元町の夕暮れ ~万年筆店店主のブログ~

Pen and message.店主吉宗史博の日常のこと。思ったことなど。

KBSドイツ紀行5(ハイデルベルク)

2024-05-27 | 仕事について

(KBSドイツ紀行1、4は公式ブログ「店主のペン語り」、2,3は当ブログに掲載)

2日間だけニュルンベルグを離れて、電車を乗り継いでハイデルベルクに行きました。
ハイデルベルクは松本さんがぜひ行ってみたいと言っていた町で、ホテル代を出すからという甘い言葉に乗っかってお供することにしました。

DBの電車に14年前に乗った時は谷本さんに任せっきりでしたが、今回は自分たちで電車に乗って行かないといけないので、ちゃんと下調べしていました。
2日目ミュンヘンにICE(新幹線)で行って予行練習をすることができましたので、わりと楽な気持ちで電車に乗り込むことができました。

行きはREという快速電車でシュテュッツガルトまで行き、ICEでハイデルベルグに入りました。
快速の旅も沿線の風景がゆっくり見られて、それぞれの街の雰囲気を感じることができて楽しめました。

ハイデルベルクの観光地区は駅から10分ほどバスに乗ったところにあります。
旅行ガイドを買って下調べしておいたのに情報が間違っていた上に、バスとトラムが同じ停留所から出て行くので混乱してしまいました。
わりと短気な松本さんが「もうオレが出すからタクシーで行こうよ」と言い出したのとほぼ同時に、地元に住む日本人の女性が「お困りですか?」と声を掛けてくれました。
松本さんは急に紳士っぽい態度に変わって面白かったけれど、教えられたバスに乗って教えられた停留所で降りたらすぐに旧市街の入り口の古橋アルトブリュッケがあり、そこだけでも感動的な風景でした。
今までドイツ人らしき人しか見ることがなかったけれど、ここには世界中から観光客が来ているようでした。

旧市街を突っ切ってケーブルカーに乗り、ハイデルベルク城に登って旧市街を見下ろしました。そこから見る景色もこの世のものとは思えないくらい美しかったけれど、今度は向かい側の山から旧市街とお城を見たくなりました。
ハイデルベルク大学を見て満足していた松本さんを引っ張って哲学者の道に向かいました。
途中私も疲れたけれど、松本さんに申し訳ないと思うくらいの山道を登って哲学者の道に辿り着きました。
大変な想いをして来ただけのことはあると思いました。この景色を見るために私たちはニュルンベルグから3時間以上かけて、ここに来たのだと思いました。
哲学者の道を下りきった所で売っていた冷えたレモネードの美味しかったこと!

ホテルの部屋は松本さんが取ってくれていました。レストランの最上階にあって、広いテラスもありましたし、部屋も2人ではもったいないくらい広かった。途中でイタリアンを食べに行って、美味しいけれどあまりの量の多さに食べきれなかったけれど、夕方の風で涼みながら暗くなる9時過ぎまでアイスクリーム屋さんの美味しいコーヒーを飲みながら、万年筆や旅の話をして優雅な時間を過ごしました。

次の日はとても親切できれいなラミーショップと大学グッズのショップで少し買い物をして、ニュルンベルグに帰りましたが、時間に余裕もあったし、ゆったりとしたいい旅をすることができたと思いました。
松本さん誘ってくれてありがとう。

 


KBSドイツ紀行3(ドイツの時間)

2024-05-20 | 仕事について

KBSドイツ紀行1は公式ブログ店主のペン語りで公開中。

 

昼間精力的にお店を巡ったり、会社訪問をしたり、ペンショーに行ったりしていた私たちは、だいたい夜7時頃夕食にしていました。
7時でも明るく、ドイツ人たちは夜はまだまだという感じで行動している時間です。

3人ともお酒は飲まないですが、はじめの2日間はビアホールのようなところでソーセージなどドイツらしいものを食べていました。
しかし、すぐに3人ともあっさりしたものが食べたくなって、ホテルの近くに見つけたベトナム料理店に3回も行きました。
日本であまりベトナム料理を食べる習慣がなかったけれど、やはり体に合っているような気がして、アジアの人間だなと思います。

