元町の夕暮れ ~万年筆店店主のブログ~

Pen and message.店主吉宗史博の日常のこと。思ったことなど。

自分のコーディネート

2018-02-25 | 実生活

服や靴などが好きで、雑誌を見たり、お店をよく覗いたりしていました。

何か本などで紹介されているものを見ると、それを手に入れたくなったりして、流行は追わないまでも、情報は追ってきたかもしれません。

しかし、そういったことも何か無駄なこと、自分の営みにあまり関係のない無意味なことのように思えてきましたし、情報に振り回されるよりも、自分で好きな服をコーディネートして着たほうが楽しいことが分かってきました。

それに本に紹介されている服や靴を手に入れて、同じものを身に付けている人と合った時に恥ずかしくないのか、という問題があって、私は店をしているから尚更そういうことが起こる可能性がある。

そして、本に紹介されているからといって、それが一番良いものなのか。他にいいものがあって、本で紹介されているものはモノに力がないから宣伝に力を入れて補っているのではないかという疑いも持ち始めました。

それよりも必要に迫られた時に、街を歩いて、店でインスピレーションを刺激されるものを選びたい。自分の直感とセンスを信じて、値段の高い安いではなく、自分が大切にできるものを選びたいと思い始めました。

さすがに50歳(今年)になると、本のような服装をしたいということは思わなくなって、自分がどうしたいか、どういうものを着たいかということを考えるようになりました。

誰かみたいになりたいという気持ちはなくなり、自分をどう表すかということを考えるようになりました。

それは服装に限ったことではなく、生き方においてもそうかもしれません。

他の誰かが考えたことよりも、自分の考えを深めるようなことに興味が移っていく。

自分の考えに凝り固まることは危険だけど、自分の内側から湧き出たものを大切にしたいという心境になってきたのは齢のせいだと思う。

余計な話だけど、ファッションの業界には恨みがある。シーズン前に気に入って買ったコートがシーズン終盤には同じ店で半額で売られていたことです。

それは定価で買っている客への裏切りではないのかと思う。

そんなことは普通にされていることだと誰もが言うかもしれないけれど、そういうことを繰り返してきたから、皆セールでしか買わなくなる。

セールはお客からの信用を自ら失わせる行為で、いくら売上に困ってもやってはいけない、最後の手段だと思っている。

 

話が反れてしまったけれど、服装でも生き方でも、情報の惑わされずに自分らしくするということは、お手本のないものなのでとても難しいけれど、本を見ながら何か違うとモヤモヤと思っていたことは、そういうことだったのかもしれない。

 


親の気持ち

2018-02-18 | 実生活

息子が4月から神奈川県の歴史の教師として働くので、横浜にマンションを見つけて帰ってきた。
私は何で教師という大変な職業になりたいのか全く理解できないけれど、息子は祖父と専門まで同じ仕事に就くということになり、祖父と孫の繋がりに不思議な気がしています。

横浜は神戸と違って大変広く、絞りようがないように思うけれど、そこそこの家賃で、交通の便が良いところが見つかったようで、一安心している。

これでようやく引っ越しなどの準備に入ることができます。

息子はすぐに辞めて教員採用試験の受験勉強を始めたけれど、昨年一度就職している。

その時に、私の父や妻の兄姉たちから就職祝いをもらったけれど、今回もまた皆律儀のお祝いをくれた。
本当に有難いことで、そういったもののおかげで息子はスタートからハンディを背負わずに働くことができます。

一人っ子ということもあって、我が家のような豊かでない家でも、できるだけのことは息子にしてやれたと思うけれど、本当に大変だった。

皆どうやって子供たちを大学に通わせているのだろう。

そうやって考えて、自分も両親に大変な想いをさせたのだとやっと気付く。

私の場合、1歳下の妹が京都で下宿して、芸術系の短大に行っていたからその負担は私の想像を遥かに超えると思っている。

父の高校教師の給料がどうなのか分からないけれど、本当に大変だったと思うけれど、大学を中途半端な成績で卒業して、親が自慢できるような大きな会社にも就職することができなかったできなかったことは申し訳なく思っている。

母は亡くなってしまったけれど、父は今の私をどう思っているのか、毎週会っているけれど聞いたことはない。

でも、父のような堅い仕事に就かず、浮き沈みの激しい自営業をしている私をきっとハラハラしながら見ているのかもしれないと思うと、これも申し訳なく思っている。

私と違って息子は大した心配も掛けなかったし、塾にも行かなったし、半期だけだったとはいえ返済不要の奨学金を引っ張ってきたりして、親孝行だったと思う。
でも私は息子に、自分が親にしてもらっただけのことをしてやれたのだろうかと思うと、これもまた申し訳ない気持ちになります。

 


自分にとって万年筆とは何か?

