に問いたい自分の美意識と、実際に売れるモノとのバランスを取って店を成り立たせているところがあります。
流行と自分のやりたいことがどんどん離れていくことに危機感を持つこともあるかもしれません。

28年間雑貨屋さんとしてやってきて、業態を変えることはとても勇気のいることだと思うけれど、その気持ちはよく分かりました。
いろいろな想いがあったと思いますが、やりたいと思ったことを思い切って始めた店主さんの決断に賛同しました。
店の仕事が何年続こうとも、自分がいくつになろうとも夢を持ち続けて、守りながらも攻める心を忘れないようにしたいと思いました。

 


名古屋行き

2023-03-20 | 実生活

 

ペン先調整の機械は同じような仕事をする人が少ないこともあって、既製品はなく、使っている人それぞれがオリジナルの仕様のものをそれぞれ違う人に作ってもらっています。

私が使っている機械は名古屋の機械製作会社さんが作って下さったもので、ペンランドカフェさんのところにあるものの兄弟機とも言えるものです。

2015年頃、新たに調整機を作りたいと思っていたところに、ペンランドカフェさんがオリジナル仕様のペン先調整機を作られたと聞いて、当時ペンランドカフェさんの社長だった高木さんに調整機を作ってくれる会社を紹介してほしいとお願いしました。

ライバル店とも言える当店からの申し出に関わらず高木社長は快く応じて下さって、ペンランドカフェさんで機械製作会社の尾崎さんに会わせて下さいました。
高木社長にお願いした私も厚かましいような気がしますが、何かそういうことも受け容れてくれるような人間の大きさを高木社長に感じていて、何のためらいもなくお願いしていました。

名古屋を訪ねた私を高木社長は歓迎してくれて、大須の街を案内してくれたり、奥様も同席して下さってお昼をごちそうになりました。

間もなく機械が出来上がってきて、それから7年間本当に酷使してきました。
砥石やアタッチメントを換えていろいろなものを試したり、一番良い使い勝手を模索しながら使ってきて、これが最も使いやすいやり方だと決まったのは、使い始めて数年経っていました。愛用を超えて、自分の一部になったと言うと、大袈裟かもしれないけれど、自分の仕事のシンボルのような存在になっています。

大切にしているわりにただ酷使するだけで、KURE5-56も吹いていないと言うと笑われましたがそれくらい私は機械音痴で機械の面倒を見て下さる方の存在は本当に有難い。
メンテナンス、オーバーホールに数時間かかるということで、尾頭橋駅から電車に乗って名古屋駅周辺をブラブラしている妻と合流しました。

名古屋駅は多くの人が行き交っていて、大阪駅よりも人が多いのではないかと思いました。
大阪駅周辺と違って、全ての鉄道が名古屋駅に集中しているからかもしれませんが、コロナ禍から街が立ち直っている様子を見ると明るい気分になります。

少しブラブラした後、お客様に教えていただいた鈴波という味噌漬けの魚を焼いて出してくれる店で夕飯にしました。
きっと地元では有名なお店で、早めに行ったにも関わらずすぐに満席になっていました。
たしかにびっくりするくらい美味しくて、二人大満足で店を出ました。

工場に戻るとメンテナンスはできていました。尾崎さんにお礼を言って名古屋を後にしました。
気持ちの良い人たちばかりを知っているからだし、当店のお客様も名古屋の方が多く、名古屋にとても良い印象を持っています。
神戸から新幹線で1時間ほどで行ける距離なので、行こうと思えばすぐにでも行けるのに今まで名古屋に遊びに行くことがなかった。
いつかまたゆっくりとこの街を訪ねてみたいと思っています。


司馬遼太郎記念館

2023-02-04 | 実生活

休日を月2回週休2日にして、今まで行こうと思っていて行っていなかったところにも行ってみたいと思っています。
先日は東大阪市にある司馬遼太郎記念館に行ってきました。

大阪や奈良には行くけれど東大阪には行くことはなかったので、初めて降りる駅で降りて、知らない街を歩くことができて、それほど遠くではないけれど小旅行を楽しんできました。

東野圭吾もそれなりに読んでいるけれど、司馬遼太郎は最もたくさんの作品を読んだ作家です。
時代小説ですが、藤沢周平のような繊細な心を描いたり、風景を細かく描写するのではなく、ザックリで大味なところが私の好みに合っているといつも思います。