だいたい9時頃解散してそれぞれのホテルの部屋に引き上げていきますが、次の日も7時にホテルの食堂で朝食のために集まることになっているので、寝る時間を考えるとそれほど時間があるわけではありません。
翌日もハードはスケジュールがあるので、私の場合11時に寝て5時に起きていました。シャワーを浴びたり、荷物を整理したりする以外の時間は、その日のことを手帳に書いたり、仕入れたものをレシートと照合して手帳に書いたりしていましたが、時間はあっという間に過ぎてしまいました。

ホテルの部屋は半年以上前から予約していて、私と松本さんは日本語のホテル紹介サイトから予約していましたが、谷本さんは直接英語でやり取りして予約していました。直接予約したから安かったと少し自慢げな、満足気な顔をしていましたが、直前になって谷本さんの部屋だけトイレとシャワーが共同だということが分かりました。外国でのトイレ、シャワー共同はかなり恐怖で、本人もビビッていましたが、快適に過ごせていたようでした。

レストランなどは外のテラス席から埋まっていきます。
テラス席がいっぱいでも店内はわりと空いていることが多く、中の方がいいのではと思いますが、5月のドイツの日陰は気持ち良く、テラス席に座りたがるのもよく分かりました。
冷房のついていない店も多く、中が暑いということもあるし、外の席なら喫煙してもいいということもあるのでしょう。
ドイツはタバコに大らかなところで、たばこ吸いながら歩く人を老若男女限らず見掛けました。

休日はもちろん、平日でもランチの時間になるとどこからかたくさんの人たちが出て、レストランのテラス席でおしゃべりをしながらランチを楽しんでいました。
ドイツに着いた2日目は祝日で小売店は休むことが法律で決められているためお店回りはできず、ミュンヘンに行ってみました。
観光名所に行きたかったわけではなかったので、BMW博物館に行ってみました。
皆他に行くところがないのか、BMW博物館にはたくさんの人が来ていて、大変な賑わいでした。松本さんはアルファロメオを愛車としていて有名だし、誰もBMWには乗っていないけれど、3人それぞれBMWの世界観を楽しんでいました。

BMW博物館のすぐ横がオリンピック公園でした。
ただ池と芝生があるだけの広い公園だけど、キッチンカーが何台も出ていて、たくさん置かれた椅子とテーブルはいっぱいで、皆それぞれの休日を明るい陽の下で楽しんでいて、そういう光景を見るとこちらも幸せな気分になります。

オリンピック公園にはタワーが建っていて、ミュンヘンに行くと決まった時から、私は密かに登りたいと思っていました。高所恐怖症なのに、タワーがあると登りたくなる癖があって、訪れた街のタワーには登ることにしています。
興味ないーという松本さんを引っ張ってタワーに登りました。
ミュンヘンの街も見えるし、さきほどのBMW博物館も足元に見えます。
神戸にいると信じられないけれど、山のない見渡す限り平地が続く景色はとてもスケールが大きく、腰が引けながらしばらくミュンヘンとその周辺の景色を楽しみました。

ミュンヘンではステーショナリーは何も得るものはなかったけれど、ドイツの人たちの休日を垣間見ました。家族や友人と家とは違う場所でゆっくり食事をしたり、のんびり散歩したりしていた。
お店が開いていないので、休日に買い物にいいくことはない。街にいくことはなく、こうやって郊外でのんびり過ごすことがいい季節のドイツの過ごし方なのでしょう。

 

 


KBSドイツ紀行2(乗り物編)

2024-05-19 | 仕事について

KBSドイツ紀行1は公式ブログ店主のペン語りにて公開中。

 


ヴュルツブルクのトラム

ル・ボナーの松本さんと590&Co.の谷本さんと、関空からシンガポール、フランクフルト経由でニュルンベルグに行きました。

トランジット待ちを合わせると30時間近くの道程で、気が遠くなりそうでした。
狭いエコノミークラスのシートのせいか、行きの飛行機で背中が痛くなってしまいました。何か負荷がかかるとどこか痛くなる齢になっていると思うと嫌になります。

