元町の夕暮れ ~万年筆店店主のブログ~

Pen and message.店主吉宗史博の日常のこと。思ったことなど。

命日

2014-04-29 | 実生活

「何日やった?」と父に聞いて大いに呆れられたけれど、この季節は結婚記念日とか誕生日やらでゴチャゴチャになってしまいます。

明日が母の命日で、あれから22年経ってしまったのは、本当に早かったと思うけれど、その当時と今ではいろんな状況が大きく違うので、やはり時代は流れたと思わずにはいられません。

母が亡くなったのは49歳で、気付いたら自分もその年齢に近付いていて、そう考えると若すぎた死だったのかもしれません。

悲しみは亡くなった日よりも、覚悟を決めた余命を宣告された日が一番強かったと記憶していて、母にどう言おうか迷っているうちに亡くなってしまった。

今から考えると母は気付いていて、私たちに気を遣ってだまされている振りをしていたのだと思いますので、とても情けなく、後悔している。余命をお互い分った上での行動もあったのにと思っています。

でも私は母の死で救われました。

抜け出せないでいた楽しくて、無責任なフリーター生活を止めて就職しようと思ったのは、母の死でさすがにマズいと感じたからでしたで、それがなければズルズルとその生活を続けていて、今きっと困っていたと思います。

若い頃は楽しくてそれでいいけれど、その結果は20年後にやってきて後悔するのだと思うと、母が自分の死と引き替えに私を人生のスタートラインに導いてくれたことに感謝している。

今もし母が生きていたら、私が書いているこのブログなどをきっと読んでくれていたと思うし、やりたいことを見つけて店を始めたことを喜んでくれていたと思うけれど、そうはならなかった。

人の生涯は本当に短くて、その人が亡くなればその人が生きた跡はなかなか残らないけれど、母が生きた跡、死によってもたらした波紋は私の人生という形で残って、動かし続けているのかもしれない。


さ迷う特権

2014-04-27 | 実生活

今年は休みがあまりつながっていないですが、ゴールデンウィークがとてもいい天気で始まり、私もいつもと違うようなワクワクする気分になっています。

祭日とか、週末がプライベートでは関係ない生活になって20年以上になります。

それは私にとってもう当たり前のことになっていて、ゴールデンウィークはお客様が遠方から来て下さることが多く、後半はヒマなことが多いという仕事の上で考慮するべき期間です。

何度も書いているけれど、仕事をするようになる前のゴールデンウィークに思い出はあって、最も思い出深いものは、大学1年生の時の一人で京都を巡る旅でした。

ゴールデンウィークの大学が休みの間、毎日京都に通い、有名なお寺や名所をほとんど周った。

大学生になったばかりの空想の世界に生きる文学的なものが好きな青年には、どの場所も空想を刺激されるところで、その旅を包んでいた明るい空気を今も懐かしく思い出します。

自分はどこにでも好きなところに行くことができるという感覚を実感しました。

今から考えるとその時にも、仕事のようなやりたいことは当時の私にも漠然とあったけれど、それをするためにはどういったキャリアが必要かとか、どういう努力をしないとけないかとか、あまりにも無知でありすぎました。

自分の夢を語ることが恥ずかしいと思っていた、そしてその夢を語る大人が近くにいなかったということが、当時の自分の夢を実現するために欠落していた部分だったと分りますが。