これはきっと好みの問題なのだと思いますが、あまり繊細過ぎるものはどうしても合いません。私も大雑把な関西人なのだと思う。

東大阪はわりとコテコテの下町のイメージを持っていましたが、司馬遼太郎記念館は落ち着いた住宅街の中にありました。

元々司馬遼太郎の自宅で、記念館の横には自宅もそのまま残されていました。

1階の角にある書斎だけが外から見ることができるようになっています。司馬遼太郎が楽しくも苦しい仕事の大半をこの書斎でしていたのかと思うと、思い入れを持って見続けずにはいられない。しばらくその場に立ち続けて見ていました。
半ば寝そべるようにして椅子に座って楽な姿勢で執筆していたという椅子と机、本の詰まった本棚。

自宅の横に建てられた安藤建築の資料館に書斎に遺されていたモノが展示されていて、万年筆や文房具も見ることができます。

これは私の勝手な想像ですが、司馬遼太郎はあまりモノを置いておく人ではなかったのではないかと思います。
本になってしまえば、下書きや草稿ノートなども処分してしまったり、筆記具もこだわって愛用していたものはあまりなかったのではないか。

そんなこだわりのなさが小説からも、記念館の展示品からも伝わってきましたが、本当はどうか知りません。

駅の帰り道、何でもない大阪平野の中によくある町並みの中を歩きながら、生前司馬遼太郎は散歩に出かけて、この辺りも歩いたのではないかと想像しました。

真っ白い髪の司馬遼太郎はきっと目立ったと思います。
すれ違う人たちが「先生」と声を掛けたかどうか分からないけれど、町の人たちはすぐに彼に気付いただろう。

私たちが行ったのは本当に寒い日でしたが、記念館の中、庭中、近所中に菜の花がたくさん植えられて咲いていました。


休みの取り方

2023-01-17 | 実生活

今年から定休日の水曜日の他に第1、第3木曜日を休むことにしました。私が月2回週休2日になったというだけで店は水曜日以外開店しています。
私の留守中のペン先調整などは森脇が応対させていただきます。

個人事業主として、休みをとらずに仕事することは当然だと思っていました。でも、それではプライベートな用事が立ち行かないし、家族と出掛けることもできない生活になってしまうので、定休日の水曜日だけを休みにして15年やってきました。

でも休みが週1日だけだと、例えば歯医者や散髪に行ったり、車を洗ったりしたら、それに休みの時間の半分がとられてしまって後はどこにも出掛けられなくなります。1日だけの休みだと行ける範囲も限られているので、同じところばかりに出掛けることになる。

もっと行きたいところもあるし、水曜日定休日のお店で行ってみたいところもあります。本も読みたいし、書き物もしたいと思い、第1、第3の木曜日も休むことにしました。

今までも絶対に休んでくれるなと誰かに言われていたわけではなく、自己満足で1日だけの休みで通してきただけなのでこれでいいのだ。

それにいつまでも私が店の中央に居座っていては森脇の出る幕がない。彼にチャンスを与えるためにも私が不在の日をもっと作りたいとも思いました。

大変恵まれた幸せなことで、病気にも罹らず、気持ちが切れることなく今までやってくることができました。丈夫な体と単純な頭に生んでくれた親に感謝しています。定年のない仕事で、生涯現役でいないといけないので、これからも長く歩き続ける役にも立てたいとも思っています。

私がいなくても店が普通に回る。もしくはもっと良くなっていくことが理想です。
私にご用事のある方は、第1、第3木曜日を外していただきたいと思います。


連休

2022-12-04 | 実生活

いくら好きでやっている仕事でも、連休を取らずにいると、何か行き詰っているようなマンネリ化しているような感覚になっていましたし、気持ちも疲れ始めて、弱くなっていたような気がしました。
少し仕事から離れる必要のあった、いいタイミングだったと思います。

昨年は1カ月早かったけれど、同じ頃に連休をしていました。
連休真ん中に店に泥棒が入って大騒ぎになりましたが、あれから1年経った。
あの日から店の防犯を強固なものにして、休みの日でも少し安心していられるようになりました。

休みのうち3日間は鎌倉に行っていました。
横浜の高校で歴史の教師をしている息子と合流して、定番の鶴岡八幡宮の他に鎌倉幕府が最初に開かれた大倉幕府跡や源頼朝の墓などを巡り、歴史について考えながら歩きました。

5日の休み中4日は15000歩以上歩くことができて、普段運動ができていないので嬉しかった。
若い時は、自分の歩く歩数なんて考えもしなかったけれど、今は結構気になります。