実は飛行機の三列シートの両端を私と谷本さんで事前予約しておいて、間に松本さんに座っていただくようにしていましたが、松本さんはその席を取らずにビジネスクラスを取ってしまいましたので、往復とも空いたままで、私たちは1.5人分の席をそれぞれ確保したのでした。
それでも狭いエコノミーの長時間フライトはきつく、ドイツに行けると思うから我慢できたようなものでした。

谷本さんはそんな飛行機の中でも、「すずめの戸締り」を観て涙したり、機内食のメニューを好きなカレーに変更したりして楽しんでいる様子でした。

 


ドイツ国内線

クタクタになった朝ニュルンベルグに着いてすぐに動き始めました。
3人とも丸一日風呂に入っていない無精ひげのひどい顔で(松本さんと谷本さんはヒゲを生やしていますが)、谷本さんがチェックしていたニュルンベルグ近郊の文具店を巡りました。

ニュルンベルグの公共交通機関乗り放題切符を買って、地下鉄、バス、近郊電車などあらゆる乗り物に乗りました。

中にはその店のためにその街に行ったのに思っていたような店ではなかったり、昼休みだったりしたところもいくつかあって、無駄足だったところもありましたが、初めて訪れる街の風景を見て、この街に住む人の暮らしを想うだけでも私は楽しかった。これが旅というものだと思いました。

ニュルンベルグ近郊にも当然下町も山の手町もあって、どちらの街を見ても感慨深いものがありますが、文具的には下町の方が古いお店があって、見つけものがあるような感じでした。

今回バスに比較的多く乗りましたが、地元のバスに乗ると買い物の主婦や学校帰りの子供たち、恋人たちが乗っている様子が分かり、その街の人の日常が感じられます。
日本にいても知らない町でバスに乗ることはあまりなかったですが、地元のバスに乗る楽しみを見つけたような気がしました。
14年前にドイツに来た時はこんなにバスに乗らなかった。
考えてみると当時はスマホがなく、今のようにグーグルマップで簡単に路線を見つけることができなかった。

長距離列車にも乗りました。
2日目がドイツの祝日でお店の休業日だったため、ミュンヘンに観光に行くことにしてICE(新幹線)に乗りました。
新幹線だけあって、車両も新しいのかとても快適な旅で、1時間があっという間でした。

私と松本さんは3日後の日曜日からハイデルベルグへの長時間の列車の旅を控えていたので、前もって乗ることができてドイツの電車の作法が分かってよかった。
そのハイデルベルグ行きでは、日本で指定席を取っていましたが、取れた指定席がREという日本の快速電車しかありませんでした。
今なら指定を取らずにICEに乗って、空いた席を探すし、早く来た電車に乗ってでも行けそうな気がしますが、その時は心細かったので。
でもREも停まる駅は多いけれど、途中の街の様子や乗り降りする人の様子をうかがうことができました。
ハイデルベルグの帰り、カールスルーエから乗ったIC(特急列車)では私は結構寝てしまったけれど。

 


快適なICEでの松本さん

ミュンヘンで乗った近郊電車でオリンピック公園に向かっている時にちょっとした事件がありました。
券売機の使い方がよく分かっていなくて、普通の切符をグループ切符だと思って1枚しか買わず電車に乗りました。
目的地の1つ前の駅で突然車内の検札官が来ました。切符を見せろと言っていると谷本さんが言うので、ポケットから切符を出したら、あとの二人は?という検札官の様子で全てを察知しました。
これ1枚で3人も行けるはずがないじゃないという感じでまくし立てられ、日本語で悪態をつきながら罰金を払うことになりました。

そういうこともあったけれど、慣れた頃にあっという間に帰る日が来てしまいました。
次行ったら、勝手もいろいろ分かっていて、もっとスムーズに旅ができるような気がします。

 


40年前

2024-02-06 | 実生活

世間は狭いとよく思います。
当店によく来て下さるお母様と息子さんがおられます。
もう何年も前から存じ上げているけれど、お母様とたまたま出身地の話になって、大阪のはずれの方の出身だと言われてもしかして と思ったら、私と同じ高槻の出身でした。

もっと聞いたら、同級生で、しかも幼稚園が同じで、隣の校区の小学校に通っていたとのことでした。
高槻にそのままいたら私は十中に行くことになっていたけれど、その方は十中に行かれた。