若者というのは無知で、身の程知らずで、自分がやるべきことがあるような気がしていて、それを大人が誘導してあげないといけないと思います。

でもいろいさ迷うことができるのは20代までの特権で、どこかのタイミングで、自分にあるものをわきまえて、それで生きていく覚悟をしなければならない。

それが20代までで、だから私たちは30歳目前で、このままでいいのかと焦りにも似た気持になったのだと思います。

そういうことというのは、当たり前ですが30歳になったことがないと分りませんが、大人が若者に話して、教えといてあげることなのかもしれません。

ある一人の若者のさ迷いの話を人伝えに聞いて、考えさせられました。


ダイアリーのある風景展

2014-04-22 | お店からのお知らせ

お持ちの日々お使いの手帳と万年筆の風景を写真におさめた「手帳のある風景展」の締め切りが近付いています。

まだ作品がそれほど集まっておらず、こちらの呼び掛けも弱かったと反省しています。

作品の集まりにくい理由は他にもあって、手帳の中身で人に見せられるものが少ないという理由もあるようです。

確かに人に見られると思うと気が引ける、なるべくなら見られたくないという気持は私にもあります。

人に見られてもいいページを作り上げるのもヤラセみたいだし、その労力も大変です。

そこで中身が写っていない写真でもいいのではないかと思い始めました。

すでに作品をお預け下さっている方には申し訳ないけれど、日々お使いの手帳と万年筆が醸し出す独特の雰囲気が収まったものを募集したいと思います。

初めての企画で、なかなか定まらず、申し訳ありませんが、ご協力お願いいたします。


同じ時代に生きる

2014-04-20 | 実生活

毎日仕事をしていてよく思うのは、一人でなくて本当によかった。仲間達がいてくれてよかったということです。

一人でずっと仕事をしていると狭い考えに捉われて、同じ思考の中をグルグル回って、とてもつまらないことをしていたと思います。

きっと6年半も続けることはできなかった。

例えば商品の企画を思いついたりした時に、考えた自分は当然良いと思っているけれど、きれいな絵が書けて、辻褄の合った企画書が書けたら、その作業に惚れてしまって、その企画自体が良いと勘違いしてしまうことがあります。

仲間がいて企画を話すと、良くないものは反応が悪い。何よりも話しているうちに自分で気付いてしまう。

やはり自分一人の考えというのは私の場合、つまらないものになることが多いので、一人で店を長く続けておられる方を知ると、本当にすごいと思うし、その方の気持の強さのようなものを感じます。

私たちの仕事人生は40年か50年くらいの短いもので、それは地球の歴史の中ではほんの一瞬の出来事でしかない。

一瞬のうちに同じ時代に生きることができた仲間たち、そしてそれを見守ってくれているお客様方とは、本当に縁があったのだと思います。

いろんな難局が訪れるし、時代は大きく変わろうとしているので、私たちも、お客様方もともに仕事において生き残るのに難しい時代だけど。

私たちは皆生き残るために依存し合って共同するのではなく、面白いから共同する。

ご飯のためではなく、ロマンのため(それを捨てたらご飯が食べられなくなることも分っているけれど)に、それぞれの独立性を前提としてたまに共同する集まりができていることは、もしかしたらとても恵まれている、奇跡に近いことなのかもしれないと、あるお客様とメールでやり取りしていて思いました。


デルタコサック

2014-04-15 | 仕事について

今まで好んで、ペリカン、アウロラ、カステル、オマスなどの装飾がない実用一辺倒な万年筆を使ってきました。

それらの万年筆は書くことをもちろん楽しくしてくれたし、デザインも自分の好みに合っていたので、自分には実用一辺倒という感じではない、持っていても楽しいものでした。

子供の頃から、父や母が持って帰ってくるカタログやモノの本を見るのが好きで、そういうものを見ながらこれは好き、これは嫌いという選別をしていて、それが現在の自分のモノの見方や好みを確固たるものにしたと思っています。

その好みを持ったまま45歳になりましたが、先日本当に自分の意図せずしてデルタのコサックという万年筆を手に入れました。

ボディが赤色でキャップがシルバー、キャップトップにはゴールドの塊のような天冠が載っていて、私の感覚から言うと派手派手しい。

インク吸入機構はゴムチューブで、ボディのレバーを起こして、倒すことでインクを吸入するという酔狂なもの。

吸入機構は、ピストン吸入式よりも簡単で楽しいことが後で分ったけれど。

その万年筆は自分の好みには全くなかったもので、自分では絶対に選ばないと思いましたが、使っているうちに、何か愛着のような、もしかしたらそれよりも少しだけ激しい気持ちが湧いてきました。

自分には派手だと思う色合わせや装飾も見て、持っているだけで楽しく、意味もなく触っていたいような、気持いい存在感が手の中に感じられる。

書いた感じは、調整の具合で変わるけれど、ムニュという感じでインクが出て、自分には気持ち良く書くことができます。

こういう万年筆、そして万年筆の楽しみもあったのだと気付きました。

もちろん存在は知っていて、普通の万年筆ではない、何か精神的なものの象徴になる万年筆だと思っていたけれど、自分で手を出そうとは思っていませんでした。

コサックの万年筆でいつも思い浮かべる人物が大和座狂言事務所のK女史と工房楔の永田さんで、お二人とも自分の信念を強く持った気持の強い人で、偉そうな言い方だけど私は一目置いている。

そんな人たちが一目で自分に必要なものだとして手に入れている所に立ち会って、自分にもそんな自分を象徴する万年筆、自分の精神性を表すものが欲しいとは思っていましたが、まさか同じものが自分の手元に来るとは思っていませんでした。