観光地の中のお土産物屋さんを見るだけでも勉強になることはたくさんあって、自分の仕事についていろいろ考えることもできましたので、仕事においても有意義な連休でした。

息子がどんなところで新婚生活を送っているのか、前から気になっていましたので、最終日新幹線に乗る前に妻と二人で仲町台まで行ってみました。
駅を降りてせせらぎ公園を通って、息子とお嫁さんが通勤していると思われる道を歩いてみました。
観光では絶対に来ないようなところですが、知らない街を歩くのは楽しい。
近所の住宅街でも行ったことのない所を歩くのは何か発見があったり、自宅の近くにいることを忘れてしまいそうになって面白い。今回は近くにいるような感覚になりました。

きっと日本中に似たような住宅街があるのだろう。同じころにできた街はどこも似ているのかもしれません。
しかし、さすがに横浜で、住宅街でも垂水に比べると人通りが多かった。

息子たちが住む家を見て引き返してきましたが、こういうところに住んでいるのかと見ることができて満足して帰ってきました。
実際に見たので、これからは明確なイメージを持って、息子たちの暮らしについて想うことができる。それだけでもとても有意義だったと思います。
元気で、前向きに生きてくれていたらと、いつもどうしても気にしてしまうし、夫婦の会話は息子のことが多くなります。きっとこれが親心で、
子供がいくつになっても、そのように思うのだと思います。


先生の椅子

2022-10-10 | 実生活

私がいつも座っている椅子は、2年前に狂言師の安東伸元先生が形見分けにと下さったもので、形見分けなど早すぎるけれど先生が愛用されていたものとのことで有難くいただきました。
イギリスのアンティークで無垢の木を使った重厚なもので、実用本位のデザインです。

安東先生が10月2日に亡くなられました。
「これでお終わりにします」と宣言された翌日に逝かれた。最期まで自分でコントロールして、潔く逝ってしまった。どこまでも立派な人でした。

普段ボンヤリと暮らしている私も先生が頑張っていると思うと少しはシャキッとすることができて、私には精神的な柱のような人でした。
物静かで言葉数は多い方ではなかったけれど、その言葉ひとつひとつが教えられることばかりでした。尊大なところが全くないのに存在感のある人で、本物というのは先生のような人のことを言うのだと思います。
本物は自分を大きく見せようとしないし、いつも他者への優しさを持っている人だと安東先生を見て知りました。
それを知ると、声の大きな虚勢を張る人は本物ではないのだと分かりました。

何度も公演を観させていただいているけれど狂言のことはあまりよく分からないし、先生の舞台での技術的なことは分からないけれど、圧倒的な存在感の凄みは私にも分かった。

安東先生とは当店が2周年くらいの時に、暮らしの手帖を見て奥様と来て下さったのが始まりでした。

それから公演を観に行かせていただいたり、毎年忘年会の末席に参加させていただいたりして、先生の姿を目に焼き付けて帰ってきました。先生を生き方のお手本にして、先生のように生きたいと思いました。
とても遠く及びませんが安東先生と出会ったことで少しはマシな人間になれたとは思っていて、もし出会っていなかったらどうしようもない人間のままだった。

安東先生は能楽の家に生まれて、そこにいれば能楽師として国から護られた安泰な生活を送れるはずでしたが、国家権力に護られた床の間の飾り物のような古典伝統芸能のあり方が信条に合わず、独自の狂言団体を立ち上げました。
国から保護されない在野での活動は生きるために自分で稼がなければならなかったけれど、それが先生の性に合っていたのだと思います。

私も天邪鬼な性格で損得よりも自分の信条を優先してしまうところがありますので、先生の行動や気持ちがすごくよく分かります。

先生の買い被りすぎですが、万年筆店という儲けにならなそうな、誰も選ばなそうな仕事をしている私とご自分の姿を重ね合わせて、いつも私に目を掛けてくれたのだと思います。
大したこともできないのにきれいな理想ばかりを追いかけている私をきっと心配してくれていて、出来の悪い息子のように思っていてくれたのかもしれません。

先生に心配を掛けていたのなら本当に申し訳なかったけれど、先生がご自身の集まりに私を引っ張り出してくれたおかげで、店に居るだけではできないようないろんな経験をすることができました。本当に感謝しています。

いつもの行き来の中で「ありがとうございました」というのはお別れの言葉のような響きがあります。死期を悟った先生が春に会いに来てくれた時も、手を握って目を見ることしかできず、何も言えなかった。

ご家族やお弟子さんたちとお骨上げまでさせてもらってお送りした時にやっと「ありがとうございました」と言えました。
安東伸元先生のご冥福をお祈りいたします。