そんな話をして大いに盛り上がって、世間は狭いですねと言い合いました。

小学校6年生の終わりまで過ごした懐かしい団地の街の話をしたりしたので、43年前の記憶と気持ちを一気に思い出しました。

小学生は子供なのかもしれないけれど、感受性は大人よりも強いかもしれない。
当時の私は感傷的でロマンチストなところがあって、1年前からすでに引っ越すことが決まっていたので、これから起こることや、この街のこと、そして親友や大好きで仲良くしていた女の子のことを全て覚えておきたいし、後悔のないようにしたいと思って1年間過ごしました。
そう思って過ごした1年間は、毎日が特別な本当に素晴らしい時間だったと思います。

ひとつひとつのことは覚えていないけれど、その時の気持ちはよく覚えています。

何もかも終わってしまったと思って神戸に引っ越してきて、しばらくは高槻にいる友達や女の子のことが恋しくて引きずっていた。
皆があの後どうなったか何も分からないし、知る術もない。

先日、同じ幼稚園で同級生の方が桜台幼稚園と十中の卒業アルバムを持って来て下さった。

幼稚園の時、私は病弱でよく休む子供だった。影の薄い、ぼんやりした写真があった。
でも他の子の写真を見て、覚えている子が多いのに自分でも驚きました。
その後同じ桜台小学校に行った子も多く、6年の間に何らかの交流があったからなのだと思います。

十中の卒業アルバムは、自分が卒業した学校でもないのに、懐かしいアルバムを見るように、いくらでも見ていられました。
皆が小学校を卒業した後どうなったか気になっていたけれど、そのアルバムで3年後はどんな子になっていたか見ることができました。
男の子はその年頃らしい意地の張り方で、暗い顔で写真に写っている子も多かったけれど、皆キャラクターは変わっていなかった。
仲良くしていた子は笑顔いっぱいで写っていて嬉しかった。

ただそこに自分が写っていないけれど、知っている子ばかりで懐かしい自分の卒業アルバムを見るようでした。

もうこれも40年前になるのかと思うと、自分が生きてきた年月に気が遠くなるけれど、あっという間だった。
大切なものをお持ち下さって見せて下さった同級生の方にお礼申し上げます。

 


伊集院静氏の訃報

2023-11-26 | 実生活

私が恵まれていると思うのは先生と呼べる人が何人もいて、その人たちのアドバイスをヒントに今までやってくることができたことです。

でも自分も齢をとるのと同じように先生方も齢をとっていって、昨年生き方の師としていた狂言師の安東伸元先生が亡くなってしまった。
とても先生に追いつけないけれど、その背中を追って生きてきた私は追うべき背中を見失ってしまった。

でも先生の言葉は私の中で生きていて、自分を見失わない指針になっているような気がする。

伊集院静氏の言葉は、親戚のおじさんが目を真っ直ぐに見て偉ぶらずに優しく話してくれる言葉のように素直に聞ける気がした。
カッコつけずに、飾らない言葉で語られる言葉は人の心に届くのだと実感した。

伊集院氏を知ってから、それまで夢中になって読んでいた生き方を語る人たちの言葉が薄っぺらいものに感じられて読まなくなった。
その代わり伊集院氏の本を新刊が出たら無条件に買うようになりました。

伊集院氏のようにダンディズムを持って美しく生きたいと思う人が増えたら、日本はとてもいい国になれるだろう。
私もなかなか上手くいかないけれど、伊集院氏のように生きたいと思いました。
伊集院氏の言葉の根底にあるものは、他者への優しさだと思っています。
何か道ならぬことをした人にも何か事情があったのだと酌む心の広さのようなものがあった。
今の時代はそういう人を寄ってたかって攻撃して、自分の正しさをアピールしたい人が多いけれど、そんなことをしても仕方ない。
それよりも皆が攻撃する人の事情を理解してあげて、思いやってあげる優しさを示す姿を親は子に見せるべきだと思う。