このデルタコサックは、自分の凝り固まったモノの好みをほぐして、解放するために万年筆の神様がもたらしてくれたものなのかもしれないと思い始めています。


ペン先調整

2014-04-13 | 仕事について

5月11日(日)に万年筆若手の会というところでお話をさせていただくことになり(https://sites.google.com/site/youngfountainpen/)、その内容についていろいろ考えています。

 

ペン先調整は万年筆を販売するための必要なスキルで、それだけが売り物になるのには違和感を持ちます。

ペン先の先のペンポイントは残すものであって、削るものではないからで、ペン芯との合わせ、寄りの調整をした後で止むを得ずに最低限削るものだと思っています。

ペン先調整は、技術的には大して難しいことをしているわけではないですが、きっと長年養ってきた目と数々の気付きが必要なことだと思っています。

過去に万年筆を調整させて下さったお客様には申し訳ないけれど、ペン先調整においては毎日とは言わないまでも、日々何らかの気付きがあって、上手くなっていく。

それはちょっとしたコツのような小さなことだけど、それについて考え抜くことで突然降りてくるようなものでした。

以前のそれに気付いていなかった自分を恥ずかしく思いますが、それは若い頃の自分の至らなさと同じで、昨年の自分よりも今年の自分の方が良くなっているに決まっているので、仕方ないことなのかもしれません。

でもペンポイントは、焦れば焦るほど形を変えず、ビビればビビるほど削れ過ぎてしまうということを知るのに何年もかかった。

当店がペン先調整だけで成り立っているわけではないけれど、それでもペン先調整を始めて6,7年の人間がそれを仕事として始めて、続けてくることができたのは、お客様の希望通りにしたいという想いがあったからなのかもしれません。

時間がかかってもいいから最終的にお客様が求める万年筆に、ペン先調整によってすることができたらそれで良くて、スピードを競うものではないと思うからできたのかもしれません。

おかげでキャリアは15年近くになって、いろんな迷いはなくなり、私のやり方、考えが正しいと自信を持ってやれるようになりました。

こうしたいという理想の形があって、それをまずお客様に提示して試してもらい、そこからお客様のお好みを聞いたり、様子を伺って合わせるというふうに、40代の販売員らしいやり方を今はしています。

私が齢をとるとまたその提示の仕方や、お客様とのやり取りは変わってくると思いますし、気付きもまたあるのだと思うと、永遠に完成しないのかもしれません。


2014-04-08 | 実生活

最近は会社勤めの男性でもヒゲを生やしている人を多く見掛けるようになって、私が働き始めた時とは変わったなと思います。

似合っていて、見た人に不快感を与えなければいいと思うし、男らしさが強調されるものなので、そのように見られたいと思う男性が増えているのはとてもいいことだと思います。

私の周りでもヒゲを生やしているひとは珍しくなく、ル・ボナーの松本さんの顔にヒゲは最早なくてはならないものになっていてかっこいいし、ライティングラボの駒村氏もヒゲでさらに男前を上げている。

先日店に来てくれて、高校以来の28年振りに再会した同級生のS也くんもヒゲを生やしていてカッコよくて、当時男前だった子は齢をとってもやっぱり男前だと思いました。当時ヒゲはなかったけれど。

先週の休日の信号待ちの車の中から、横断歩道を歩く人たちを見ながらの会話
「最近ヒゲの男の人が多いよね」
「そうやな、似合う人だったらいいね。仲村トオルとか西島秀俊とかなら許せる」
「それただの男前やろ」
という会話の後、私の顔を見た妻が
「あれ!ヒゲは?」
「気付いていると思ってた。もう半年前からないで」
私が5年以上あごに生やしていたヒゲを剃ってしまったことに、妻が気付いていなかったことに驚きましたが、ヒゲというのは特長にはなるけれど、影の薄いパーツだと思いました。

数分前に会った人のヒゲの特長をはっきりと覚えている人は少ないのではないかと思います。


いい大人の顔になりたいと思います。

ヒゲを生やす人はきっと私と同じ想いでヒゲを生やしているのだと思うし、ヒゲは男の顔に深みのようなものを与えることが多いものだと思っています。

鏡に向かって自分の顔を見た時に、最近何となく違和感を覚える。

鏡に映っている人物が自分と同一人物であることが不思議に思うような感覚。

私の外見はまだ一人の男が45年間いろんなものを背負って生きてきた重みのようなものが表れていなくて、でもそれはきっと私がそういう生き方ができてこれなかったから、こういう顔なのかもしれません。

