服や靴などが好きで、雑誌を見たり、お店をよく覗いたりしていました。
何か本などで紹介されているものを見ると、それを手に入れたくなったりして、流行は追わないまでも、情報は追ってきたかもしれません。
しかし、そういったことも何か無駄なこと、自分の営みにあまり関係のない無意味なことのように思えてきましたし、情報に振り回されるよりも、自分で好きな服をコーディネートして着たほうが楽しいことが分かってきました。
それに本に紹介されている服や靴を手に入れて、同じものを身に付けている人と合った時に恥ずかしくないのか、という問題があって、私は店をしているから尚更そういうことが起こる可能性がある。
そして、本に紹介されているからといって、それが一番良いものなのか。他にいいものがあって、本で紹介されているものはモノに力がないから宣伝に力を入れて補っているのではないかという疑いも持ち始めました。
それよりも必要に迫られた時に、街を歩いて、店でインスピレーションを刺激されるものを選びたい。自分の直感とセンスを信じて、値段の高い安いではなく、自分が大切にできるものを選びたいと思い始めました。
さすがに50歳(今年)になると、本のような服装をしたいということは思わなくなって、自分がどうしたいか、どういうものを着たいかということを考えるようになりました。
誰かみたいになりたいという気持ちはなくなり、自分をどう表すかということを考えるようになりました。
それは服装に限ったことではなく、生き方においてもそうかもしれません。
他の誰かが考えたことよりも、自分の考えを深めるようなことに興味が移っていく。
自分の考えに凝り固まることは危険だけど、自分の内側から湧き出たものを大切にしたいという心境になってきたのは齢のせいだと思う。
余計な話だけど、ファッションの業界には恨みがある。シーズン前に気に入って買ったコートがシーズン終盤には同じ店で半額で売られていたことです。
それは定価で買っている客への裏切りではないのかと思う。
そんなことは普通にされていることだと誰もが言うかもしれないけれど、そういうことを繰り返してきたから、皆セールでしか買わなくなる。
セールはお客からの信用を自ら失わせる行為で、いくら売上に困ってもやってはいけない、最後の手段だと思っている。
話が反れてしまったけれど、服装でも生き方でも、情報の惑わされずに自分らしくするということは、お手本のないものなのでとても難しいけれど、本を見ながら何か違うとモヤモヤと思っていたことは、そういうことだったのかもしれない。