大衆心理とは逆のことを言っていた人だけど、多くの人の心を掴んで共感された。
かっこつけない言葉と優しさ。私たちの世代はまた先生と呼べる人を失ってしまった。


優勝パレード

2023-11-24 | 実生活

阪神とオリックスの優勝パレードが神戸と大阪であってニュースで観た人も多いと思います。

新しいビルが建ち並び整った御堂筋の景色に対して、神戸の建物はどれも古く不揃いな感じで、震災から、あるいは80年代からその景色は変わっていないように見えます。

だから良いとか悪いというわけではなく、懐かしい想いにさせる風景が神戸にはあってホッとすることもあります。
でもたまに大阪に出て行くと、街はきれいになっていて、焦りのようなものを感じないわけでもない。
それが神戸の人の今の感覚だと思います。

話をパレードに戻すと阪神が前に日本一になったのは38年前で、選手で日本一を経験していた岡田監督は悲願だっただろう。

Fさんは新卒で会社に入った年で、結局定年まで日本一にならなかったと言っていました。
私は高校2年生で、その夏長野の母の実家のレタス畑のアルバイトをしていました。
信濃毎日新聞のスポーツ欄で阪神の神がかり的な強さを確認するのが楽しみでした。
今自分がこうしていることは想像できなかった。

38年というのはあまりにも長くて、それぞれの人生が詰まった時間でもあります。

 


2007-2023

2023-09-24 | 仕事について

9月23日で当店は創業して16年が経ちました。
創業記念日の日、私と森脇は原宿で開催された趣味の文具祭に参加していて不在でした。
当店の都合よりもいつもお世話になっている趣味の文具箱が初めて開催する文具イベントを盛り上げる役に立ちたいと思った、思い切った決断でしたが、イベントも大いに盛り上がっていたので参加してよかったと思っています。
私たちが不在にしているにも関わらず、当店の開店記念日に来店して下さった方々には有難く思っています。

この16年店を続ける中で、当店らしさということを大切にしてきましたが、時代の流れみたいなものは常にあって、自分たちが許せる範囲で流されてきたと思います。
それは時代の波に乗るというものではなくて、川の中の石が激流にもまれてほんの少し動くといったものかもしれませんが、それくらい流行というものを警戒していました。
流行が怖いと思ったのは、その流れに乗りきってしまったら、その流れが変わった時に戻れなくなってしまうのではないかと思ったからです。
流行に乗って稼げるだけ稼いで、また業態を変えてちがうことをする人もいるけれど、私たちにはそんな器用なことはできない。
私たちの仕事は今良ければいいのではなくて、低空飛行でもいいからずっと継続できなければならない。
自分のできる唯一のこと、好きなことをやり続けていくことが生き残ることにつながり、継続することにつながると思っているので、なるべく流されたくないと思う。
でもそう言いながらも少しずつ時代の変化に流されていたのかもしれません。
これでいいのかどうか分かりませんが、最期までリングに立ち続けていたいと思っている。5年や10年でその仕事の結果が良かったのかは分からない。16年でも分からないと思う。

創業して16年になるということで、創業時2007年の時代の雰囲気などを思い出しながら考えてみました。
当時ブログなどで個人が自分の考えることを自由に発信できるようになっていました。
店の仕事の仕方も会社組織にいなくても個人でもできるのではないかということが一般的になってきていたように思います。
文房具は今のように華やかではなかったけれど、万年筆という文房具の中でも最も趣味性の高いものなら私たちの仕事にできると、万年筆に可能性を見出して、個人が動き始めた時代だったのではないかと思います。
その雰囲気を私は自由で開かれた明るいものだったと思っていましたが、たしかに何かが変わってきていた時代でした。

私は当時39歳でした。ある程度ステーショナリーの仕事を続けてきて、こうしたいという志のようなものも持てて、自分でやっていける自信のようなものができたから、今乗るべき自分のタイミングが来たから思い切ってやってみたと思っていました。
でもそれは自分のタイミングではなく、時代の流れだったのではないかと今は思い当ります。
野生の動物たちが、アラスカのカリブーが夏になると北に何百キロも移動するように、本能から出た行動だったのではないか。

当時当店と同じようなタイミングで創業して、今も元気にされている当店と同じような業態のお店の人たちも私と同じように時代の雰囲気を感じ続けていて、自然と行動に出ていたのではないか。

人は自分の意思で行動して、理想を追い求めて、その先に行こうとするもののように思われるけれど、やはり大きな流れのようなものに自然に流されて生きているのではないかと今は思っています。