顔には、特に男性の顔にはいくら言葉や服装で取り繕っても、誤魔化せないものが表れるのだと思います。

それはきっと人相という、顔の作り、美醜ではなくて、醸し出す雰囲気のようなもの。

私たちは人を見て、特に顔を見て、何か先入観のようなものを持ってしまうことがあります。

でもそれは本当にナンセンスな、根拠のないもので、そのイメージはテレビなどで似た顔の俳優さんが悪い役をしていた、くらいの他愛もないものです。

世の中に人相学や占いのようなものがあるけれど、どんな根拠があるのだろう。


店に求められるもの

2014-04-06 | 仕事について

裾上げをお願いして、送ってもらったスラックス2本のうち1本の丈が短かった。

気のせいかと思いましたが、靴を履いて歩いてみるとやはり少し短い。

家に引き返そうかと思いましたが、バスに乗ってしまっていましたので、そのまま店に来てしまいました。

きっと自分しか分らない、人からはそれほど短く見えるというほどではないようなこだわりで、髪型のわずかな違いのようなものなのかもしれませんが、私はズボン丈が気になって、電車の中での考え事に集中できませんでした。

妻によく言われるけれど、私は裾丈をやたらに気にするところがあって、他の人から見て他に気にしたら?というところがあったとしても、ズボンや服の丈が気になります。

上着の丈や夏のインしないタイプのシャツの丈もものすごく気になります。

いつも仕事の時に着ているプルオーバーの半袖シャツは、裾を切ってちょうどいい長さにしてもらっている。

私が裾丈を気にするのはきっと背が低いからで、長すぎる上着と、短すぎるズボンには特に警戒している。

これらがファッション的にどうかは分らないし、流行に反しているのかもしれないけれど、私の自分でも執拗だと思う気になるポイントに付き合ってくれるお店にはとても感謝している。

これと同じことが万年筆にも言えるかもしれない。

ルーペでペン先を見た時に私がこれが美しい、正しいと思っても、それを使う人には気になるところがあって、それを気にするなと言っても気になるなら仕方ない。

私が思う正しさを伝えた上で、それを解消してあげることが大切なのかもしれないと立場を逆にして考えると分ります。

お店のこだわりやセオリーを教えてあげることも大切で、これがないとお客様の心に響かない、忘れられた存在になってしまうけれど、これをお客様に説明した上で、各人のこだわりをなるべく叶えてあげる努力をすることがお店で働く人皆に言えることなのかもしれない。

店の主張とお客様のこだわりを摺り合わせることができることが求められている時代なのかもしれません。


誇り

2014-04-01 | 実生活

少し前の話になるけれど、百貨店のお歳暮売れ残りセールの模様をテレビで観ました。

カートいっぱいに商品を詰め込んでいる人、商品を取り合う人の姿、この光景を背景に売れていると喜んでいる百貨店担当者。

百貨店がこういうことをやってはいけないと思いました。

人のプライドを捨てさせるような企画を、売れると分っていてもやらないのが、美しい暮しを提案して、夢を見させてくれる百貨店の存在意義で、それを忘れてしまったら衰退の道しか待っていない。

安く、たくさん欲しいという、人の一番弱いところをついた商売にプライドは感じられず、それは様々な業界で普通のことになっています。

どの企業も自分達の扱う商品、サービスで人を幸せにすることを企業理念に盛り込んでいると思うけれど、そのモノのさばき方はそれに合っているとはとても思えない。

お店は、心を込めて、愛情を持ってお客様を先導する立場にあると私は思っているので、そのお店がお客の品格を下げるような場面を演出してはいけないと、商売人の端くれとして、そのなりふり構わない姿勢を恥ずかしく思います。

私は一緒に仕事をする取引先、お店の備品やサービスを提供してくれる会社など、ここの考え方、仕事の仕方に共感する、ここにお金を払いたいと思うところとだけ付き合いたいと思っていて、いくら安くてもその仕事の仕方に品格が感じられなければその話しに乗りたいとは思わない。

お店や会社は、お客様からそういう目で見られることを意識するべきで、商品の売り方に誇りを持ってほしいと思います。

狂言師の安東伸元先生がいつも言っておられる「日本人としての誇り」は経済という世界の中では失われてしまって久しいのかもしれないけれど、その揺り戻しは必ずやってきて、誇りを持って仕事をしている企業が最後に残っていると信じています。

売り手、作り手は誇りを持って商売をし、お客様にその商品を手にしたことを誇りに思ってもらえるようにしていくことが、私たちが誇りを取り戻す第1歩になるのだと思っています。


だから、当店で商品を買って下さいという話しだと、それこそ誇りも何もあったものではないので誤解なきようお願いします。