2018-02-11 | 実生活

台湾の出版社の方が当店を取材してくれた。

通訳の方同伴とはいえ、気付いたら海外から記者の方が普通に来られて取材していく時代になったのだと思いました。

7年ほど前に時計ライターのNさんが台湾の雑誌に持っているご自分のコーナーで当店を取り上げて書いて下さった時は、台湾は遠く感じたけれど、今ではあまり距離を感じなくなりました。

それだけ台湾からお客様もよく来られるし、台湾の方の記事もフェイスブックなどでよく見るようになったからかもしれません。だから、台湾東部の地震は本当に人ごととは思えない。

台湾からのお客様もリピーターの方が増えてきたようで、取材の方もハーバーランドや北野などの観光スポットではなく、一般観光客があまり行かないマニアックなスポットを中心に取材しているとのことで、当店はマニアックなスポットなのだと若干の苦笑はありました。
しかし、その本に当店を入れていただけたのは、文具好きの担当の方の意向だったと後で知り、それもまたとても有り難い話だと思いましたが、ご意向がなければマニアックなスポットにも挙げられてなかったのかもしれない。

取材の中で、私にとって万年筆とは何かという、情報誌らしからぬ質問があって、「万年筆とは書くことを大切に思っている心の象徴」と答えましたが、「難しい」と言われました。

正直に言ってくれて、かえって気持ち良かったけれど、万年筆を精神的なものと結びつけたいという想いは、齢をとるごとに強くなっている。加齢は人を理屈っぽくさせるのかもしれない。

20代半ばに万年筆で書くことに夢中になって、今でも万年筆でいつも何か書きたいと思っている。

仕事をしながらずっと追究しているのは、自分がなぜ万年筆で書くことに夢中になったのかを解明することと、自分の加齢とともに変化する万年筆を通して伝えたいことを伝えることだと思っています。

時代は本当に変化していて、それでも自分は同じところに居ることができている。それはきっと恵まれたことなのだと思っている。


大きな流れに流されている

2018-02-05 | 実生活

個人事業の醍醐味は、方針を自分で立てて、思った方向に向かって行けることで、これができなくなったら本当につまらないと思う。

同じことを繰り返し考えて、出した結論の通りに動けるやり方が自分には合っている。

大して機転の利く方ではないし、精力的に行動する方ではないけれど、人と同じようにやりたくないという天邪鬼と、自分の考えは自分で気付くまで曲げない頑固のために、自分の行き先は自分で決めるしかなかった。

方針を自分で立ててと言ったけれど、アイデアは人と話していて突然全てがつながるような感じで形になることが多いので、実は人と話すということは自分にとってとても大切なことなのだと思います。

他にもいろいろ辛抱強く教えてくれる先生のような人がいて、それはきっと時間をかけてビジネス書を読むよりも、私にとってははるかに勉強になって、考えるきっかけになっている。

そういった人たちから聞いた話や、話していて受けた刺激によって自分の考えは生まれているのだと思います。

そういった刺激を受けて、自分というフィルターを通して出た考えは完全に自分のオリジナルの考えだと思っていたけれど、それももしかしたら世の中の大きな流れに沿ったものなのではないかと思うようになりました。

自分のしていることは、流行に流されたり、世間の風向きを見てしていることではないと思っているけれど、自分の出した結論やその後の行動も、世の中の大きな流れに流されているだけで、自分のその流れの通りの結論を出しているだけなのではないか。

そう考えるとああでもない、こうでもない、こうする方が自分らしいと考えて悪戦苦闘することがバカバカしくなるかもしれないけれど、大きな流れの中にあったとしても、自分で考えて行動していると思いたい。自分で決めた方向に行っていると思いたい。

まだ自分で考えてもがいているから大きな流れに乗っていられるけれど、何も考えなければ流されることもなくただ沈んでいくのではないか。

そう思うと流されているのも悪くないと思えます。