そう考えると一人の人間の意思とか、理想などというものは大きな流れのなかではとても小さなものに思えます。
それでもいい。大きな流れに流されながらも自分の意思で少しでも流れに逆らったり、踏みとどまったりした方がやっていて面白いと思っています。


民藝展

2023-09-16 | 実生活

 

若い頃に柳宗悦氏の本を何冊も読んで、モノの良さを伝える言葉の力を知りました。

民藝というと今は何か土産物のような陳腐なイメージのある言葉になっているけれど、そのイメージが間違っている。
日本古来からその土地に根付いたモノ作りで、その土地ならではの素材を使った丹念な職人仕事によって生み出されたモノです。

その中でも用の美を持ったものを柳宗悦氏をはじめとする民藝運動の提唱者たちが見出して、後世に伝えようとしたことは日本の工芸において大きな役割を果たしたと言われています。

今モノについて書くことを柱にした仕事のやり方をしているのも、柳宗悦氏の文章を読んだからだ言うと申し訳ないけれど、私もその影響を受けている。

中之島美術館で民藝展をしていると教えてもらったので休日に妻と行ってきました。

こういう仕事をしているのでモノの在り方についてよく考えます。
良いモノというものにはいろんな在り方があって、作家さんが自己表現のために作るアートに近いものもあり、これは作品と言うのかもしれません。

それに対して民藝展で紹介されているものの多くは、無名の職人が農閑期の仕事として時間と手間をかけて作った暮しの道具であり、そこに作家の自己主張は存在しない。あるのは丹念な仕事によって生み出されたしっかりとしたモノです。

柳宗悦たちはそれを用の美と言い、美を意識せずに作られた職人仕事のモノたちに美を見出したのでした。
丹念な仕事によるモノのしっかりとした美しさは、仕事の正確さ、手間を惜しまない仕事の細やかさによって結果的に見えるものなのでしょう。

それはもしかしたらモノ作りに携わる日本人の良心のようなものが生み出すのかもしれません。
作り出すものは違っても、そういう仕事をする職人さんは現代にも確かにいる。

私たちはそういう仕事ができる人たちのモノを見出して、お客様に紹介する責任があるのではないか。
そのためには本物の用の美を見出す目を養っておかないといけないと、気持ちが引き締まる思いで民藝展を観てきました。


今あるものに満足する

2023-08-15 | 仕事について

ル・ボナーさんのデブペンケースが久し振りに入荷しました。
デブペンケースはル・ボナーさんが長く継続して作り続けてきたもので、少しずつモデルチェンジして今に至っています。
私もル・ボナーさんのことを知って、このペンケースのことを知った時にこんな上質な革を使ったファスナー式のペンケースを見たことがないと思いました。
当店としても長く扱い続けてペンケースなので思い入れはあるし、このペンケースを見るたびに以前のことを懐かしく思い出しますし、変わらず良いものを作り続ける姿勢を感じるものでもあります。

まだ前の会社にいた時にル・ボナーの松本さんに出会って、影響を受けて万年筆店を始めようと思いました。
店をしようと思うと打ち明けた時に松本さんはきっと驚いたと思うし、こんな青二才が独立して店ができるのかと、もしかしたら心配したかもしれません。当時私は30代後半で、今思うと何も分かっていなかったような気がします。

でも今までやってくることができたのは、松本さんの協力やお客様方の存在など、人に恵まれたことのおかげで、本当に幸運だった。

店を始めて16年ほど経っていろんなことが変わりました。その変化の中で何とかやってくることができた。
私はたまたまやってくることができて、その結果で言っているだけだけど、こういう変化の中で生き残ることができるのは、今自分にあるもので満足して、多くを求めないという考え方かもしれないと今では思います。

今自分にあるもので満足できるというのはとても幸せなことかもしれません。
私たちの世代だと、仕事は常に成長して拡大させていかないといけないというイメージを持っていると思いますが、それが本当に幸せになることなのだろうかと、長い間モヤモヤと考えていました。

仕事の仕方、店の在り方として自分が違うものを求めていたことは分かっていたけれど、上手く言葉で表現することができなかった。
いい齢になって厚かましくなったこともあるのかもしれないけれど、自分が求めていたことを言い表すことができるようになりました。

仕事はもちろん良くしようと思わないと面白くないし、そう思わない仕事はダメになるけれど、良くする方向は規模の拡大や売上の向上ではなく、質を高めることだったのだと今は思っています。

今自分にあるものに満足して、それらの質を高めるために努力して良くしていく。
それが自分がやりたいと思うこと、自分の仕事が長く続いていくために必要なことだったのだ。

それは低成長の時代だからそういう方針をとるというものではなく、いつの時代も私たちのような店とお客様の幸せを追求する個人商店が心掛けるべきことのような、変わらないことのような気がします。

 


金沢旅行

2023-05-13 | 実生活


サンダーバードの車窓から見える白山。5月中旬の金沢市内からでも雪を頂いた山が見られました。

今回能登でとても大きな地震があり、金沢は被災地に近いということで申し訳ない気持ちを抱きながら行ってきました。
私たちがいる間にも地震があって、断続的に揺れていました。
被災された方の生活が一日でも早く日常を取り戻すことを願っています。

 

金沢は何年かに一度は訪れるお気に入りの街です。
大阪から特急で2時間半という距離もちょうどよく、旅に来た気分を大いに味わえます。
いろんなお店があるのに、都会すぎないところも気に入っています。ゆっくりしたいと思った時に訪ねたくなる街です。

外国人の観光客も多いし、修学旅行の学生もたくさんいて、街中が賑わっていました。皆さんが幸せそうにしているのを見ると嬉しくなります。

金沢の楽しみは街歩きだと思っています。
目星を付けた面白そうなお店やカフェを巡って、妻と散歩するように歩き回ってきました。

前に来たのは5年前の同じくらいの時期でした。
3回目になるので、あまり定番の観光地には行きませんでしたが、国立工芸館はぜひ行きたいと思い訪ねました。
私のような仕事をしている者にとって、良いモノを見るということは何よりの勉強になりますし、楽しいことなのです。

金沢に来た時に毎回訪ねるお店がいくつかあって、新竪町商店街の一番奥にある「benlly’s and Job」さんもそのうちのひとつです。
店主さんの美意識に合ったモノをいろいろと揃えた雑貨店で、それらが実用的で、適度にパリッとしていなくて、私の好みに合っていました。

今回訪れるとそのお店が様変わりしていました。
仕入れた雑貨中心の品揃えから、その店の工房で作られた革製品の店になっていました。
聞いてみると昨年春頃からその形態で営業を始めたそうで、ずっとこういうふうにしてみたかったとのことでした。

その話を聞いて小さな店を営むことについて少し考えました。
作り手さんが作った仕入商品は他所のお店にも並ぶ可能性があって、自分の店だけに置いているものではありません。
以前は仕入商品であっても、こだわりを持って置いていればそれなりに売れていました。
しかし、ある時から店での販売とネット販売の比率が逆転しました。
ネットではもともと当店にしかないものしか売れませんので、ネット販売の比率が上がるということは、よりオリジナルのものが求められるということになります。
当店も作家さんが作ったものではあるけれど、オリジナル仕様のものだったり、メーカー品だけどペン先調整を施すことで万年筆を買ってもらっていて、それらが売り上げの大半を占めています。
きっとこの傾向はさらに強くなっていき、地方の小さなお店は先鋭化していくのだと思います。

お店というのはある程度流行のものを追いかけないといけないこともあります。しかし、経験を積んで年齢を重ねるうちにこだわりが強くなって、流行を追うことがしんどくなってくるのではないかとも思います。
店をやっている者は世に問いたい自分の美意識と、実際に売れるモノとのバランスを取って店を成り立たせているところがあります。
流行と自分のやりたいことがどんどん離れていくことに危機感を持つこともあるかもしれません。

28年間雑貨屋さんとしてやってきて、業態を変えることはとても勇気のいることだと思うけれど、その気持ちはよく分かりました。
いろいろな想いがあったと思いますが、やりたいと思ったことを思い切って始めた店主さんの決断に賛同しました。
店の仕事が何年続こうとも、自分がいくつになろうとも夢を持ち続けて、守りながらも攻める心を忘れないようにしたいと思いました。